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タクシー運転手のヨシダさん  作者: 佐野和哉
タクシー運転手のヨシダさん
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完結編・その1 二十一世紀の聖域

 いずことも知れない、深い山の中。

 背中のリュックサックがずしりと肩に食い込んで痛い。僕は息を吸い込みながら下腹に力を入れて、ゆっくりと確かな足取りで歩き続けていた。先を歩くJさんの背中にも、大きな蛍光色の可愛らしいリュックが乗っかっている。

 鬱蒼とした雑木林の中は思いのほか静かで、二人の足音だけが木漏れ日の中を進んでいく。道らしい道も無く、時おりJさんが地図を見て現在位置を確認しながら進んでいた。

 時刻はそろそろ昼過ぎになろうとしている。ふもとの空き地に乗ってきたJさんの自動車を停めて、そこから延々と徒歩だ。かつては自動車の通れるれっきとした道路があったのだが、施設が閉鎖されて十数年の間にすっかり埋もれてしまったのだという。僕たちの目指す場所であり最後に僕を待つ場所も、やはり廃墟なのだった。忘れ去られた家。僕のかけがえの無い親友の始まりの場所であり、モニュメント。


 僕とJさんは少し開けた場所に手ごろな石と倒木を見つけて、そこに腰掛けて昼食にした。Jさんのお寺で用意してくれたオニギリは大きくて、塩気が効いていてとても美味しかった。水筒のお茶を美味しそうに飲みながら、Jさんは少し赤らんだ顔をこちらに向けた。

「大丈夫ですか? もう少し、休みましょうか」

「いえ、大丈夫です。あとどのぐらいですか?」

「そうですねえ……」

 手元に地図を広げてふむ、と息を吐いたJさんが続ける。

「もう、あと、一時間も、歩かない、はずですね。では、参りましょうか」

 言うが早いか、Jさんはすっくと立ち上がって歩き始めていた。あと1時間かぁ……もうちょい休んどきゃ良かったかな……と僕は少しだけ後悔したけれど、黙ってJさんの後を付いていった。


 そこから暫く、口数も少なく歩き続けていた。足元の草木を踏みしめる音、小石を蹴飛ばす音だけがざっくざっくと聞こえてくる。相当深い山らしく、景色も余り変わらないように見える。目印になるような岩や大木も無い……と

「いてっ!」

 僕は足元に突き出した石に蹴躓いて、少しよろけながら立ち止まった。やれやれ、と小憎らしい足元の石を見て……

「あっ……Jさん!!」

 思わず悲鳴を上げてしまった。その石は、さっき僕が腰掛けてオニギリを食べた石だった。Jさんの座っていた倒木もそのままの格好で横たわっている。少し先を歩いていたJさんもその場に立ち止まって、辺りをキョロキョロと見回してこういった。

「どうやら、近くまで来たようですね」

「へ?」

 僕は先ほどの石に再び腰掛けながら、Jさんを見上げた。二人とも少し息が上がっていて、Jさんは深呼吸を一つして話し始めた。

「佐野君、君の聞いたお話の中に……彼がココへ着たばかりの頃の話がありましたね」

「ああ、赤い着物を着たオカッパ頭の………まさか」

「ええ。その、まさかです」

 僕は自分の想像した答えを口に出来なかった。恐ろしかった。とうとう足を踏み入れてしまったのだと実感して、急に頭がぐわああんと大きく揺れながら回り出すような感覚にとらわれた。その恐怖を振り払うように、Jさんはあっさりと言ってのけた。

「ここは、既に、一種の、聖域……なのですよ」

「やっぱり」

「いま、気付いたのですが、磁石が、役に立ちません。このように、全く、狂ってしまって、いるのです。危うく、道に迷う、所でしたね。このまま、歩き続けていたら」

「僕らは確実に……」


 Jさんの顔つきがキッと変わった。藪深い獣道をじっと見つめて、そのままの姿勢で僕に言った。

「思ったより、近そうです。私も、なぜ、気付かなかったのか……」

 後半は独り言のように呟いて、Jさんはすうっと息を吸い込んでそのまま歩き出してしまった。僕も立ち上がって、ズボンのお尻をはたきながら後に続いた。

 さっきとは少しずれた方角に分け入って、ちょうど木立が二つ並んでアーチのようになった場所をくぐったその時。途端に周囲が薄暗くなり、大きな木々のみっしり生えた深い森に入ったらしかった。進もうとすると背の高い草むらに行く手を阻まれる。濃密な緑色の洪水に飲み込まれるように、僕はもがいて、抗った。そして歩き続けた……だが、前を歩くJさんの背中は少しずつ遠ざかってゆく。足が重くて、どうにも前に進まない。ああ、僕はここで置いていかれてしまうのか。ここまで体力が無いとは思わなかった……やっぱり鍛えていないとダメだなあ……。

 Jさんの背中がとうとう小さくなって、草いきれに隠れてしまった。ばさばさばさ! と、大きな鳥が飛び立つような音がして、僕はハッと正気に戻った。何故か今、意識はずうっと沈み込み、白昼夢を見ていたように視界がぼんやりとしていた。残った体力を振り絞って歩き続ける。顔を上げることも出来ず、ひたすら足だけを前に前に出して。ざあ、ざあ、と荒い息を吐き出し、時おり大きく息を吸い込むと、濃厚な緑のにおいにむせ返りそうになった。

 がざ、がざ、がざ。

 濃密な草いきれを踏みつけて歩く鈍い足音が、不整脈のように響く。ぎくしゃくと動かす足のまわりに、湿った土の感触が妙に後を引く。と、すっかり姿の見えなくなったJさんを追いかけているのに夢中だったのだが……ある時から、誰かが後ろからついて来ていることに気が付いた。

 がざ、がざ、がざ

 という僕の足音の少し後から、もう一つ別の足音が

 わさ、わさ、わさ

 と聞こえてくる。はて。こんな山奥に誰がどうして……と考えてしまってから再び気が付いた。こんな山奥の、獣道とも言えないようなルートを辿ってくる人が、他にいるのだろうか。居たとしたら、それはもしや。

「よ、ヨシダさん……?」

 僕はかすれて消えてしまいそうな声で後ろの足音に向かって訪ねた。僕の足が止まっても、後ろからはっきりとついて来る足音は止まらなかった。

 わさ、わさわさ……

 足音が増えた。僕の右側と左側にそれぞれ一つずつ聞こえる。僕の周りを、遠巻きにぐるぐると回っているような感じがする。

 がさっ、がさっ、

 後ろから聞こえてくる足音が、だんだん大きくなってきて、僕に迫っているのが分かった。すっかり見失ったJさんが戻ってきてくれないかと、僕は泣きそうになりながら思った。けれどそんな気配は微塵もなく、しかし僕の周りにはなにかよくわからない気配が増える一方だった。


 がさがさがさがさがさ


 ざわざわざわざわざわ


 僕は思わず叫んだ。期待と、救いを求めて。

「ヨシダさん!? ヨシダさんだろ!?」

 頭の奥では、そんな訳ないと思っていた。だけれど、無我夢中で走り出すには、何かに縋らないと耐えられなかった。疲労と、恐怖に。足音は確実に僕を取り囲んで、前に進むのに合わせてずっとついて来た。どのぐらい走っただろうか。その時は、何キロ、何十分も走っていたような気がしたけれど、おそらく距離にして一キロも走っていないだろうと思う。僕はとにかく、横を向いたり後ろを振り返ったりしないように必死で走った。そして不意に、ぽん! と音がするようにして視界が開けた。目の前にJさんが立っていて、その奥には……深い森の奥底に沈んだままの難破船のような、くすんだ外壁に蔦が絡み放題になった二階建ての建物がぽつんと残っていた。僕は息も絶え絶えに、喘ぐように言った。

「ここが……あの施設……ヨシダさんの居た……?」

「ええ、そうです」

 Jさんはそれをあっさりと肯定する。

「日が暮れる前に、準備を、しましょう」


 僕もJさんも、恐ろしいことに今夜はこの廃墟で一夜を明かすのだ。背中のリュックの中身のほとんど全てがそのための装備だった。寝袋、食料、水、灯り。Jさんの蛍光色のリュックは僕のより少し大ぶりで、他にも色々な物が入っているのかも知れない。

 まだ、あの赤い着物がそこかしこをチラチラと動き回っているような気がして、僕は呆然としながら辺りを見渡していた。しかし、少女の姿などどこにも見えず、Jさんはさっさと建物の方に歩いていってしまった。慌てて追いかける僕の靴が、湿っぽい地面に生い茂ったツユクサを踏みつけた。


 Jさんは答えを知っているのだろう。この場所を探し当てたからには当然何かしらの情報も入手したはずだ。ただし僕は、それらを何一つ聞かされていない。この施設について僕が持っている情報は、かつてヨシダさんから聞いた、在りし日の思い出に近い記憶だけだ。そして、それが条件だった。僕は何も聞かないこと、知らないこと。全てが終わるまで。何もかも。そう─本当のこと─は。


 僕は思考と不安を振り切って、誰からも忘れ去られた建物をじっくりと見た。正面玄関の前にはエンジ色の煉瓦が敷き詰められ、長方形の植え込みがカクカクと曲がりながら伸びていた。だが、今はそのどちらも荒れ放題になっていて、煉瓦を持ち上げて草木が力強く伸び、大人の膝ほどの背丈の植え込みも最早周囲の雑草や木立に溶け込むほど生え放題伸び放題の有様だった。

 建物の外壁には蔦が幾重にも絡まり、白かったであろう塗装は所々剥げてしまい長い年月のためにすっかりくすんでいた。見える範囲では、窓ガラスは辛うじて残っているようだ。もっとも生垣に阻まれて、見えたのは入り口付近の何枚かと、二階の一部だけだったが。

 建物自体はこちら側(正面)から見て逆L字型になっており、右手の奥に細長い棟が続いている。おそらく、子供達の宿舎はそちらだろう。正面に見える横長の棟は、事務室や物置などだろうと見当をつけた。明かりの消えた非常口のサインが、割れもせずに律儀に残っているのが見える。ヨシダさんの話では、建物には幾つか勝手口のようなものがあり、裏庭には飼育小屋もあったはず。狂った美少年が小動物を惨殺した、忌まわしい飼育小屋が。だがそんな事を言えば、この施設にも、そしていつの間にか僕を飲み込んだこんな非現実的な毎日にも、忌まわしくないものなんてないんじゃないだろうか。そこまで考えて、ふとJさんの横顔を見る。涼しげで、泰然とした表情を浮かべた、白く美しい顔。そして大きくて、上のほうが心なしかツンと尖ったような形をした耳。そう、このJさんこそ……全ての忌まわしき記憶を胸に秘めて、ココにやって来たのだ。何かを知っている、いや、何もかも知っている……つまり、全てを承知の上で。ここで何が起こったのか、何が起きるのか、何が起こっているのか。それらを知って覚悟を決めて、やってきたに違いない。

 そして僕がその答えを知るとき。そう、全てが終わったとき……それは、いったい何の終わりになるということなのだろうか。

 ヨシダさんの過去の物語だろうか。

 それとも、僕とヨシダさんの物語だろうか。


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