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タクシー運転手のヨシダさん  作者: 佐野和哉
タクシー運転手のヨシダさん
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完結編・その4 奥底

 ぎぎぎぎぎいいいい……がり、がり。埃と砂を噛みしめた茶色いドアが、心底嫌な音を立ててぎこちなく開いた。廊下はすっかり暗くなっていて、その向こうの縦長の長方形の闇の中から すい、と入ってくる人影。

「ヨシダさん!?」

「私です」

「Jさん」

「そう、がっかり、しないでください。それよりも、落ち着きましたか?」

「ええ、すみません」

「いいのですよ。君は疲れていましたし……それに」

「それに?」

「おかげで、かえってスムーズに、ここに、たどり着きましたから」

 僕が気絶している間、一体何があったんだろう。

「それより、ヨシダさんは居ましたか?」

 僕の問いかけに、Jさんはあっさり答えた。

「ええ」

「やっぱり!?」

「やはり居りました。ここに……この建物の中に。ずっと居たのです」

「ど、ど、どこですか!?」

 はやる僕の前をすい、と横切って、Jさんは部屋の中に入ってきた。ちらちらと光る電気ランプがJさんの影を下から大きく作り出して、すっかり汚れた白い壁に映し出す。

「こちらです」

 電気ランプをひょいと持ち上げたJさんが、荷物はそのままにして部屋を出ようとドアに向かって歩き出した。僕も後へ続こうと急いで靴を履き、少し遅れてJさんを追いかけた。そして……

 バタン!

 という激しい音と同時に、この部屋の中が自分の指先も見えないほどの真っ暗闇に包まれた。僕は、部屋を出ることが出来なかった。目の前にあったはずのドアの場所さえ分からなくなって、僕はあっという間にパニックを起こした。

「じ、Jさあああああん!!」

「……」

 どこからも返事は返ってこなかった。僕は無我夢中で前進し、ドアノブらしき丸い、金属の塊に取りついた。ガチャガチャと音がする。やっぱりこれだ! 僕は大声で叫びながら全体重を押し付けてドアを開けようとし、ドアノブを全力で握りしめて左右に回した。しかし、どちらも大した成果はなかった。ドアもドアノブも、ほとんどびくともしなかったのだ。あらん限りの力と声を出して、必死で抵抗した。そうでもしないと、この暗闇に飲み込まれてしまいそうで……僕は恐怖と疑問と怒りでいっぱいだった。どうして、せっかくここまで来たのに……こんな事に……。

 僕がドンドンとドアを叩き、猛獣のように叫び狂っていることなど知りもしないというように、ドアの外は静まり返っていた。僕は声を荒げることもドアを破壊しようとすることもやめて聞き耳を立てた。僕が抵抗をやめたので、一瞬、辺りが静まり返った。向こうも僕の様子をうかがっているのだろうか。その静寂をぶち破り、僕は叫んだ。

「ヨシダさん!?」

 そうだ、あの時、Jさんがこの部屋に入ってきたとき……足音は二つあった。きっとヨシダさんが部屋の外で待っていて、Jさんが部屋を出るのを見計らって僕を閉じ込めたんだ。いつもそう言うことをするんだあの人は。そうだ、そうに決まっている。そうであってくれ!!

「ヨシダさんだろ!? どういうこったよ!? なんだよやめろよ、早く出してくれよ!」

 怒りと恐怖で声が裏返っても、埃っぽい部屋で怒鳴り散らしているせいで早くも喉の奥がひりひりと熱く痛んできてもお構いなしだった。僕は再び暴れ出し、ドアを激しくたたいた。

「おおおおおおおおおい! Jさん、ヨシダさん!! 開けてよ!ねえ!!」

 ドンドンドンドンドンドン!

 ガンガンガンガンガン!!

 ドンドンドンドンドンドン!

 ガタン! ガタン! ガターーーン!

 僕は怒り、叫び、ドアを破壊しようと必死で暴れた。背後に迫る真っ暗闇が怖くて仕方がなかった。絶望、という言葉が脳裏にチラつきだした。どうしてこんなことに……僕が気を失っている間に、いったい何があったんだろう。物凄く気になったが今はそれどころじゃなかった。ドアの向こうから足音が聞こえたのだ。だんだん遠ざかっていく。まさか、本当に置いてけぼりかよ! 冗談じゃない!!

 このドアの外にヨシダさんが居ると思った時、僕は心の奥底でほんの少し安堵し、そして期待していた。いつか見た光景のように、照れながらおどけたヨシダさんと困った顔をしたJさんが並んでいて、このドアを開けて灯りを点ける。部屋の真ん中に車座になって座り、すべての顛末を聞かせてくれる。そんな結末を。しかし……それらすべては僕の他愛ない妄想であり、いくら叫んでも願っても、部屋いっぱいの深い深い暗闇に吸い込まれてゆくだけだった。


 どのぐらいの時間が経っただろう。たとえものの二分しか経っていなくても二日ぐらい過ごしていたような気分だった。目を開けているのか閉じているのかさえ解らなくなるほどの、果て無き暗闇の中で僕はかろうじてドアに手をついて、自分が、まだ、今、ここに居ると自覚していた。そうでなければ前後左右も上下の感覚さえ失くしそうなこの暗闇に飲み込まれて、このまま二度と外にも出られず、現世から消え失せてしまうような気がしてならなかったからだ。


 キーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン

 という、静かな、細い音がずっと耳の奥で鳴り続けている。それは時折自分のすぐそばまで近づいては、徐々に離れていく、その繰り返しだった。だけど、いつも頭の真ん中に直接聞こえてくるようで、決して消えることはなかった。

 僕はざわざわする胸の中とぞわぞわする背筋を懸命に落ち着けようと、深呼吸を繰り返した。丹田に息を集めてゆっくりと吐き出す……それを何度も繰り返していると、はじめは息を吸い込み、吐き出すときにも止まらなかった身体の震えが次第におさまっていくのを感じた。さらにもう一度、すう、と一呼吸おいてみると、ようやく気持ちの高ぶりが収まってきたようだった。


 改めて息を吸い込むと、猛烈な臭いが鼻を突いた。埃とカビと籠りきった空気と、あとは、何だろう。物凄く嫌な臭気が鼻腔を無理やり通り抜けて、肺の中まで入り込んでくるような感じだ。心の底から気持ちが悪くなる、じめっぽく生臭いような、干潟で腐ったヘドロを踏みしめるような。いやもっと酷い、腐り果てた膿や血反吐が干からびたような。とにかく何か塩辛くて生臭いものが腐って、それから乾いていくときのような臭いだった。僕は再び背筋からぞわーっと鳥肌が立ち、呼吸がおぼつかなくなっていった。この臭い、僕は知っている……どこかで、それもごく最近嗅いだことがある。だけど、それを思い出さないように頭と心が必死で抵抗している。思い出しちゃだめだ……考えちゃだめだ……嫌だ、嫌だ!

 僕は鼻の奥に染み付いた忌まわしい記憶をすっかり思い出していた。この臭い、忘れようにも忘れられない。何年経っても何かの拍子に不意に思い出すであろう程の強烈なショックを僕に植え付けた、あまりにも哀しい死の臭い。目を開けていられない程の真っ暗闇に浮かんでいると、ぎゅっと閉じたまぶたの裏側がぼわんと赤っぽく見えたり黄緑や青黒い残像がチカチカと揺らめいて、ほんのりと明るさを感じるほどだった。そんな僕の目の奥で踊る記憶の漣が、部屋中に充満する臭気の元をはっきりと映し出してしまう。僕の意識の必死の抵抗も及ばず、消しようもない、目を逸らすことも出来ないただ一つの闇である僕のまぶたの裏側に。

 それは、この建物の一階にある開かずの倉庫にぶら下がっていた首吊り死体。あの時に倉庫の中から漏れ出てきた臭いそのものだった。腐り果てた胴体を暗闇に浮かぶグロテスクなブランコのようにして飾り付けていた目玉のない顔の、醜くゆがんだ表情。あまりの苦しみに耐えかねた為に自ら抉りだしてしまった目玉の痕が、今もって生々しく残るあの顔。思えば僕はあの死体を前にして気を失ってしまったのだった。その為にあまりはっきり見ないで済んだものと思っていたのだったが、どうやらそうではないらしい。あまりにもはっきりと直視してしまったために、恐怖のあまり失神してしまったのだ。

 僕は反射的に目をぎゅっと閉じた。だが、それは全く逆効果だった。だってそもそも僕は今、目を閉じているのだから。両目の周りの筋肉が収縮され、流れ込んだ血液がまぶたの裏側にチカチカとピンクや緑色の模様になって混ざり合い、一瞬だけ消えたあのおぞましい顔を、よりグロテスクで鮮やかにして浮かび上がらせてしまった。

 しかし、かといって目を開けることも出来なかった。僕は目を開けているのか閉じているのかもわからなくなりそうで、ぎゅっと目を閉じて顎を引いたまま暗い部屋の中を右往左往した。


 ぎぃ。

 僕が土足で畳の上をどすどす、ずりずりと歩き回る音に紛れて、耳の奥底にじわりと垂れたように、心の底が赤黒く煮えるような音が聞こえてきた。思わずハッとして動きを止めると、またキーンという音だけが暗闇に残されて、そのカン高い音に紛れた、嫌な音が

 ぎぃ。

 と聞こえた。

 この音もまた、僕の記憶を無理やり呼び起こす事になった。もう無駄な抵抗をせず、僕はあの倉庫での惨状を詳細に思い出していた。臭い、まぶたに浮かぶ顔、そして耳にこびりついて離れない、彼女をぶら下げたロープの軋む音。あまりに鮮明な記憶が恐怖に拍車をかけていた。

 僕はもはや部屋の中を歩き回ることも出来なくなった。まぶたに浮かんでくるぐらいならまだ良かったと気づいてしまったからだ。あの軋む音は……果たしてただの空耳や、幻聴の類だろうか。それとも。


 さっきからずっと目を閉じているせいで、少しバランスを崩してしまった。おっと、と左側に軽くよろめくと、疲労もあって思ったよりも大きく体勢を崩した僕の背中に

 とん

 と何かが当たった。人の身体ぐらいの厚みがあって、サンドバッグのように揺れている。そして、その物体は恐ろしく冷たかった。

 !?

 もう声も出なかった。叫び声を上げようにも、喉が引きつって息も出来ない。目を開けて、自分の後ろを確かめるべきだろうか。それとも、ずっとこのまま、あの二人が戻ってくるのを待ち続けるしかないのだろうか。そんなのは嫌だ!

 僕はなけなしの勇気を振りしぼって、うっすらと目を開けてみた。濃密で極細かな埃やカビの胞子が充満しているであろう室内の空気は、僕のまぶたの動きにさえも反応して流れを変えたのがわかるくらいだった。そして僕が掴んだ感覚はそれだけだった。そう、たとえ目を開けても、そこに広がる闇はさらに恐ろしい底なしの暗黒なのであった。

 誰からも忘れられた聖域の無限の暗闇の中でひとり絶望している僕の背中に、もう一度

 とん

 と何かが当たった。ぎいぃ……と何かが軋む音がする。僕の耳のすぐ後ろで。何かが。

 体が跳ね上がるぐらい大きくビクついた僕はそのままバランスを失って、ついに畳の上に倒れこんでしまった。ドターっと大きな音が響いて、かび臭い畳に仰向けになって天井の方を見上げた。僕は目をハッキリ開けていたが、見上げた先にはやはり暗闇だけが広がっているはずだった。濃密な闇の中で、僕は何かに縋ろうと思わず両手を突き出して掌を広げた。その先にある指先にさえ、光は届かない。それなのに……広がった指と指の間から、ぼうっと浮かぶ赤い二つの目玉が、僕をぎょろりと睨みつけて消えていった。

 一瞬の事だったが、確かに見た。いや、こっちを見ていた。燃えるような、文字通り真っ赤な眼差しが僕の目玉から脳髄に至るまで突き刺すように。そして僕は仰向けで絶句しながら、さっき自分の背後で揺れていた冷たい何者かが、ちょうど倒れこんだ僕の真上に居る事に気が付いた。

「うぎゃああああああああああああああああああああああ」

 その時、堰を切ったように僕の喉が思いっきり開いた。あらん限りの声で悲鳴を上げながらごろごろと勢いよく横に転がってから立ち上がると、そのまま走り出した。真っ暗闇の中でドアも壁もわからず、とにかく走った。土足で畳を踏みしめているので、足元からぶちぶちと鈍い音がする。僕の身体がドアや襖にぶつかって、どーん! と大きな音を立てる。

 その騒音に紛れて、さっきからパチン! とか、パン、パンパン! と乾いた音がする。初めは自分の乱暴な動きの所為で何かを引きずったり、ぶつかった拍子に何かが音を立てているのだと思っていた。

 僕は猛烈に焦りながら、手探りでドアノブを探した。部屋の真ん中にはアイツが居て……風もない部屋の中でゆらゆら揺れてるんだ。僕は自分がどこを向いているのかも分からなくなってたけど、それでも部屋の真ん中に背中を向けようと懸命になって、両手を伸ばして出口を求めた。

 パチン!

 また音がした。僕は思わず立ち止まってしまった。恐怖と焦燥を紛らわせるため手先だけは休めずに動かして、ブツブツと低く独り言を口にしながら、音の正体に気付かないよう必死で抵抗した。

 パチン!

 パチン!

 音だ。何か固いモノがはじけるような……平らでよく乾いた板が綺麗に割れたような音だった。僕はついに手の動きを止めてしまって、両手で耳を塞いで立ち尽くした。目を閉じても閉じなくても同じぐらい暗かった。

 パパパパン! パン!

 パチパチン!!

 バッチン! バチン!

 バタン! バタン!

 音がだんだんと激しく、大きくなってきている。さっきまで僕とJさんの荷物以外にほとんど何もなく、空っぽ同然だった部屋で、何がこんなに大きな音を立てているというのだ。暗闇、謎の手触り、そしてこの音。僕の限界はとうに過ぎ去っていて。もはやパニックさえ起らなくなっていた。

 パチン! と音がするたびに、背中が跳ね上がりそうなぐらい怖かった。もうやめてくれ……僕はただ、友達を探しに来ただけなのに。パチン! やめてくれ……パチン! やめろ……パチ……パキッ……パッチン!

 やめてくれ!


 ガチャッ。

 その時、僕の左手が冷たく、硬いものに触れた。丸っこいかたち、少しだけ左右に回るけど、無情な音と手ごたえで回転が止められてしまう。これだ! ドアノブだ!

 僕は再び力を振り絞って、このドアノブ周辺をめがけて体当たりをした。どかん! と音を立て、暗闇の中でもうもうと埃が舞っているのがわかる。パチンパチン! という激しい音も止まることがない。だけど、もう怖がっている場合ではない。今度これを見失ったら、もう二度とこの部屋からは出られないと思っていた。

 どーーん!

 何度目かの体当たりを浴びせた時、大きな衝撃とともに、みしっ、と小さな鈍い音が聞こえた。ドアが破れたか、蝶番が壊れたか……どっちでもいい、もう一度……!

 どしーん!

 めりめり……めり……

 ドアが開いた。木製のドア板がどうにかひび割れて、上側の錆びついた蝶番の片側がすっかり外れて、ドアはか細い悲鳴のような音をキィキィと鳴らしていた。僕はさらに渾身の力でドアに向かって飛び蹴りを見舞うと、がちゃん、と音がして完全に上側の蝶番を壊してしまった。板の割れた部分が見えないので、ゆらゆら揺れるドア板を手探りで手繰り寄せ、端っこを掴むと一気に下側へ押し込んだ。

 バキバキバキバキ!

 と凄まじい音がして、ドアは完全に……横にではなく縦方向に開かれた。そして引き倒したドア板をその場に倒し、ぽっかりと空いたその部屋の入り口を僕は見た。

 真っ暗だった。


 廊下に出ても、ようやく暗闇に目が慣れてきて、手元の辺りが暗視カメラのようにぼんやりと見えるほかは、何も見えなかった。この部屋だけじゃないんだ……僕はようやく冷静になると、そのことに気が付いてしまった。この建物の中に明かりなどというものは無いのだ。一切の光を失い、まるでこの濃密な夜に溶け込んでしまったかのように。

 そして僕は、この建物のどこかにいる歳の離れた親友とその過去を知る重要参考人を探し出すために、たった一人で背筋を這い回る猛烈な恐怖との戦いを続けなくてはならなかった。

 ごくり、と生唾を飲み込んで、僕は暗闇の中へと歩き始めた。


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