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タクシー運転手のヨシダさん  作者: 佐野和哉
タクシー運転手のヨシダさん
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完結編・その8 死神

「おわあああああああああああ! うわあああああああ!!」

「私は釈放されたその日、家にも帰らず遅くまで酒をあおっていました。場末の酒場で、薄汚れた酔っ払いどもの喧嘩やくだらない話声に巻かれている方が、私の心には優しかった。現実と向き合い、彼女と息子のため、あの部屋に帰る事をしなかった」

 ヨシダさんはついに絶叫を始めた。それなのに、Jさんは意にも介さず話し続けた。僕は彼らを交互に見ながら、じっと座っているしかなかった。


「うわああああああああああああああああ! わああああああああ!!」

「その店がカンバンになると言いに来たのは、年を食ってぶよぶよに弛んだひどい女でした。時代遅れなうえ下手くそな化粧越しにシミの浮いた、これまで舐め続けた怠惰と辛酸をそのまま顔に塗ったような汚い女。でも、私は彼女の誘いに乗って、その店の二階へ上がっていきました。あまりに安い女と、その顔と同じぐらい汚い部屋。ブタ箱よりはマシでしたが、私が手に入れた幸せなあの部屋とは、比べ物にならないほどの、暗く薄汚い世界。それが、あの時の私の心そのものだったのかも知れません」

 ざわり、と、また部屋の中の空気が動いた。この部屋の空気の中に居る、暗闇そのものに、まるで何かの意思があるように。


「ああああああああああああ! わああああああああああああ!!」

「何年敷きっぱなしだったのかわからないぐらい臭くてぺったんこの布団。汗臭い枕。固くてごわごわのチリ紙。女の差しだした不味い煙草。窓の外は死んだように静かな朝。青白い空気に浮かび上がったドヤ街は、カラスと野良犬だけがノコノコ歩く世にもくだらない世界でした。私は、またこんな所へ戻って来てしまった。抜け出して、遠く離れたはずの、嫌な世界」

「ぎゃあああああああああああああああああああ!!」

「部屋の中はひどいにおいがして、それは窓を開けても同じでした。この街のにおいが、そのまま部屋の空気と女の体臭になっていつまでも私に纏わりついていました」

 Jさんの目は、かつての街並みを見ていた。Jさんの記憶も、かつての時代に戻っていた。ずっと心の底に澱のようにとごんでいた、爛れた闇の彼方へ。

「汚い街が起き出して、代わり映えのない一日を性懲りもなく始める。つくづく嫌気がさしましたね。反吐が出る。ふらふらと出歩いていた私は、朝から下っ端を怒鳴りつけている土方のオヤジを見かけてどうにも我慢がならなくなった。それで後ろから殴り飛ばした。元々犬畜生みたいな顔をしていた威勢のいいオヤジが突然、へなへな、と馬鹿みたいな顔をして崩れ落ちるのを見て……私は実に気分が良かった。縄張りの事で茣蓙を引っ張り合って喧嘩してる乞食を二人まとめて橋の上からドブ川へ放り投げたり、舞い戻った日雇いの飯場で汁物の具が多いの少ないの言っている連中のお椀を取り上げてそいつの頭ごとカチ割ったり。もうね、この街にしがみついて生きているすべての連中、モノゴト、女どもが心底憎かったんですよ。くっくっくっく。今思えば、誰よりもこの街に足をすくわれていたのは、私だったんですねえ。あいつらは普通に生きてた。何を憚ることもなく、あの街で暮らしていた、あれがあの街の形、人生だったのでしょう。私は、それを認めたくなかった。あの街でカネを得て、生活をして、すべてを失った事を、認めることが出来なかった」


「ああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

「その日も、また次の日も。私は日雇いの仕事をし、安宿で寝泊まりしながら抜け殻のように過ごしていました。彼女と息子の事は、考えなかった。必死で考えないようにして、仕事と給金の事だけを考えていました。日雇い仕事で得た僅かな金も、安い酒と女に消えていきました。毎晩とまではいきませんでしたが、探せば遊ぶ女なんていくらでもいましたからね。端金でも相手してくれる人は多かったのです。素性も、名前も、何も知らない女と裸になっている時は、余計な事を考えなくても良かった」

「よ、余計なことしてるのは」

 僕は漸く、渾身の力を振り絞って口を開いた。高熱を出して悪い夢を見ている時のように、唇と喉が震えてしまって声にならない。胸の奥で渦巻く嫌悪と怒りが熱を持って肺の中で膨らんで苦しい。それでも言わずにはいられなかった。あんたが悪いんじゃないか、Jさん、あんたが奥さんと子供を見捨てて逃げ出したばっかりに!

「あ、あ、あの時、あんたがもっと強ければ、あんたには子供と奥さんが待ってたんだろ!? あんたがもっとしっかりしていれば」

「うるせえ!」

「ぐっ!?」

「ああそうさ、その通りだ……どいつにもこいつにもそう言われて後ろ指刺されて生きてきたんだよ。絶望して、目を背けることも出来ずただ逃げていた。それが、平和で温かい場所にいる連中は何より気に食わないのさ。自分以外の誰かが、その身に降りかかる火の粉を払わないのがどうしても納得いかない! いつ、どこで、どんな理不尽がてめえに降りかかるかもわからねえ! だからだろうな!! 俺みたいなやつを見つけちゃ指をさすんだ、そうだろう!?」


「お、おお、おおおお、か……かっかっ……ぐっ……うううう」

 ついにヨシダさんはその場に突っ伏し、それでもまだうめき続けて居た。その無残な親友のほんの数十センチ後ろで、電気ランタンに照らされたJさんの不気味な相貌がぎらりと光った。

「お、俺は働いた。働いて、働いて、その金で飲んだくれて、家族を、あいつらを忘れようとした。いやむしろ、何の罪もない妻と息子を憎みさえした。あいつらとさえ出会わなきゃ……ちくしょう。あんな嘘っぱちみてえな小奇麗な生活しちまって、だから今こんなに辛いんだって。そんな事は許されるわけがねえ。でも、そうでもしなきゃ生きてることさえままならねえ。だから俺は前にもまして、安い女を掃き溜めみたいに使った。次々に、えり好みどころか動いてる女なら何でもいいってぐらいにな。どっちみちロクな奴なんていやしねえ。俺は俺が満足さえすりゃあよかったんだ」

 Jさんの背後でざわめく闇の気配が、一層強く、とげとげしくなった。

「ある晩に抱いた女が次の朝隣で死んでた事があった。そいつは重度の薬中だった。俺の次の客と口論になって刺し殺された女もいた。なじみの女で街角に立ってたらトラックが突っ込んで即死、なんてのも居た。まだまだある。で、だ。そのうち、俺がのっかった女ばかりが次々くたばってるのに気が付いた」

 背中がぞくりとした。Jさんの顔からぎらついた欲望が消え、その目玉は怯えるような動きを見せた。

「安酒場の二階の、あのひどい女。あいつも死んでた。煙草の不始末で店が燃えて、二階でその晩の客ごと……木炭みてえになってたってさ。みんなみんな哀れなもんさ。くだらねえ街で、くだらねえ男と生きて、救われねえで死んじまうのさ。そして俺が乗っかってきた女どもの背中じゃ、毎度あの憎たらしい死神がニタニタ笑ってやがったんだ。そんな中で、俺はついに答えを出した」

 ひゅう、と、僕の頬を風が撫でた。窓も扉も閉めきられた、この暗い部屋に風が吹いた。

 ごくささやかな気流。誰かが僕の頬に向かって息を吹きかけたら、こんな感じなのだろう。

「俺は焼けた店を見に行った。跡形もなくなった店の前に突っ立ってバカみたいに煙草を吸ってたら、後ろから声をかける奴がいた。あいつだ、俺に妻の事を話してくれた、あの浮浪者。そんで、やつが言うんだ」

「おおー久しぶりだねえおまえさん、あの大家、死んだってよぉ。あったりめえだよなああんな奴」

 Jさんはかの浮浪者がそうだったのだろう、と思われる口ぶりを真似て言った。

「あーいつ病院でさーんざんぱら苦しんでよぅ、最後はアッチが腐っちまって。んでそっからバイ菌入ってついこないだ死んだってよ」

 あんまりな死に方だが、こいつにも同情の余地はない。

 ふと顔をあげると浮浪者の口真似をするJさんの顔がどす黒く膨れてきていた。

「俺はそれを聞いて確信した。俺はもっとずっと若いころから他人が憎かった。どいつもこいつも、ずっとずっとだ。それはこの街に流れ着いて、家族を持っても変わらなかった。ずっと心の奥底では誰かを憎んでた。で、俺が憎んだ奴はみな死んだ。手当たり次第漁ってきた女ども、この手で殺してやろうと思った大家、近所をウロウロしてた連中、どいつもこいつも変わりゃしない。俺に関わるとみんな死ぬんだ」

「Jさん、違う。それは……ちが」

 僕はJさんの言葉を遮りたくて割り込んだ。でもJさんは続けてしまった。

「死神に取りつかれていたのは、この俺だったんだ!」

「Jさん!」

「やっと気づいた。俺は誰かを憎むことでしか生きられなかった。だから、どんな些細な事でも恨みに思って、気に入らねえと思いながら生きてきた。けど、それが全部あの死神の餌だった。俺の中のぼんやりとした影は、やがてあの絶望と悪徳、退廃と混沌とをありったけぶちまけたゴミ溜めみてえな街で、急に大きく、濃くなっていった。あの街は死神にとっちゃ天国だった。俺たちにゃ地獄だったがな。そして俺は悪いことに、あの地獄の中でささやかな幸せを夢見ちまった……罠だったんだよ、死神の。俺は幸せだった。もう誰も恨まなくなった。毎日が何もかも素晴らしかった。あんな晴れがましい気持ちで生きていた事なんて、本当に今までただの一秒もなかった」


 床にうつ伏せたヨシダさんは、もう何も言わなくなっていた。背中まで汗びっしょりで、ぐしゃぐしゃになった髪の毛と汚れきった衣服からはすえた様な匂いがする。ひどい有様だった。

「それがよ、馬鹿みてえに浮かれた挙句あんな終わり方してよ。俺は死神に首根っこを繋がれた、惨めな鵜飼いの鵜だったってわけよ。はっ! くだらねえのは俺の方だ。どんな馬鹿野郎より、ゴミクズみてえなノ―タリンのヒトモドキより、俺が一番惨めでくだらねえ! あの街で幸せを掴んだつもりで、そこら辺をウロウロしてる奴らとてめえを比べていい気になってた。その報いがよ、あんな、あんなことだったなんて、ちくしょう。くそったれ、ちくしょう……!」

「Jさん」

「……」

「……」

「Jさん!」

「……」

「……」

 Jさんは俯いたまま、ヨシダさんは突っ伏したまま黙り込んでしまった。電気ランタンの白すぎる光と、その奥の深すぎる暗闇がくっきりとわかれた忘れられた小部屋の中で、長い長い沈黙が生まれた。

「ぼ、僕は」

 僕は震える喉とお腹をぐっと押し込めるようにして声を出した。

「僕は、Jさんが間違っているとは思えない」

 それが正しいのか、どうなのかはわからない。

「確かに僕にはJさんの事はわからない、育った倫理や環境も違うから最初からすべてを否定する事なんてできない! でも」

「いいんだ」

「だって!」

「いいんだ」

「でも!」

「まあ最後まで聞いてくれや」

「は、はい……」

「悪いな。久しぶりに全力で思い出しちまって。結局、俺は戻ったんだ。あの忌々しいアパートに。ある日の現場が終わったその足で、ふらっとな。妻も息子も、まるで死人のような顔をしてそこに居た。俺が居ない間どうしてたのか、何を思ってたのか。俺には聞けなかった。俺は怖かった。自分の無力を責められるのが、無責任な行いを咎められるのが怖かった。だから、帰ってきてからの俺の態度は激変した。些細な事で怒り狂い、容赦なく暴力を振るった。妻にも、息子にも。何も言わせなかった。何も思わせたくなかった。ただ当たり前だった日々を、取り戻したかった。家族の過去と向き合う事より、前を向くふりをして目を背けた。俺は再びアパートと現場を行き来する生活に戻ってきた。だけど、前よりもっと陰鬱で、荒んだ心のまま過ごしていた。仕事に行きたくねえ、家にも帰りたくねえ。でも、俺に残された場所はあのクソみてえな部屋しかなかった。だから俺はずっとイライラして、元々ボロかった部屋の中を蹴りまくった。家具も、布団も、目につく物は手当たり次第な。明るく元気だったあいつは四六時中黙りこくって、溜め息ばかりついてた。それでも息子は明るく無邪気なところもあったが、かえってそれが鬱陶しくて、憎たらしくさえあった」

「ううう……」

 ヨシダさんが、呻きながら床を這うようにして僕の方へとにじり寄ってきた。僕は変わり果てた親友から少し後ずさりながらもJさんの話に耳を傾けた。

「あっという間に身体中アザだらけになって、顔も無残に腫れあがったあいつらを見ても、俺はちっとも動揺しなくなっていた。むしろ奴らがそんな惨めな姿を晒して生きてることに苛立った位だ。お前らがドン臭いから、お前らが鬱陶しいから、俺まで惨めに苛立つんじゃねえか。あの時は本気でそう思ってた」


 ひどい。そんなのあんまりだ。


「その頃だ。あいつが来たのは」


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