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タクシー運転手のヨシダさん  作者: 佐野和哉
タクシー運転手のヨシダさん
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完結編・その5 半透明

 細長い暗闇が左右に伸びていた。さて、どちらへ進めばいいのだろう。

 真夜中。僕は誰からも忘れられた山奥の廃墟で途方に暮れていた。それも、たったひとりで。ヨシダさんとJさんに取り残された事よりも、真っ暗闇の密室から必死で脱出しなければならなかったことよりも…さらに上をゆく恐怖とやるせなさが僕の胸の奥で猛烈に膨れ上がって来ていた。何度も同じセリフを思い浮かべて、必ず前よりも大きくて深いため息を漏らす。

(いったい、どうしてこんな事になったんだろう)

 気を抜くと、今自分がどこを向いているのかもわからなくなりそうだった。僕は部屋を出た感触を忘れないうちに両腕を水平に広げて、左右の間隔を確かめた。その広げた手の先の五本の指さえもまともに見えないほどの暗闇に、少しずつ目が慣れてきた。壁と床ぐらいはぼんやりと判別することが出来たのが不幸中の幸いか……。僕はとりあえず向かって右に向かってとぼとぼと歩き始めた。ぎしっ、ぎしっ、と床板が軋む音と、僕の重くて鈍い足音が空っぽの暗闇に響いて、妙に耳に残る。

 とにかく歩いていけば、何か進展があるに違いない。あそこでじっとしているのも手ではあるが、朝が来るまで僕の精神が耐えられるとは思えない。歩くしかない。僕は斜め下を向いて足元を確かめながらさらに数歩進んだ。するとすぐ、ゴンッ! という鈍い音と共に、僕は額をぶつけて立ち止まった。慌てて両手をさし延ばすと、何と壁だ。行き止まりか……よく見るとすぐ真横には窓があった。危うく窓ガラスに頭から突っ込むところだったが、これで進むべき方向はハッキリした。僕は先程見た窓の外をさまよう無数の影たちを思い出して足早に窓から離れると、再び歩き始めた。こちらに向かっていけば、少なくとも近づくことはできるはずだ。ヨシダさんとJさんは、いったい今どこに。

 みしっ。

 みしっ。

 ぎいい……ぎいっ。

 床板の軋む音、その音が反響して他の壁や天井の板から跳ね返ってくる音だけが暗い廊下の奥底まで響き渡ってゆく。1階は緑色のつるつるした床だったが、2階の廊下は板張りらしい……この軋む音が、暗闇と相まって本当に怖かった。施設は分厚いコンクリートで作られているせいか、外の音はほとんど聞こえなかった。窓ガラスも頑丈な物が使われているのだろう。暗闇で揺れる無数の木立がぼんやりと見えてはいたが、そのざわめく音までは聞こえなかった。

 みしっ。

 みしっ。

 み……み……。

 ん? なんだろう。僕の足音のほかに、何か妙な音がする。微かに、しかし確かに。僕のよりずっと軽い、そう、まるで小さな子供の足音みたいな……。


 子供の足音ぉ!?


 僕は思わず背筋を震わせて立ちすくんだ。首筋を冷たい汗がツーっと垂れてゆく。どうしよう……どうしよう……どうしようもない。こうしている間にも後ろから得体の知れないものが近づいてきているんだ。歩こう。ここに居てはいけない。僕はどうにか気持ちを奮い立たせると、再び足を踏み出した。すると……。


 みみしっ。


 足音が、二つ重なった。真後ろにいる。そんな馬鹿な。僕は耳を澄ませて、もう一歩歩いてみた。


 みしみしっ。


 やっぱりいる。確実に、僕の背後にぴったりとくっ付くようにして……えい、もう一歩。みしっ……おや? みしっ……居ない? やっぱり聞き間違いかな? そうだよな。こんな真っ暗の廃墟に、僕たち以外に誰も居るわけがないよな。僕は安心したくて、とにかく自分の思い過ごしだという事にしたくて、無視をした。

 いま歩き出した瞬間、僕の左肩にずしっと乗っかった冷たい感触を。


 足音の正体は、こいつに違いない。こいつが後をついてきて、たったいま僕は捕まったんだ。叫びたくても、声が出ない。走って逃げたくても、足が動かない。ただただ身体の左半分が徐々に、巨大な氷を押し付けられたようにひんやりと、痛いほど冷たくなってきている。いったい何が居るんだろう。僕の顔のすぐそばに、いったい何が。その瞬間、すっと何かが目の前を横切って、僕の左目が見えなくなった。もともと真っ暗な廊下なので、ほとんど何も見えていないとばかり思っていたけれど……目隠しをされたように左目だけが見えなくなると右目の視界が思いのほか明るく感じた。そして顔の左側から伸びた黒い影は、僕の頭を抱え込むようにして髪の毛をぎゅっと掴んで止まった。この感触、異様に小さな手のひらのようだ。冷たい風が頬を撫でる。目隠しをされた左目にも、髪の毛を掴まれた顔半分にも、さっきと同じ冷たい感触。そして……におい。この冷たい風には、においがあった。しめっぽくて、少し酸っぱい、生臭いにおい。なんだろう、何が起こったんだ?


 足がかすかに震えている。息をするにも、胸とお腹に力が入らない。この冷たいかすかな風は、こいつの吐き出す息なのかもしれない。足の震えが大きく、激しくなってきた。左足に力が入らず、僕は必死で踏ん張っていた。きっとひどく無様な格好に違いない。でも、この真っ暗闇の空間で得体のしれないものと一緒に倒れ込むよりはマシだ。僕は右手を伸ばして、どこかに捕まろうと大きく振り回した。激しく揺れる僕の背中で、冷たく重い何かがしがみついている。髪の毛と肩のあたりを掴まれているが、その感触は思いのほか小さかった。しかし、物凄い力で掴まれているせいで、動くたびに痛みが走る。そして一瞬、僕がバランスを崩したその時に、肩口に食い込んでいた冷たい物体の手が離れた。ぐい、と目の前にぶら下がった物体を、僕は文字通り目の当たりにした。僕の視界を遮ったその冷たい物体は、ぼうっと青白く半透明に光る、小さな赤ん坊だった。

(ひいっ!)

 声にならない叫びをあげた僕を見て、赤ん坊は笑った。にたあ、と、心底嬉しそうに笑った。その顔には目玉がなく、鼻も口も黒い穴がぽっかりと開いているだけだった。でも、笑っているのだけはわかった。

「わあーっ!」

 声が出た! 僕は徐々に輪郭を現してきた暗闇に向かって走り出した。その拍子に、逆さまになった青い赤ん坊は振り落とされて、僕の足元へと消えて行った。奴が視界から外れただけで、すっ、と足と背中と肩と心とが軽く感じた。僕はよろけたへっぴり腰で両手を振り回して、ただただ走った。目の前に何があるかわからないという恐怖よりも、後ろから得体のしれないものが迫ってくるかもしれないという恐怖の方が辛うじて勝っていた。そして、その予感は的中した。

 走り出してすぐに、トタトタトタトタ……と軽く乾いた音が聞こえてきたのだ。聞こえてきたのだが、僕は聞こえなかったことにして走り続けた。目は細めたままだ。しっかり見ていないと、足元や廊下の壁にぶつかってしまいそうだった。そろそろ階段があるはず……あの二人と早く合流したかった。Jさんさえ居れば何とかなるかも知れない。いやそれよりもヨシダさんにさえ会えれば、ここから帰れるのだ。早く、早く!

 トタトタトタトタ……。

 廊下の突き当たりが見えてきた。

 トタトタトタトタ……。

 この無限にも感じた暗闇がそこで四角く途切れているのがぼんやりとわかった。行き止まりの手前にも、一部屋あるようだ。と、いうことは、階段もすぐそこに!

 トタトタトタトタ……。

 僕は期待と焦りを込めて左側の壁を視線でなぞった。ひどく心もとない、あまりにも微かな光を頼りにして。

 トタトタトタトタ……。

 早く、早く!

 トタトタトタトタ……。

 見つかれ、階段! 早く早く! 

 あっ!

 僕は細めていた眼を大きく広げて、心の中で喜んだ。二メートルほど先、左側に冷たく並んでいた壁がぼこっと抜けて、階段らしき真っ暗闇が広がっている。木造の床板と薄緑色の床の境目を、かろうじて見ることが出来た。あそこまで行けば……。

 トタトタトタトタ……。

 足音が、僕の真後ろまで迫ってきている。 

 トタトタトタトタ……。

 あの赤ん坊だろうか。そうだとすれば、奴が手を伸ばせば僕の踝に届いてしまいそうなほどに。

 トタトタトタトタ……。

 階段が、すぐそこで真っ暗な口を開けて僕を待っている。あの暗闇の奥底で二人が待ってるに違いない。その時僕は、そう信じ込んでいた。助かる、僕は漸く解放される! 少なくとも、独りっきりではなくなる…。

 トタトタトタトタ……。

 足音が、走る僕の足と足の間に挟まったような位置から立ち上ってくる。

 トタトタトタトタ!

 真下に居る! 僕は目の端っこで見てしまった。この真っ暗闇に近い廊下の中で、異様にハッキリと浮かぶ、あの青白い赤ん坊の背中と、百八十度回ってこちらを向く穴だらけの笑い顔を。

 

 階段、その深い深い暗闇の入り口に立った僕は、飛び降りるほどの勢いで足を踏み出した。四角く細長い足場が闇に溶けてゆきそうなほど頼りなく、僕は左手で壁をなぞりながら、必死で足元を見つめて尚も走った。

 ダダダダダダダダダダダダ!

 と物凄い足音を響き渡らせ、かび臭い埃をもうもうと立ち上らせながら、僕は踊り場を駆け抜けた。左手を冷たい壁にくっつけて滑らせているので、どうしても足さばきが大回りになる。僕の足にかかる遠心力が描く曲線の、その内輪差の中に、さっきの赤ん坊が居た。青白く透けた、五十センチもないくらいの赤ん坊だ。はいはいをするような格好だが、顔だけがこちらに真っ直ぐ向いている。そして再び

 にたあ

 と笑って、僕の右足に縋りつき始めた。

「うわわわ、わあーっ!」

 僕は思わず立ち止まり、その場で絶叫してしまった。そして、それは最悪の行動だった。


 僕の右足の太ももの辺りまで這い登ってきた半透明の赤ん坊を振り払おうと必死で足を動かしたり壁に向かって叩きつけたりした。赤ん坊のしがみついている部分は、まるでドライアイスを押し付けられたように冷たく鋭い痛みが走った。赤ん坊は案外簡単に宙へと舞い上がり、そのまま闇の中へスウッと消えていった。だが、ホッとするまもなく次の赤ん坊が何処からともなく現れて、また僕の足元に這い寄ってくる。右足にも、左足にも、何度も何度も。

「ぎゃああああああああああ!」

 半狂乱の僕の叫び声が、階段の高い天井にびりびりと響いて、そのまま上下左右の真っ暗闇に吸い込まれてゆく。まるでここには、もはや誰も居やしないとでも言うように。赤ん坊は数を増し、次から次へと湧き出しては僕にしがみつき振り払われて消えてゆく。無我夢中のさなかに、僕は自分のすぐそばで同じようにバタバタと動き回る人影を見た。半狂乱の踊り、目玉が飛び出るほどの叫び声、憔悴しきった顔。それは、踊り場の壁にはめ込まれた、大きな古ぼけた鏡にうつった僕自身だった。一瞬、安心しかけた僕は、全身の動きを止めた。ドライアイスの様な感覚が瞬く間に背筋を伝って脳髄にまで届き、動きっぱなしでぼわんと熱を持った両足がガクガクと震えはじめた。いつの間に目が慣れたのか鏡にうつる僕の姿をぼんやりと見ることが出来るようになったが……そこに居たのは肩でざあざあと荒い息を吐きながら泣きそうな顔を鏡に向けている僕だけだった。あれほどハッキリ見えていた赤ん坊なんて何処にもいなかった。

「ああ……あ?」

 鏡の中の自分の身体を見渡すと、今の今まで僕の足元でニタニタ笑っていた赤ん坊が綺麗さっぱり消えていた。火照った体をダラダラ流れていた汗がみるみる冷えて、背筋をぞっと震わせた。そして冷静になって辺りを見渡すと……階段の下の上に広がる暗闇が改めて深く、濃密なものなのだと改めて思った。

 ぺたっ。

 ん? 何の音だ。足が棒になってる僕はさっきからただの一歩も動いていない。だけど、これは紛れもない足音だ。裸足で、子供が歩き回るような……。

 ぺたぺた……。

 ぺた、ぽたぽたぺた。

 階段を上りきった二階の部分からこちらを見ている、さっき見たのと似たような青白い小さな子供たち。彼らの足音。今度は赤ん坊だけじゃない。三歳とか四歳、五歳から七歳くらいに見える子たちも居る。その誰もが青白く透けていて、顔には目玉がなかった。

 ぺたん。

(はっ!?)

 僕は嫌な気配を感じて、咄嗟に振り返ってしまった。階段を下りた先、ここより深い闇の入り口に、やはり同じような子供たちが、ひとり、ふたりとまるで灯りをともすように現れて、僕を見上げて薄気味悪い笑顔を浮かべながらざわざわと数を増す。

 囲まれた。僕は深海のように静まり返った暗闇の中で、青白い子供たちと対峙している。信じられない、信じたくない。だが青白い子供たちは僕がいくらまばたきをしても、鏡越しに覗き込んでみても、今度ばかりは一人として消えてはくれなかった。それどころか上の階に居る子供たちがさわさわと微かな気配を闇に浮かべて、少しずつこちらに近づいてきているような気がする。後から後から無数の子供たちが現れて、順番待ちをするように階段の手前で立ち並んでじっとこちらを見ている。

 下に居る子供たちも同様に、大きな頭と細い体だけのつるりとしたシルエットをかすかに左右に揺らしながら、じっとこちらの様子をうかがっているように見える。僕は上下の子供たちを交互に振り向き振り向き確かめて、どうするべきかを必死で考えた。僕が目指しているのは、一階……。そのとき、ちらっ、と、微かなオレンジ色の光が見えた。階段を下りた先、廊下の向こうに、確かに見えた。行くしかない。闇の奥底へ。僕は意を決して、下段で待ち構える青白い子供たちをキッと睨みつけた。

(!?)

 僕の決意とほぼ同時に、上の階で何かの気配が動いた。僕は首だけで素早く、でも恐る恐る振り返った。子供たちの姿が、跡形もなく消えていた。そしてそのかわりに、上へと続く階段の一段一段にびっしりと、青白く細長い腕がわらわらと生えてきていた。それは一斉に天を仰ぎ、何かに縋りつくように手のひらをめちゃくちゃに振り回していた。

そしてその指先が向く先には……僕しかいなかった。

「わああああああああ!」

 僕は覚悟を決めて、大声を出しながら振り返った。

「あ、ああああああ!?」

 今度は悲鳴だった。階下に居た子供たちが、四つん這いで階段を登ってきている。ぺたぺたぽたぽた、と床を這う手足の音が響き渡る。もう躊躇っては居られなかった。こいつらにとっ捕まったら、今度こそどうなるかわからない。僕は決めた覚悟の通り軽く助走をつけて

「があああああああああ!」

 っと雄たけびをあげながら踊り場から一階のフロアに向かって飛び降りた。僕の頬を濃密な真っ暗闇がかすめてゆく。半透明の子供たちが僕に構わず、そのまま二階に向かって走ってゆくのが、ゆっくりとスローモーションで見えていた。床に落ちるまでがやけに長く、まるで身体が暗闇を滑空しているように感じられた。


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