完結編・その2 孤独の森
遅い午後の陽射しが濃密な森の木立の隙間を縫うように差して、金色に近いオレンジ色の細長い光が僕とJさんの横顔を照らしている。建物の正面玄関の鍵は空いていて、驚いたことに真新しい足跡が残されていた。床は病院によくある薄緑色のやつで、積もりに積もった砂埃や泥の中に革靴のような足跡がクッキリと見て取れた。僕とJさんは顔を見合わせた。ヨシダさんは革靴を好んで履いていたからだ。
このとき、二人とも前を向いていなかった。前を向いていれば、視線の先には逆L字型になった建物のたった一つの曲がり角があった。正面玄関から数メートル先にある、通路が直角に折れ曲がったその辺りから
トッタッタッタッタ……
足音。誰かが奥へと進んでいくような足音が確かに聞こえた。僕とJさんはほとんど同時に顔を上げて、僕だけが走り出していた。ヨシダさん!? 本当に、ココにいるのか!
「お待ちなさい」
Jさんは落ち着き払っていた。静かに、しかし抗いがたい声音で僕を呼び止める。
「だって今のは」
「彼だ、という、確信が、ある……の、ですか?」
ぐっ。僕は喉まででかかった感情的な反論を飲み込んで、Jさんの双眸を深く見つめた。Jさんは穏やかな顔をしていたが、しかし恐ろしいことを口にした。
「窓の外……見えますか?」
「?」
「我々が、歩いてきた時。風は……ありませんでしたよねえ」
窓ガラスに向かって振り向いた僕は、愕然とした。廊下の窓の外に見える木々は、どれも激しい嵐に見舞われたように荒れ狂い、前後左右に枝葉を揺すっていたのだ。
ごおおおおおお……どどおおおおおおおおお
がさがさがさがさがさ……がさがさがさがさ
荒れ狂う森の木立が揺れ動き、窓ガラスや外壁を叩く音ががらんどうの廃墟に響き渡る。しかし、風の音も嵐の気配も全く感じない。空も明るいままだ。
と、
トッタッタッタッタ……
またしても足音。僕は再びJさんを見て、何か言葉を発しようとする。
タタタタタタタタタ……
足音。
カカカカカ…コトコトコト……
足音。
トッタッタッタッタ……
足音!!
いつの間にか、通路の奥から階段の上から天井から、無数の足音が鳴り始めた。僕の居る真上を、みしぃ、と床を軋ませて歩いてゆく音。Jさんのすぐ後ろを、パタパタと駆け抜けてゆく音。二人の周囲をドタバタと走り回る音。
「囲まれ……ました……ね」
Jさんは落ち着いているが、先ほどから同じ場所に立ったまま動かない。じっと立ち尽くして一点を見つめている。僕も仕方なくその場に立ってJさんの視線の先を追ってみた。どうやら、さっきの通路の曲がり角を見ているらしかったが……あっ!
居た。誰か居た。小さな人影がコチラの様子を窺うように覗き込んでいて、僕に見つかって引っ込んだ。ハッキリとは見えなかったが何故か子供の影だという確信があった。そういえば元々ここは孤独な子供達の寄る辺だったのだ。幼かったヨシダさんもここで漸く仲間が出来て育っていった。すると、この足音はみなココで育った子達のものだろうか。
かろうじて、という感じで西日の差し込む窓。その向こう側には相変わらず風もないのに揺れ続ける木々。そして廃墟の中は姿なき足音と、なにやら小さな影の気配が徘徊している。この異常な状況の中、僕はJさんに声をかけた。
「この子達は」
「しっ。静かに……」
Jさんは僕の言葉をさえぎって、ゆっくりと足を踏み出した。正面玄関には沢山の下駄箱が並んでおり、スチール製の箱はさび付いた鈍い灰色……もちろん、中に靴など入っていない。一つだけ、古い子供用のスニーカーが残っていた。名前が書いてあったみたいだが、最早読み取ることは出来ない。僕はJさんの後にピッタリとついて、いよいよ建物の奥へと侵入した。
窓の外で揺れる森も、相変わらず縦横無尽な足音も止まなかった。ずっと僕たちを取り囲むように、乾いた足音が鳴り続けている。かすかに。確かに。
Jさんにはアテがあるらしく、スタスタと歩いてゆく。そのすぐ後ろを僕が続く。そして僕の後ろからも、幾つかの足音がついて来ていた。僕とJさんの足音以外に、明らかに質感の違う足音が紛れているのだ。
ク……スク……クス……
今度はなんだ!?
クスクス……クス……
声?
クスクスクスクス……
誰かが笑っている。子供だろうか。耳を済ませてみるといつの間にか足音が遠ざかってゆき、入れ替わるようにか細くはにかむような響きのある笑い声が幾つも重なって響いてきた。先を歩くJさんは落ち着いた様子で辺りを見渡すと、ああ、と一人で納得して立ち止まった。着いた先は……職員室。どうやら、ここが目当てだったようだ。
よくある細長いプレートがドアの上に取り付けられている。ああ、職員室って書いてあるなあ、と僕がそのプレートの文字を左から右へ読み流したとき。
あっ!!
声も出せず僕は叫んだ。天井近く、2メートルほどの高さに長方形の窓が二ヶ所ある。そのうち右側の窓が開いていて、向こうから誰かが覗き込んでいた。目と額しか見えなかったが、血走ってぎょろりとした、妙にグロテスクな表情をしていた。僕は一瞬、中に入るのは止めた方がいいんじゃないかと思った。Jさんにそれを伝えるために振り返ると、Jさんは既に引き戸に手をかけていた。
「Jさん、ダメだ!開けちゃ」
クスクスクスクスクス。
真後ろだ。僕の。
僕は凍りついたように、身動きが取れなくなってしまった。誰か居る?
さっきの笑い声のうちの誰かか。それとも──
「いけませんよ」
Jさんがこちらを向いて、静かに、厳しい声で言った。彼には見えているのだろう。僕は恐怖と好奇心が混じり合って危うく後ろを振り向く所だったがJさんのひと言で僕は勢いよく前を向き、職員室の引き戸にはめ込まれた曇りガラスをぼんやり見ていた。何十秒、何分間、そうしていただろう。実際は数秒だったのだろう。僕はハッと我にかえった。そして曇りガラスの向こう側に、ハッキリと人影を見た。黒く、ぼんやりと人の形をした……ずんぐりした体型に見えるその影が、
バン!!
と曇りガラスの向こう側を叩きながらへばりついてきた。うっすらと顔の形が透けて見える…目玉のような球状の物体が薄汚れたガラスの向こう側でぎょろりと動いた。
「ひっ!」
僕は引き戸の前から飛びのいて、反射的に右手を引っ込めた。すると……こつん、と何かに当たった。肘の先端にしっかりと感触が残っている。冷たくて柔らかくて、まるで真冬に屋外に出ていた子供の肌ような……恐怖のあまり、思わずその場でたたらを踏んだ僕に、Jさんが言う。
「私、ですよ」
慌てて振り返ると、いつの間にかJさんが僕の後ろに立っていた。ああ、心臓に悪い……。と、Jさんは黙って僕の左肩をぱん、ぱん! と二度叩いた。
「ずいぶん、賑やかな場所ですね」
ああ、心臓に悪い……!
がらがらばっしん!
Jさんは呆気なく職員室の引き戸を開け放って、室内に侵入を果たした。その後から僕も恐る恐る中に入ると……当然と言うべきか意外と言うべきか、中は全くの無人だった。少なくとも生きた人間は居なかった。
濃密なカビのにおいが充満する室内に突然気流が生まれたために、窓から薄っすら差し込む山吹色の日差しの中できらきらと埃が舞う様が妙に美しかった。うっすらと霞むほど澱んだ空気がゆっくりと撹拌されゆるやかな渦を巻く。その光の中で僕はさらに前へ進み、咳き込みながらJさんを目で追う。Jさんはスタコラと軽い感じで室内を物色し、壁に備え付けられた掲示板からある物を見つけて、ちりんと音を立てて取り外した。鍵の束だ。
「さて、佐野君」
Jさんは鍵を右手に持って振り向くと、こう訪ねた。
「君はこの部屋に入る時、扉を閉めましたか?」
「えっ?いえ、開けたままでした……があっ!?」
振り返って愕然とした。こんな所に居るのはあんまり怖いので扉を閉めずに部屋に入ったのだ。それなのに、その引き戸は音も無く完全に閉まっていた。
「そんな!?」
僕は慌てて引き戸に取り付いて、思い切り開け放った。引き戸はガラガラと大きな音を立て、右側にスライドしていくはずだった。実際は、ビクともしなかった。
「開かない」
「開きませんね」
「どうしましょう」
「どうしましょう」
すっかりビビッて泡食っている僕を、Jさんは落ち着いた声で諭してくれた。
「開かない扉の、対処法なら、君のほうが得意……でしょう」
生憎と僕はひとりでに閉じた扉を開ける方法なんて知らないのだが……。
「佐野君。多くの恐怖が、何処から生まれるか、ご存知ですか?」
「は、はい?」
突然の問答に面食らう僕に、Jさんはしれっと答える。
「先入観、ですよ。扉は、勝手に閉まったのでも、この廃墟に潜む、誰かが、閉めたのでもない……そう、ただ、閉まっているのです。これはいま閉じている、ただの引き戸」
「……」
「後は、わかりますね」
あ、わかった。でも
「ば、バチ当たりませんかね?」
「ええ。構いませんよ。どうやら窓からも……出られませんし、ねえ」
「へ?」
思わず窓の方を向き直って、僕は何度目かの声にならない悲鳴を上げた。夕闇の濃くなってきた森の中、激しく揺れる木立と木立の間に、灰色をした半透明より少し濃い人影がゆらゆらと集まっていた。それも十人や二十人じゃきかないぐらい居る。
「Jさん、これは!」
「彼らは、みな、孤独、なのでしょう。そして、この廃墟は……孤独なまま変わり果てた、彼らの、最後にして、唯一の……聖域……なのですよ」
「その聖域の扉を一つ蹴倒そうとしているのですが」
「今更、引き戸の一つや二つ、変わりませんよ」
「そういうもんでしょうか」
「そうですとも。……我々は、すでに聖域を侵しているのです。彼らに残された、この…孤独の森をね」




