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タクシー運転手のヨシダさん  作者: 佐野和哉
タクシー運転手のヨシダさん
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完結編・その3 倉庫

 どばっったああああああん!! がしゃん、ばりばりん。ぱりん。


 埃混じりの猛烈な砂煙がもうもうと上がる中に、職員室の引き戸がゆっくりと倒れてゆく。何度目かの体当たりが功を奏し、僕とJさんは漸く閉ざされた空間から開放された……が、僕たちは依然として、聖域と呼ばれる森の中に残された廃墟の中に居る。

「ご苦労様です」

 Jさんがゆっくりと部屋から出て来て、僕と自分の肩に付いた埃を払っている。払っているのか祓っているのか……どうか埃であって欲しい。

「これからどこへ?」

「211号室、ですね。」

 Jさんは鍵の束をじゃらりと鳴らして答えた。

「その部屋が」

「ええ。彼の部屋です」

 ヨシダさん。僕の親友であり、Jさんが最初に手がけた「現象」でもある。もはや張本人とか被害者ではなく彼そのものが今なお僕とJさんを巻き込んでいるような、そんな気がしていた。いつの間にか姿を消した彼の影を追いかけて、僕は結局こんな山奥の、誰からも忘れられた廃墟までやってきたのだから。


 職員室を出て正面玄関へ戻る。建物に入ってすぐ正面に、二階へ続く階段がある。ちなみにそのまま反対側、つまり正面から見て逆L字型になった建物を真っ直ぐ進むと、風呂場や洗濯場、給湯室・調理室と続き、一番奥には物置などがある……と、苔むした館内の見取り図に書いてある。

 外はすっかり陽が落ちてきて、そんな見取り図や天井付近が暗く見えなくなってきた。Jさんと僕は肩を並べて階段に向かって歩いてゆく。と、不意にJさんが足を止めた。僕は一歩勇み足のようになって立ち止まり、彼に尋ねた。

「どうしたんですか?」

 正直な話、さっきから散々巻き起こる不可解な現象にすっかり参ってしまい、僕は一刻も早くいい年こいて行方不明の馬鹿たれを見つけ出して、出来ることならこんな場所に泊まらずサッサと清潔で温かいお寺に帰りたいと思っていた。

「何か……聞こえませんか?」

「へ?」

 つい、耳を澄ませてしまった。すると確かに妙な音がするような。でも、風で草木がこすれる音のようにも、どこかから隙間風が吹いているようにも聞こえる……それはしかし、強いて言えば、誰かが暗く湿った部屋の奥で、すすり泣いている声にも聞こえた。

「泣いて……る?」

「ええ。どなたでしょうねえ、こんな場所で」

「どなたってJさん!?」

「なんです?」

 そう言いながらJさんはスタコラ歩き出していた。声の聞こえてくる方向。廊下の一番奥にある倉庫に向かって。僕は心底行きたくなかったが、一人で引き返す勇気と気力も、その場にとどまる度胸もなかった。脳裏で「ある記憶」が蘇って来るのを感じながら、仕方なくJさんの後を追った。


 この施設の倉庫の事を、以前ヨシダさんから聞いたことがある。彼が東京の蒲田に居た頃。馴染みの居酒屋の座敷席にデンと胡坐をかいてお酒を飲みながら。僕はその時に聞いた物語、それを話す彼の口ぶり、そして横取りされた砂肝の串焼き(塩)の事までまざまざと思い出すことが出来た。それがどうだ、よりによって聞いた通りの事が起きるだなんて。


 この施設が閉鎖されて一年ほど経った時の事。ここから遠く離れた某市で行方不明になっていたある女性の捜索が行われていた。そして女性は意外な場所から最悪の形で発見されることとなった。

 そう、この倉庫から首吊り死体として見つかったのだ。それも両目が潰れた状態で。行方不明になった当時の住まいに残された遺書から人生に絶望した末にこの場所で自殺に至ったということがわかった。しかもこの女性は施設にたどり着いて自殺を試みるも首の吊り方が悪かったかすぐには死ねず……ぶら下がったまま三日余りの間苦しみ続けたのであった。そしてあまりの苦しさに暴れもがき、自分で両目を抉ってしまった。死因も頸動脈を圧迫した事による窒息ではなく、元々ズタズタに傷ついていた心身へ自らが与えた三日間にもわたる拷問に耐えられず、ついに衰弱した事が直接の原因だとか。

 そしてその後この施設を訪れた者には、女が首を吊りながら死ねない……苦しい……と泣く声が聞こえてくるという噂が流れ、あっという間に広まった。結局、当時この施設を管理していた会社が倉庫の扉を厳重に施錠してお祓いまで済ませ、ただの廃墟の物置はめでたく開かずの倉庫となったのだった。

 あまりに陰惨なこの噂が広まるにつれ、いつしかヨシダさんの耳にも届いた。彼は心を痛めていた。自分が育った施設がなくなってしまったと思いきや、今度は自殺……。しかし当時のヨシダさんが心を痛めていたのは、もっと別の、深く暗ぼったい所にある事情だった。僕にはそれを聞かせてはくれなかったし、僕も聞けなかった。だけど僕は今、その現場に居る。倉庫の真相を語らずして消えた、当の親友を探すために。


 開かずの倉庫の扉の前には、どこからか摘んできた小さな野の花が2つ、少し萎れて置かれていた。

「Jさん、これ……もしかして」

「しっ」

 Jさんに制されるまでもなく、扉の前まで来てみるとハッキリ聞こえてきた。

 スン……グスン……グッ……グッ……グスッ

 うう……う……ううう……う……


 分厚く冷たい赤錆色の扉の向こうで、彼女は今も宙ぶらりんのまま彷徨っているのだろうか。僕はJさんの後ろに立って、彼の動きを待った。鳥肌と寒気が止まらない……耳を塞ぎたくても体が動かない。少しでも動いたら、何かが起きそうで怖かった。

 観音開きになった扉のコの字型をした取っ手は頑丈な鎖で幾重にも巻かれ、大きな南京錠がかけられている。しかしそれらの施錠をより完全に近づけているのは、鎖と南京錠にびっしりこびりついた赤茶色の錆だろう。よしんば鍵を持ってきても、これではもう開くまい。

 僕は薄目を開けて扉を観察して、そのように考えた。そしていくらJさんやヨシダさんでも、これなら中へは入れないし、見ることもないだろう。そう思った次の瞬間。


 ぎちっ。


 いやーな音がした。僕の背後──窓の外だ。大きな、野太くてはっきりとしたその音は、ひと言で言えばまるで

「固く縛られたロープがきしむ音」

 のようだった。

 背筋が突っ張ったように固い。でも気になる。意を決して後ろを振り返った僕が見たものは……窓の外、二階の辺りからぶら下がっているであろう、ボロボロの服を着た女性の胸から下の身体だった。顔までは見えなかった。

「ああああああああああああ!」

 僕の言葉にならない叫びを聞いたJさんが振り返ると、小さな声で

「いけない」

 とつぶやいた。僕はパニックになり、床に尻もちをついて再びJさんの背後に回りこんだ。そして開かずの倉庫の扉に思いっきりもたれかかった。


 カッターーーーン!!

 じゃらじゃらじゃらじゃりりーん……


 次の音。大きな、がらんどうの廃墟の廊下に良く通る固い音。

 大きな南京錠がタイル張りの床に落っこちたような音。それに続いて、長い鎖が支えを失って地面に叩きつけられたような音だった。


 あれほどガチガチに錆びついた南京錠は綺麗に折れて、がんじがらめに錆びついた鎖もすっかりほどけて床に転がっていた。

 Jさんは窓の外を見たまま、じっとしている。もう、ぶら下がった女性は見えなかった。ちなみになぜ女性だと思ったかといえば、着ていた服の印象だ。彼女はスカートをはいていた。それに長い髪の毛が腰のあたりまで伸びていたのも覚えている。


 Jさんは漸く扉の方に向き直ると、すい、と一歩前に出て目を閉じた。僕は彼の目の前にへたり込んでいたのだが、邪魔っけな気がしたのでへっぴり腰で立ち上がって彼の後ろに立って様子を見ていた。微かなすすり泣く声と外に吹く風の音にまぎれて、Jさんのお経が聞こえてくる。ブツブツとこちらも小さな声で、僕には聞き取れない言葉を矢継ぎ早に繰り出して、時折深い息をついた。

 どのぐらい経っただろうか。気が付くとJさんのお経も、すすり泣く声も少しずつだが大きくなってきている。扉の向こう側に居る気配が、明らかに熱を持ち、膨張している感じだ。建物の中の空気の質は冷たく埃っぽいのだが、この扉の前に居るとそれとは少し違った雰囲気を感じることが出来た。そしてそれは、決して心地良いものではなかった。


 ブツブツブツブツブツブツ……

 グス……グスン……ヒグッ……グス……

 ブツブツブツブツブツブツブツブツ

 スン……スン……グスッ……

 グッ……!!


 扉の向こうで何か妙な声がした。すすり泣きの最後、まるで息が詰まったような。

「いけません!!」

 Jさんが左手を突き出して僕を制止した。危うく身を乗り出して扉に近づこうとしてしまった僕が、ハッと我に返って一歩下がったその時


 ぎぃ……

 ぎぎぎぎ……いいいぃ


 扉が開いた。もちろん僕もJさんも何もしていない。三分の一ほどまで開いて止まった扉の向こう側から、冷たくて湿っぽくて、ひどくカビ臭い空気が流れだしてくる。床の上を這うように僕とJさんの足元に絡みつき、扉の向こう側へいざなうように。


 僕は顔を傾けて、そっと部屋の中を見てしまった。真っ暗で、薄暗い廊下からは光も差さない。けれど何故か、白く、ぼうっと浮かび上がるように、それはハッキリと見えた。

 ボロボロに擦り切れたような太いロープを首に巻きつけてぶら下がった、血まみれの女性。目玉は二つとも無かった。その空っぽの相貌でこっちを見下ろしている。暗くくぼんだ眼窩から垂れた血膿と溶けた肉の塊がどろどろに腐敗して顔面をつたっていた痕が、青白い皮膚に残っていた。


 そして気が付くと、僕は湿った畳の上に横たわっていた。気を失ったらしい……Jさんの姿はない。部屋にはランプが灯され、僕のリュックとJさんのリュックだけが部屋の隅にぽつんと置かれていた。どうやら、ここが因縁の211号室のようだ。

 古くなってよどんだ空気が身体に纏わりつくような何とも不快な感触を覚えた。何年も閉めきっていたのだから、それも当たり前なのだろうけれど。

 と、その時。

 部屋の外から足音が聞こえてきた。しんと静まりかえった建物の廊下に、スタスタと音を立てている……Jさんかな。こんな場所でいつまでも一人で居たくなかった。あの首を吊った女性の顔がまぶたに焼き付いて、目を閉じることも怖いぐらいだ。早く戻ってきてくれよJさん。

 あれ?

 足音が二人分ある?誰だろう……まさか?


 僕は期待と不安で胸がいっぱいになっていた。度重なる恐怖で疲れ切った心身に、ようやく光がさすような思いだった。そして二人分の足音は僕の居る部屋のドアの前で止まった。がちゃり。ドアノブを回す音。僕は思わず、ドアの前まで駆け出して叫んだ。


 ヨシダさん!?


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