完結編・その7 御近所物語
この作品は小説家になろう運営様より性行為の描写が存在するため訂正するよう要請がありました。
したがってそのような場面を削除した訂正版となります。
あらかじめご了承ください。
なお18歳以上の方は別途ミッドナイトノベルズにて完全版をご覧いただけます。
あわせてお楽しみください。
「びっくりしたでしょう? 私は、あの廃屋が、まだ、ちゃんとした、一軒家で、彼の住処だった頃。すでに彼が、私の、息子であることを、知っていました。血まみれの、彼を……見つける、その前に、ね。むしろ、それを知って、私は、あの集落に、やってきたのです。私も、生き別れた息子を、探し続けて……いたのですから。しかし、結局は、あのような経緯で、私たちは、再び、長い間、離れ離れに、なってしまった。幼い彼を、保護した時、私が父親である、と、名乗り出れば、また話は変わっていたかもしれません。何度も、それを何度も、悔やみました。しかし、それは……出来なかった」
「お前……お……まえ…………」
「なぜなら、私と、彼女との、間には……決して埋まらない、冷たく、深い溝が、横たわって、いたからです。彼女の元から逃げ出し、彼女とその子供をも、引き離すことになったのは、全て、私の所業に、よるからです。やっと探し出した彼を、手放したくなかった。しかし、今さら、名乗り出る勇気も、なかった」
「……」
「お前お前おまえおまえおまえおま……え……」
「結婚する前まで、私は、非常に、荒れた生活を、していました。札付きのワル、というのが、ぴったりだったと、自分でも、思います。治安の悪い田舎町の、貧しい、おんぼろ寺に、生まれ育った、私は、十五の時、勘当同然で、故郷を、飛び出しました。結局それから、日本全国を、転々と、していました。本当に、色々な場所へ、行きました。山も、海も、離れ島も、穴ぐらも、あらゆる街で、あらゆる人を、星の数ほど、見てきました」
「オマエオマエオマエオマエオマエオマエオマエ」
「禄な修行や、鍛錬を、積んだわけでも、ありませんでしたが、私には、生まれつき、少々変わった、能力が、ありました。それは、近いうちに、身を滅ぼす人を見ると、その人の周りに、ぼんやりと、黒い影が浮かんで、見えることでした。飯場やタコ部屋、炭鉱、場末のちょんの間、連れ込み宿。荒みきった世の果てに、たむろする人々の中には、そんな見えざる影を、引きずる者も、少なくありませんでした。私には、ハッキリを見えるのです。滅びの瀬戸際に居る、その人の背中に覆い被さる、死神の様な影が」
「ある人は、酒の飲み過ぎで突然胸を抑えたまま倒れ。ある人は、バクチの借金が返せず追い込みをかけられて運河に浮かび。ある女性は、入れ込んだ男に騙されて身ぐるみ剥がされた末に売り飛ばされた先で自ら命を絶ち。そんな事が……何度も、何年も、身の回りで起きていました。私の心はすっかり枯れ果てて、最早、他人の死にざまなどに、一々関心を持つこともなくなっていた……そんな時、でしたねえ」
「お前……おま……」
「私は、同じような境遇の女性と出会い、共に、暮らすようになりました。それが、彼女でした。船着き場の近くにある、小さな、港町の安酒場。私はお客、彼女は給仕をしていました。お互いに根無し草、寂しい夜もありましたし、だからこそ惹かれあったのかもしれません」
「じゃあ、ヨシダさんはその時の」
「そうです。やがて、身籠った彼女と私は結婚し、無事生まれた息子と親子三人、つつましい、生活を始めました。私は日雇いの工員として毎日汗水たらして働いたものです。あの頃の日本は高度成長期でもありましたし、どうにか食うには困りませんでした」
なんとなく、部屋の空気の中を何かが動いたような気がした。ヨシダさんは相変らず何処かを見つめたままへたりこんでいるし、Jさんはとつとつと話を続けている。僕はと言えば、この空間の異様な気配と、昼間の記憶のせいで身じろぎ一つ出来なくなっていた。それなのに、何者かが、この部屋の灯りの届かない暗闇に紛れて、おおおおん、と鈍い音を残して蠢いている。
……何者かが。
「お前おまおまおまおまえおまえええかお前」
「ああ、あの頃は楽しかった。私はね、あの時はじめて、温かい、世の中にはこんな温かい場所もあるんだ、って。思いましたねえ。それが、私と彼女と、彼と、三人で暮らしたアパート。古くてぼろくて、玄関に鍵もかからないような。あれは貧乏通りのドン突きの、日雇いの流れ者と戦前から住んでいた老人たちが多くて、もう、どですかでん。そんな街でした。それでも私たちの部屋はアパートの二階にありましたから、日当たりもいいし風も通る、それだけで、私は満足だったんですよ。毎日朝になると、下に住んでる大家夫婦が喧嘩を始めましてね、それが日がな一日続くんですって。私が働きに出る前から、仕事を終えて帰ってくるまで、ずっと。そういえば隣の部屋に住んでいたのは、食い詰めた舞台役者でしたねえ」
Jさんの顔は、脳裏に浮かんだ懐かしい景色、記憶の走馬灯を見ているような感じだった。こんな場所に居るというのに、今やJさんは完全に、半世紀近く前の彼らの世界に居た。
「その頃でも、やっぱり影は見えていたんですか?」
僕は聞きながら気になっていたことをぶつけてみた。
「見えましたよ。長い間の事ですので、まあ、慣れて、しまってましたがね。次に見たの、誰だったと思います? ふふふ、実は、大家さんの奥さんと、あの舞台役者でした。駆け落ちしたんですよ、ある日突然にね。二人は、ずっと、逢引をしていたのです。同伴喫茶と言うのが、当時ありましてねえ。そこでね。そうしてある日、いきなりいなくなった。しばらくして死体が上がったそうです。無理心中、だったんですねえ。それから…その次は私の居た飯場の給仕のおばさん。どうしてこんな人が? と思ってましたらね、工員同士のつまらない喧嘩に巻き込まれたんですよ。ああ、あれは呆気ないものでした。若い流れもんにぶっ飛ばされて、どーん! とぶつかってきた五十がらみの太った親父の下敷きになった時、手に持っていた出刃包丁がお腹に突き刺さってしまってねえ、気の毒に」
「まだ、見えるんですか?今でも」
「今は、うーん、今はねえ。くっくっく」
最後は言葉を濁されてしまったが、それ以上は追及もしづらかった。ヨシダさんは正気に戻る様子がなく、この部屋の異様な雰囲気も、Jさんの話で紛れるどころかさらに濃密さを増してきていた。そろそろ核心に近づいているのだろう。Jさんの話を、此処に居るらしき何者かも聞いているのかもしれない。
「三年、それから三年が過ぎてゆきました。私は日雇いをやめて、ある小さな町工場で働くようになりました。毎日、毎日。来る日も、来る日も働いて。その頃には、妻も、また駅前の居酒屋で働き始めていました。段々と世の中が明るく、上向きになっていく、時代。そう、時代が流れているのを感じるようになっていました」
「ヨシダさんは、三歳までは、その、Jさんたちと一緒に居たんですか?」
「そうです」
「じゃあ、その年に」
「ええ。そうです。それを、すべての事実を、今からお話します」
「……はい」
「あの日、忘れもしません。暑い夏の日でした。暑くて、暑くて。私はヘトヘトで家に帰ってきました。真夏の事でしたから、まだ夕方遅くても薄暗くって、蒸し暑くて青っぽい空気が気持ちいいなあ、なんて、思っていました。アパートの階段の横に、大家さんの部屋がありましてね、例の心中以降は、大家さんは滅多に外へ出なくなっていたんです。でもその日は珍しく大家さんの部屋のドアが開いていたのです。中をひょい、と覗くと……そこには表でいつも物乞いをしていた浮浪者が、食べ物を漁って居た所でした。この辺りじゃ、そんな事は茶飯事でしたがね。私が声をかけると、その浮浪者は飛び上がって驚きました。そして私だと見るや、今度はひどく気まずそうに言いました」
(ううおおおおおおん……)
部屋の中の暗闇が、また低く唸り声をあげた。
「ああ、あんた。悪い、悪いなあ。俺、俺よう、ずっと見てたんだよう……その」
Jさんはその浮浪者がそうであっただろうと思わせる口調で、彼の言葉を思い出しながら僕に聞かせた。
「あのよう、俺ずっと見てたんだけどよう」
「何がだよ、勝手にひと様の部屋入って」
「だからよう、その」
「ハッキリ言え!」
「え、でも、で、でもよう。その、俺いま帰ってきてよう、そしたら大家の親父がな、お前の部屋に向かってたんだよぅ」
「なんでえ、そんなこと」
「俺もよう、しめたと思ってこの部屋入って、食い物探してたんだ」
「何があった」
「そのうち上の部屋でキャーって声がしてよう、ドッタンガラガラすげえ音がしてよう」
「……」
「俺、俺、怖くてしばらくじぃっとしてたんだ。でも気になって……静かになった頃に見に行ったんだ。そしたら、そしたら、お前の、カミさんがよう」
「私はそこまで聞くと、すぐにそこから走り出て、自分の部屋に向かいました。階段を上ってすぐの部屋までが異様に長く、景色もひどくゆっくり流れてゆくようでした。背筋を走る猛烈な寒気と嫌な予感が、私の部屋の中でこれ以上ないぐらい具体的になって現れていました」
「ど、どう、なって……いたんですか?」
僕は聞くのが心底怖かったが、聞かずにも居られなかった。
「大家がね、居たんですよ。私の部屋にね」
Jさんの口調が硬く、冷たいものになっていた。何かこう、感情や記憶にフタをして、事実だけを書類のように並べ立てているような。
「息子は部屋の隅にひっくりかえって、逆さまのまま頭から血を流していました」
「お、奥さんは……?」
「妻ですか? ああ、妻は大家の下敷きになって、まるで抜け殻になったような目をして、こっちを見ていました」
「……」
僕はJさんの顔を見ることが出来なかった。言葉を出すどころか息をするのも苦しいぐらいに、ただ黙っているしかなかった。それはあまりに悲惨な記憶に触れてしまった事への後悔も大きかった。だがそれ以上に、Jさんの表情があまりにも怖かったからだ。
「部屋の中は、薄暗かったですがね、よおく見えましたよ。ふふふふ、私は、私はそれを見てどうしたと思います? なんて言ったと思いますか? はははは」
「Jさん?」
「無力でした。あまりにも、何もかも。私はその時に全部あきらめました。幸せだとか、温もりだとか。そんなものは所詮、自分たち以外の連中にしか掴めないのだと。おとぎ話のような幸せな結末を迎えられるのは、絶対に自分たちではない。誰も彼もそう、自分以外の奴が幸せに見えて仕方がないのです。自分が感じた幸せなんて、他人に対する優越感の目安でしかないのです。大家を殺そう。私はそう思って、土足のまま部屋に上がり込んで奴の後頭部を思い切り蹴り上げました」
「……」
「くぐもった唸り声をあげて、大家が妻の上から転がり落ちると、それはもうたまらないにおいが辺りに立ち込めました。奴の後頭部から吹き上がった血のにおい。私は込み上げる怒りと吐き気を堪えることもせず、今度は奴の横っ面を殴りつけ、馬乗りになって滅多打ちにしました。大家は豚のように泣き喚き、必死で抵抗しました。鼻の頬の骨が潰れて、腫れた目元の形は糸屑のように細くなり。生っ白いくせに毛むくじゃらな弛み切った身体をぶるぶる震わせて、ね。そして私は」
「……」
「力の限り大家の急所を蹴りつけました。ごしゃっ、という鈍い音と一緒に、血と肉の塊が重たい飛沫をあげてぶっ飛んでいきました。それは部屋の壁にぶつかって、畳に落ちてどす黒い染みを作りました。奴のキンタマの片方と棒くれは無残に潰れていましたから、残ったほうが飛んで行ったのでしょう。私はその時になってようやく思い出しましてね、安全靴だったんですよ、その土足がね。くっくっく、良い気味でしょう?」
「おまえ……おまえ……おまえ」
「あの時の、あの大家の呻き声を今でも思い出すときがあるんです。ぼこぼこになった顔から血膿と鼻汁と涙をぼろぼろ垂れ流して、今にも死にそうな声を絞り出して。地獄の底から私に命乞いをするんです、許してくれ、助けてくれ、って。聞きもしない言い訳を、必死で並べ立てる」
「どうなったんですか?」
「どう、って? 息子は、大した怪我ではありませんでした」
「いや、その」
「妻ですか? 妻は、ずっと泣いていました」
「お前……おお、おま……お前……!」
ずっとお前お前とうわごとのように言い続けていたヨシダさんが、ハッと顔をこわばらせた。僕はその視線を追って振り向いたけど、そこには誰も、いや何も見えなかった。
「Jさん! ヨシダさんが」
「その時、私の部屋にオマワリどもがカチ込んできて、そのまましょっ引かれました。妻と息子とあの忌々しい大家は病院へ送られました。あの時、怒りのあまりオマワリまで何人かぶっ飛ばしたのがまずかったんですかねえ。あの当時のオマワリなんてのも乱暴なもんでね、わけも聞かずにいきなり押さえつけられて、まるで私の方が犯罪者みたいでしたよ。くっくっくっく」
「Jさん、Jさん!」
「お、おまえ……おまえは……ああああああああ!」
「ようやく、ようやく見つけた私の場所だったのに。私の幸せ、私の生き甲斐。それを無残に汚され、滅茶苦茶にされた挙句に、檻の中で臭い飯を食わされて。私は自暴自棄を極めつつありました。世捨て人と言ってよかった。釈放されて娑婆に出ても、あんなアパートには戻りもしなかった。戻ろうとも思えなかった。だけど、妻には、彼女にはあそこしかなかった。あんな忌まわしい場所でも、彼女が私を待ち続けられる場所はあそこだけだった」
Jさんは急変したヨシダさんにも、必死に呼びかける僕にも構わず、話を続けていった。おかしくなっていたのは、ヨシダさんだけじゃなかった。Jさんまで…僕は呆然としながらも、背後におそろしく冷たく暗い気配を感じていた




