その20 「北へ」
ヨシダさんを探すため、決意を固めるJさんと、ぼく。
シリーズ唯一、なーんも起こらない回。
でもそれは、嵐の前の静けさでしかありませんでした。
お寺の朝は早い。僕は青畳のにおいとふかふかの布団に包まれて、半分まどろみながら時刻を確かめた。 充電器を差し込んだままの携帯電話の画面は朝の5時を少し回った所だった。なんだか申し訳ないけれど、でも、まだ眠い……。そして次に気が付いたときには朝9時をとうに過ぎていた。
あれま! 僕は布団から跳ねるように起きると急いで身支度を整えた。そのままの勢いで障子をストーン! と大袈裟に開け放ち廊下に出た、そのとき。
「起きていましたか」
柔和で、おだやかな声。Jさんだ。
「おはようございます、寝坊しちゃいました」
「いえいえ、良いのですよ。それより、よく、眠れましたか?」
「ええ、とても。そういえばこの所よく眠れなかったんで……」
このお寺には気持ちの底をほぐしてくれるような何かがあった。きっと僕は極度の緊張状態が続いて、そのまま麻痺してしまっていたのだろう。友達と一緒に居たり、仕事に集中していればなんと言うこともなかったのだけれど、それでも精神はしっかりダメージを食っていたに違いない。
「朝ごはんが、用意してありますよ。どうぞ、こちらへ」
「ありがとうございます!」
いそいそと食堂に向かうと、そこには質素ながらも栄養豊富な精進料理が並んでいるわけではなく。なんとハンバーガー。
「すみません、佐野君の分の、用意を、忘れてしまって。急いで、買ってきたのですよ」
「いえいえ、こちらこそすみません」
「意外ですか?」
「ええ、とても」
Jさんは実にくだけたところを見せてくれたが、この和やかな朝食は、そう、まさに嵐の前の静けさでしかなかったのだ。
ハンバーガーとポテト、それと煮物(もちろんこれは野菜オンリー)をペロリと平らげた僕は、Jさんと昨日の和室に向かった。立派な木の板を使った重厚で低いテーブルに向かい合って座った僕とJさんは、数秒、無言で息だけを吸ったり吐いたりした。
「さて。ヨシダさんの、最近のこと、でしたね」
Jさんはゆっくりと話し始めた。
「昨日、話しましたように、佐野君たちが、あの家に行った直後。彼はここに、お見えに、なりました」
僕の目をじっと見ながら、柔和な表情を崩さずにJさんは続ける。
能面のこと、自分の生まれのこと、私のこと、そして、佐野君。君の事も。彼は自分の思うこと全てを、私に、語ってくださいました。そして、あの夜。君と廃墟に赴いた彼は、確信したのです。この場所が自分の生まれた家で、この私が、あの時、彼の命を救った若い僧侶であった、と。幼い頃の記憶と言うのは、不思議なものですね。何十年も忘れたままだったのに……ふとした切っ掛けで、昨日のように思い出すことが、出来るのです。彼の記憶を呼び起こしたもの。彼の記憶を、確かに裏付けたもの。それが、あの花瓶の絵でした。率直に言いましょう。いま、彼の魂は、半分欠けているのです。言い方が悪かったでしょうか……そう、彼はあの家に、魂を半分、置いてきてしまった。その残りの半分が何であるか。君も良くご存知ですね。
あの能面です。
彼の魂が半分しかない、となると、彼の身体、精神には、半分空きが出来るのでしょうか。いいえ、違います。欠けた部分から、残りの魂が、この世の闇に、溶け出してしまっているのです。人間は魂を乗せた入れ物。闇の海に浮かぶ船のようなものだと思ってください。船の底が半分抜けたら、あっという間に水が入り込んで沈んでしまいますね。
しかし彼は、並外れた精神力でそれに耐えてきた。この世に在るべからぬモノどもを見て、苦しみ抜き、それでもなお生きてきた。誰にでも出来る事ではありません。私は、そのような状況で魂を奪われてしまった人を沢山見てきました。では、なぜでしょう。なぜ彼には、そんな真似が、出来たのか。
一つには、あの能面によって、怒りや怨恨といった感情が、ほとんど吸い取られていたことが挙げられます。そのような感情は闇を濃くするばかりでなく、自らの魂を闇そのものへと変えてしまうのです。
彼は辛い少年時代に、理不尽な仕打ちや自らの運命を呪った。けれど、その負の感情をもう一人の自分に背負わせることによって、自分を保ったのです。 そのためのもう一人の自分を失い、さらに魂が闇に侵されて、彼は年月を追うごとに、精神を、蝕まれていったのです。佐野君、君は、事あるごとに、彼が廃墟……俗には、心霊スポット、と呼ばれる場所を探検するときの、異様なテンションの高さを……嘆いていましたね。あれは、まさに、彼の中の闇が、うずいていたと考えられます。闇が、さらなる闇を、呼んでいたのです。
しかし、彼にも、能面にも誤算があった……それが佐野君。君なのですよ。
君は、能面が見えたと仰いましたね。最初に、家の外から。そして、部屋に踏み込んでから。ではそのとき、彼は、君と同じ物を、見ていたのでしょうか。いいえ。彼には見えていなかったのです。異様な気配を感じてはいたものの、もう彼に能面は見えなかった。しかしそこに何があるのか、いえ、何が待っているのかは、知っていた。あなたに家の外から窓を見るよう促したのも、自分には何も見えなくても、気配を感じることが出来たからでしょう。そして車まで追いかけてきた能面。君は彼が窓から捨てた、と聞いたそうですが……本当のことを私は聞きました。彼には、君の座席に居たはずの能面など、見えなかったそうです。しかし君が気を失ってから、うわごとを言ったと。そのうわ言こそ、最も重要な部分なのですよ。
(そんな馬鹿な。あの場に居て、奴を見たのは僕だけだったなんて。しかしヨシダさんは確かに、あの日あの場に何が居て、何があったのか……今回に限っては何も言っていなかった。いつもなら嬉々として解説して、僕には見えなかったモノまで教えてくれていたのに)
彼は、世のあらゆる苦難に、立ち向かって生きてきました。そしていつしか、能面を必要しなくなっていたのです。気付かないうちに、大人になっていた……ということでしょうか。能面は彼に語りかける手段を失ったかのようでした。しかし、そこに佐野君、君が居た。君には、能面が見えてしまった。
(つまり僕は二十歳を過ぎても大人になっていなかった……?)
「いえいえ、そうではありませんよ」
Jさんはにこやかに、右手をふりふり振って否定した。お見通しだったのだろうか。すぅ、と息を吸い込んだJさんが、再び語り始める。
君のうわ言は、主にふたつでしたね。
「やっと来た」そして「お前は、誰だ」
無論これが誰に向けられた言葉か、君にもおわかりでしょう。前者は彼に、そして後者は君に。あの能面は精神的な存在です。彼の意識、彼の魂そのもの。そして、成れの果て。それが、能面と言う形を取って、君の前にも表れているのです。君は、あまりの恐怖に意識を失ったのではありません。恐らくですが、一時的に能面に憑依されていたのでしょう。君の身体を借りて、彼に語りかけた。しかし彼は答えなかった。いえ、答えられなかった。変わり果てた自らの分身が、たまらなく恐ろしかったことでしょう。実際、彼はこの際の経緯だけは、多くを語りませんでした。それ程の恐怖を感じていたのです。或いは、何十年分も積み重なった己の闇を、直に感じてしまったからかも知れません。
Jさんはひと息に喋り続けて、そこで少しぬるくなったお茶を静かに飲んだ。
やっと来た……そう、能面は彼をずっと待っていた。しかし、結局彼らは、元の一人の精神に戻ることが出来なかった。一人の人格に戻ることが出来なかった。能面の側の魂が闇に落ちていたのです。穴の開いた船に、長い年月の間に闇の黒い水と同化したもう一人の自分が乗り込んで来たら、どうなるのでしょう。そのまま船ごと沈むのでしょうか……それとも、闇に溶けてしまうのでしょうか。
僕はJさんの不思議と落ち着いて穏やかな視線に釘付けになっていた。優しい、これ以上ないほど穏やかな話し方と表情なのに。なぜか視線をそらすことさえ出来ずに、僕はじっと座ったまま聞いた。
「それでヨシダさんは今どこに?」
Jさんも、その質問を待っていたと言うように机に身体を乗り出して言った。
「彼の居場所、わかったんですよ」
さらに続ける。
「実は、彼が最後に私の元を訪れた際にも、行き先だけは告げなかった。私も聞きはしはしませんでした。しかし、君が能面を持って来た事で、どうしても彼に会わなくてはならなくなりました」
「な、何故ですか?」と、僕。
「決まっていますよ。いやあ、お恥ずかしい」
「?」
「私も、彼の行く末を知りたい。先ほども申しましたように……そう、沈みかかった船が闇に溶けるところを、見てみたい。私が救った命と言うのなら、私が見届けるべきでしょう」
「よ、ヨシダさんは、くたばりかかってんですか!?」
僕はつい語気を荒げてしまった。あまりに冷静で、当たり前のような顔をして話すJさんが、少しだけ憎らしくもあった。だけど僕は、手がかりも連絡も無いと言って何もしなかった。その点Jさんたちは、そこからヨシダさんを探し当てた。少なくとも、仮説を立てるに至った。親友、親友と言って関係者面していながら何もしていなかった自分が恥ずかしいやら情けないやら……そんな心境でもあった。
「失礼いたしました。いえ、君はそれでよかったのですよ。あのままでは、君も飲まれていたでしょうし」
「ヨシダさんたちの闇に、ですか?」
「ええ。闇とはつまり、病み、と言うことなのですから。そして彼も、心を深く病んでいました。それが、能面の役割。つまり、少年時代に置き去りにされた、もう一人の彼、ヨシダ マサシの全てだったのです」
「ヨシダさんの、闇……」
「彼は自らの心を守るため、無意識のうちにあの能面を生み出し、そして育てていった。彼の心の中で渦を巻く憎悪、降りかかる理不尽、引き裂かれた愛情。ぼろぼろになった彼の心を半分にして、能面は生み出されたのですから」
「しかし君の心を蝕むことは、能面にとって本来の目的からは大きく逸脱する行為です。恐らく長い年月とともに積み重なった闇は見境をなくし、そして彼と能面は再び合間見える事が無かった。行き場も無く流れ出した闇が、君に降りかかっていたのです。ですから、君はココへやってきた。闇そのものを持って、ね」
僕は堪らずに口を挟んだ。
「確かに……確かにもう僕には手に負えなくって、それで焦ったり、怖かったんですけど、でも」
Jさんは優しく僕を諭す。
「それで良いのですよ。何も恥じたり、悔いることはありません。大丈夫、きっと彼を見つけられます」
このとき、この瞬間のJさんの言葉で、僕の心……胸の奥の辺りが、すうっと楽になった。なんだか余計な力が抜けていって、呼吸が楽になるようだった。僕は気を取り直して、Jさんに尋ねた。
「ありがとうございます。それでヨシダさんは、今、どこにいるんですか?」
「君は、彼の、生い立ちや、体験談を、沢山、聞いているそうですね」
「ええ、おそらく10や20ではきかないと思います」
Jさんは柔らかく、ふふっと微笑んだ。
「そう、そのお話の中にヒントがあったのですよ。彼の、ヨシダマサシの始まりの場所……彼の聖域、です」
僕は思わずハッと息をのんで、身を乗り出してJさんに詰問するように畳み掛けた。
「まさか! あんな所にですか!? そんな馬鹿な……ヨシダさんはなぜ、どうやってあの場所に?」
「まあまあ。そうです、彼が多感な時期を過ごして、そしてあの一つ目の少女を見たと言う、児童施設……彼はそこに居ます」
Jさんはキッパリと言い放った。
「おそらくですが、彼に残された、最後の、文字通りの聖域が、あの施設なのでしょう」
僕をすうっと見据えた穏やかな眼差しに強い光を宿しながら、Jさんは半分ぐらいは僕も予想していた、だけど本当に言うとは思わなかった、そんな言葉を口にした。
「彼に会いに行きませんか。探しに行きましょう。北へ」
僕はJさんの眼差しを正面から受け止めて、そして黙って頷いた。




