完結編・その6 再会
どっだあああああん!
すさまじい音と猛烈な砂埃を巻き上げて、ザラついた冷たい床に叩きつけられた。頭髪や襟の部分から積もりに積もった砂埃が入り込み、じゃりじゃりと不快な感触が走る。僕は身震いしながら立ち上がり、少しだけ前に進んだ。階段の上には、まだあの半透明の子供たちが居るはずだ……ここでじっとしているのは危険だ。だけど──
目の前にまっすぐ伸びた廊下は、まるで暗く深い森の底を這う迷宮のようだった。その暗闇は、ついさっきまで僕が居た二階部分よりもはるかに深く、恐ろしかった。どこからか吹き付けてくる風の音がかすかにヒュウと鳴る。歩き出した僕の足音が、パタ、パタ、と鳴り響いて、乾きながら闇の奥底へ吸い込まれてゆく。後ろを振り向くことはできない。怖いから。だけど、もう、どこかへ逃げることも出来ない。怖いけど、行くしかない。僕はこれまでの出来事やヨシダさんの考えそうなことを、必死で思い出した。数々の恐怖を乗り越えてきた。数々の陰惨さを味わってきた。そしてひとつの確信を持っていた。そう、ヨシダさんとJさんの居場所について。そう、それは……あの倉庫だ。あそこしかない。
足を少しもつれさせながら廊下を歩いた。真後ろの階段の先に消えていった半透明の子供たちが怖かった。あの踊り場で対峙した時よりも、むしろこうして常に背後におびえる方が強い恐怖を感じた。歩くたびに足元でざりざりと砂が軋み、暗闇を映し出す窓ガラスにも、わずかに僕の影が揺れているのがわかった。辺りは相も変わらず真っ暗闇だが、その窓ガラスの反対側の壁に手をついて、前だけを見て僕は進んだ。目を凝らし、ゆっくりと。そうしないと、かすかに揺れる窓ガラスの中でちらちらしている白い影が、気になって仕方がなかったから。
それは、窓ガラスの中をへっぴり腰で歩く僕の前に後ろに映り込み、ふらふらと漂ってすぐに消えた。幾つもの白い影が揺れて、消えて、また現れてを繰り返す。僕は走り出したいのを堪えて、ゆっくりと歩き続けた。なるべく足音を立てず、ゆっくり、ゆっっくりと。
決死で飛び降りたのは良かったが、どちらへ向かえばいいのかわからない。あまりに濃い闇のために、方向感覚が完全に狂ってしまったようだ。思えば初めて足を踏み入れた山奥の廃墟で、真夜中に一人きりなのである。さっきから僕を散々恐怖のどん底に陥れてきた不可思議な現象もだが、そんな単なる事実もまた恐ろしかった。気を抜けばすぐに心が折れてしまいそうだ。僕は壁についた手にじっとりとした汗を感じながら、尚も必死で進んでいった。
カタカタ、と窓ガラスが揺れる音がする。いつの間にか僕が手をついていた壁は幾つかの窓ガラスと大きなコンクリートの柱になり、元は教室だった部屋が並んでいた。奥に向かって数室あるらしいのだが、僕の目指す方向とは違う。確か、この手前のロビーを北側に、奥に向かって進まなくちゃいけないはずだった。引き返さなくては……。そして、またあの倉庫を目指して闇の中を歩いてゆくんだ。
昼間の記憶を呼び起こそうとすると、どうしてもあの首吊り死体と異臭を同時に思い起こしてしまう。ここへ来てから何度も何度も、強烈に刻み込まれたあの恐怖は、僕の心の奥底に深くしみ込んでしまった。あの倉庫、開かずの倉庫。僕は確信していた。彼らは、ヨシダさんとJさんは、そこに居る。
ん!? いま、何かが光った。あまりにも暗く、あまりにも冷たく、あまりにも深い闇の中で瞬いたオレンジ色の灯りは、廊下の奥に一瞬だけ輝き、またすぐに消えてしまった。あれだ、あの光! さっき踊り場から見えた光と同じ、一瞬の光。もしかして。
さっきの光り方も、今も光り方も……僕はあの光に何かの意思を感じていた。この暗い暗い廃墟の中に取り残されて、方向感覚もなくなった僕を、どこかに導こうとする、誰かの意思を。それが誰なのか、何のためなのか……それはわからない。だけど、此処でこうして立ち止まり、いつまでも迷っているわけにもいかない。今夜。今夜しかない。僕は最初、夜が明けるまでじっと待つことも考えた。でもそれは、単純に怖くて神経が持たないとも思ったけど、それよりももっとこう、なんだろう、今夜のうちに、すべてを片付けなくてはならない、そんな気がしていた。迷ってられない。
僕は再び足を踏み出した。北側、北側と思っていても、もうすっかり方向感覚を失っている。あの光が瞬いたところが、目指す倉庫なのだろうか。だとしたら、これほどありがたく、恐ろしいものは無い。あんなところに僕を呼ぶものがロクなもんであるわけがないのだから。
じゃり、じゃり、と僕の足音が暗闇にこだまする。長年積もった砂まみれの床でさえ、僕の目には見えない。それほど暗い闇の中をもうどれほど彷徨っているのだろう。目が慣れたと思えば、より深い闇へと誘われ、不可思議な者たちばかりがはっきりと見えてしまう。ここは、やはり一種の聖域なのだろうか。それとも、魔境だろうか。オレンジ入りの光は不意に点って、すぐ消えてを繰り返していた。もう見間違いでも、僕の願望が見せた幻視でもない、あそこに、僕を呼ぶ何者かが居るのだ。何者かが。
暗い廊下を一歩、一歩と踏みしめて歩く。他に何の光もない暗闇の中で、明滅するオレンジの光だけが頼りだ。その光が廊下の壁や窓をぼんやりと浮き上がらせ、やがて見覚えのある突き当りに辿り着いた。そう、この倉庫だ。ここを探していた。オレンジの光は、いつの間にか見えなくなっていた。ここまで来ても結局追いつくことはなく……気が付けば影も形もなかった。
たった数時間前の出来事は随分前のように感じられたけど、僕はまだ迷っていた。開けるべきかどうするのか。さっき見たあまりに凄惨な記憶が蘇ってきて、この分厚い扉を開けようとするたびに、その手を躊躇わせる。
そのとき。突き当たりの正面にある窓から、青白い光がスーっと差し込んできた。長いこと真っ暗闇の中にいたせいで、その光がやけに明るく感じられた。木々や夜空に浮かぶ雲にもはっきりと影を作って、深い森のはるか上空から大きな満月が現れた。
青白い月光が冷たい扉を照らし出すと、あの時音を立てて外れた鎖や南京錠が、跡形もなく消えていた。僕は驚き、そして確信した。
この中だ。
この中に居る。
一歩。ずい、と前に進んでみる。手を伸ばして、取っ手を掴む。もう迷わなかった。ぐっと握ると、ヒヤリと冷たい感触が手のひらいっぱいに広がった。両手で二つの取っ手を掴んで、ゆっくりと力を込める。さっきは独りでに開いた扉を、今度は自力でこじ開けている。僕の力でも、かなり力を入れないとビクともしない。こんなものが勝手に開いてたまるものか。
ギギギギガガガガ。
砂をかんだ扉が、鈍い音を立てながら両側に開いてゆく。中から、うっすらと光が漏れてくる。あの忌まわしい記憶が嫌でも脳裏に浮かびあがって…でもそれはまぶしい灯りによってかき消された。古びた畳の上に直に置かれた電気ランタンが、向かい合って座る二人の男性をぼうっと浮かび上がらせていた。
「来たな」
「来ました、ね」
落ち着き払った二つの声……Jさんと、ヨシダさんの声。
「きっ、き……」
僕は言葉に詰まってしまった。腹の底から幾つも浮かび上がってくる言葉が全部喉元でぎゅっと詰まって、なかなか言葉にする事が出来なかった。それでもどうにか声を絞り出して、震える身体を抑えながら僕は叫んだ。
「来たか、じゃねえだろぉ!!」
「おお、来たか」
「んな、あんた、俺がどんだけ……こんの……バカ!!」
「佐野君」
「Jさん! Jさんもひどいですよ! なぜあんな」
「佐野君」
Jさんがいきり立つ僕を一言で抑え込む。物静かだけど、有無を言わさない迫力があった。何か余程の事があったのだ……彼らの顔を見てから、ようやく僕は落ち着きを取り戻した。お坊さんって流石だ。
「まあ、こっちへ。座って、ください」
「はあ……」
怒りの矛先を失った僕は、しぶしぶJさんの隣に座った。電気ランタンの白っぽい光に照らされて、Jさんの柔和な白い顔がまぶしく見えた。一方で、数か月ぶりに再会したトシの離れた親友の顔はというと、頬がすっかりこけてやせ細り、目にも口元にも全く覇気がなくなっているように見えた。元々洒脱な人なうえに職業柄いつもきちっと髭を剃って小奇麗にしていた身だしなみも何処へやら。薄汚れたシャツとスラックスは何日も着の身着のままであることが伺える。無精髭の生え散らかった顔は、まるで落ち武者のようだ。こんな時でなければ、散々からかってやるのに……僕は不意に哀しくなって、俯いてしまった。
「憐れむのか」
掠れ切った、いまにもこの深い闇の奥底に消えてしまいそうな声でヨシダさんが言う。
「お前も俺を憐れむんだな……お前も、お前も……」
「ヨシダさん?」
「お前も……お前も」
「ヨシダさん!」
僕は顔を上げて、彼に詰め寄った。やめてくれ、こんなの、あんたらしくないじゃないか! いつもの、あのカッコいいあんたは何処へ行ったんだ!
「お前も……お、おおおお前も……お前、お」
ヨシダさんの声が、だんだん震えてきていた。顔こそこっちを向いているが、目が何処にも向いていない。この世のものを見ていない、何処にもないものを見ている眼差しというものがあるなら、あの時のヨシダさんの目付きこそがそうだったのだと僕は断言できる。なぜなら
「佐野君。彼から、離れてください」
「でも!」
「お前も……お、お前も……おまま前も」
「いま、彼が、見ているのは、君では、ありません」
「へ?」
「君の、後ろに……」
「えっ! えっ!!」
僕は後ろを振り返ることも出来ずに、手の先だけをバタバタさせて虚しい抵抗を試みた。
「大勢、連れて、みえたんですねえ。ここまで来るのに。大変、だったでしょう」
そりゃまあ、大変なんてもんじゃなかったけど……。
「彼らは、みんな」
「みんな?」
「ともだち、なのですよ」
「ともだち……?」
僕はおうむ返しに聞いた。
「ええ。彼のね。長い、長い、あいだ。ずっと、ここで、待っていたのです」
「お前も、お前も、お前……お前」
ヨシダさんの口元から、透明なよだれが粘りながらツツーと垂れて、埃っぽい畳の上にポタリと落ちた。つまり僕の後ろとぞろぞろついてきた、おそらくあの半透明な彼らはみな、ヨシダさんのかつての友達なのだろうという。そんな馬鹿な……でも、ここまで来た以上、あり得ない話ではないのかもしれない。
「佐野君」
突然、Jさんがぽつりと僕を呼んだ。その顔は、何時にも増して透き通るような目をしていた。
「もう、おしまいです……すべてを、お話するときが、来たようです」
「え? Jさん……?」
「私は、彼からすべてを聞きました。それを、君にもお話しましたね」
「ええ。でも」
「ですが、その、実は……」
僕を遮ったJさんが珍しく口ごもった。
「お前お前お前お前お前……」
ヨシダさんは、もうすっかり壊れた蓄音機のようになって同じ言葉を何処かを見つめたまま繰り返すだけになってしまっていた。
「佐野君。実は、君に、謝らなくては、ならないことが、あります」
「……」
「君には、まだ、お伝えして、いないことが、ありましたね。そして、それが、私が君を、ここへ連れてくる唯一の……条件でした」
「お前お前お前お前お前」
「今まで、黙っていましたが」
「……」
「それは彼の、ヨシダさんの、本当の、両親の事です」
「えっ、だってそれは、前に僕とヨシダさんが行った」
「ええ。あの能面の居た廃屋、そう思って、いらっしゃいますね」
「思うも何も」
「違うのです」
Jさんの目付きが、キッと変わった。何か思いつめたような、この人にしては珍しく、少し迷っているような印象だった。ふう、と溜息をひとつ吐いて、Jさんは再び口を開いた。
「君も訪れた、あの廃屋。かつて、そこで起こった事件と、そこに居た……とされる人物は、概ね本当です。君が聞いたまま、感じたままです。しかし、私は、そして彼は、君に大きな嘘をついています。その嘘のために、君は今、ここに居るのです。その嘘のために……君を今日まで、苦しめてきました。その、隠していた、本当の事を、お話します」
「お前お前お前お前お前お前お前おまえ」
「彼は、あの家で生まれ、育ち、両親に育てられた、と、私は話しましたね。そして、君が能面を持ち込むよりも先に、彼が、私の元を、訪れていた……と。実はその時、私と彼は互いに、すべてを、打ち明けたのです。彼が全国を放浪し、その間に、探し続けていた場所、そして人物。その二つについて……私たちは、一つの認識を、持っていました。いいえ、それは最早、明確な、答え、でした。彼の探し続けた場所を、私は、知っていた。そう、その場所こそが……ここ、この忘れられた。聖域。なのです。そして彼が探していた人物とは、他ならぬ私でもあり、もう一人の女性でもありました」
僕はだんだん頭がくらくらしてきた。あまりに長い年月、ヨシダさんは全国を渡り歩いてきた。そしてありとあらゆる場所に足を踏み入れた。その最後のほんの少しだけ、僕も一緒について行った。その果ての果てが……まさか僕自身が訪れることはあるまい、とタカを括っていたこの廃墟だったなんて。
思えば三人そろって一緒に居るのなんて、いつ以来だろう。ヨシダさんの事ばかりに気を取られていたが、Jさんが僕に知らせず、聞かせなかった事って……さらに気になるのは、ヨシダさんが長年探していた人物がJさんだけではないということだった。【もう一人の女性】って一体。
「少し、混乱させてしまった、ようですね」
相変わらずJさんには御見通しらしい。
「簡潔に、申し上げます。あそこで、彼と、暮らしていたのは、彼の本当の、両親、などでは、ありませんでした。あれは、いやあれも、遠い親戚の一つ。彼を、施設に預けるまでの間、たらい回しにしていた、薄情な親族の、一つでしかないのです。もっとも、彼らが迎えた、悲惨な最期は、事実ですが」
あの日起こった惨たらしい事件は、結局無理心中ということで決着がついた。そしてその結末こそが、僕が聞かされてきた【ヨシダさんと両親との悲しい別離】であった。つまり僕も、この話を聞くまではそれが真実だと思っていた。
「お前……お前……えっえっえ……おま……え」
「彼はずっと、この廃墟を、探し続けていた。そして、その手掛かりを、知っている人物も、同時に探していた。何故なら……彼が探していた人物と、この施設は、密接な、関係があったからなのです。おわかりでしょうか……彼が探していた人物、とは、彼の、母親なのです」
「えっ、母お……や!?」
「佐野君も、会ったことが、ありますね」
「えっ、いや、僕は」
「いいえ。さっき、私と、一緒に見たでは、ありませんか」
Jさんはハッキリと言い放った。そして僕は、嫌な予感が電流のように体中を駆け巡るのを感じた。そんな……そんなまさか。
「この、開かずの倉庫に、そう、まさにここに居たでは、ありませんか。かつてこの部屋で、首を吊ってお亡くなりになった、あの、女性です」
鈍器で後頭部を思いっきりぶん殴られたようだった。あれが、そんな。必死で否定しよう、どうか間違いであってくれと思っていた嫌な予感が、見事に的中した。
「彼女こそが、その【もう一人の女性】なのです。そして彼女と私と、彼を結びつけるもの……それこそが、私たちの、佐野君に対する、最大の嘘でした。彼は何故、私と、彼女を探していたのか」
このあまりに広く深い闇の世界の片隅で揺れていた三本の細い糸が、僕の目の前で再び絡まり始めた。
「それは…実は、この私と、彼女こそ……彼の本当の、両親だからです」




