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タクシー運転手のヨシダさん  作者: 佐野和哉
タクシー運転手のヨシダさん
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その19 「生い立ち」

 不意に、すら、と障子が開いて、若いお坊さんが温かいお茶とヨモギのお饅頭を幾つか持ってきてくれた。気が付くと2時間以上こうして座りっぱなしだ。部屋の空気が入れ替わって、少し涼しい風が心地よい。僕とJさんはおのおの身体を伸ばし、一息つくことにした。

 Jさんはお坊さんに礼を言って、僕にもお茶とお饅頭を薦めてくれた。

「開けておいて、ください」

 部屋を出るお坊さんに声をかけて、開いたままになった障子の外を見るJさんの横顔。色白の顔にツンととがった独特の耳。するどい眼差し。小さいが形のハッキリした唇。細長い首筋。丁寧に剃りあげられた頭はまん丸で、とても形がよい。低くて優しい、しかし張りのある声は、耳より心に響くようだ。僕は今になって、Jさんのことをじっと観察してみた。向き直ったJさんは湯飲みに口をつけてほんの少しお茶をすすり、静かに語り始めた。僕の知らない、ヨシダさんの過去を。


「彼は、あの家で、小学生になるまで育ち、そして両親と死別した……それは、聞いていましたね?」

「はい。そのあと親類中をたらい回しにされて、最終的には施設に入ったと聞きました」

「そうですか。では、なぜ、彼は両親と、死別したのか……。お聞きに、なりましたか?」

「いえ、なにも」

「ふむ。では、そこから、お話しましょう」

 Jさんから語られた物語。それはヨシダさんと長い付き合いの僕でも驚くような出来事の連続だった。そしてこの話を聞き終わったあと……僕は少しだけ、彼がいつも漂わせていた悲しみと、決して表には出さない優しさの秘密を知る事ができたような気がした。


「佐野君。君が、ヨシダさんと、お呼びしている方の、本当のお名前を、ご存知ですか? いえ、偽名、だったわけでは、ありません。ただ、本来の苗字とは、違うのです。彼は、ある親戚に、養子として、迎えられた事が、あるために、ヨシダ、と苗字が変わっていたのですよ」


 全てはあの、今はあばら家になった一軒の民家から始まった……佐野君、あなたの見た家の間取りを思い出せますか? そう、階段を上って正面の壁に何があったか、覚えていますね? 赤い花の飾られた花瓶の絵。あの絵こそが、ヨシダさんの最も古い記憶なのですよ。彼の記憶は、あの家で、あの場所で、あの絵を見ているところから始まります。彼が物心付いた時……すでに家庭は崩壊寸前だったそうです。父親も母親も他所に愛人が居て、彼はずっと独りぼっちで育った。何処かに居るであろう祖父母や親類も滅多に顔を出さず、いつも家の中の自室に籠って居た……。

 佐野君。君は、もう、知っていますね。ヨシダさんの自室が、どこにあったのか。君は知っているのですよ。ええ……そう、そのまさかです。

 あの開かずの間です。


 もちろん、当時は開かずの間などではなく、立派な和室だったと思いますが……彼はそこで、常に、孤独と寂しさに耐え、愛情に飢えていた。勤めには出ていた両親ですが、家族揃って晩御飯を食べたり、お風呂に入ったりした記憶はほとんど無いといいました。

 そんな彼は保育園にも入れてもらえず、家を出るまでほとんどの時間をあの部屋で過ごしたそうです。たまに家の外を出歩く事はあっても、友達も居らず、娯楽も少ない田舎の事。両親の噂が広まっていた事もあって近所の人たちも、彼の家庭には近付こうとはしませんでした。元々よそ者で、両親とも近所づきあいは殆ど無かったようだとも、言っていましたね。

 ある日、そんな彼に友達が出来ました。ずっと孤独で、ずっとずっと誰かを待っていた彼らはすぐに打ち解け、親友になり、無くてはならない存在へと変わるのに時間は掛かりませんでした。

 さあ佐野君……その親友は、どこから来たのでしょう。近在の者も近寄らず、人里離れた集落の中の、さらに山肌に張り付くように立つ古い家まで、小さな子供が遊びに来てくれるのでしょうか。

 しかし、現実に、親友は、ある日突然、彼の前に現れたのです。いつものように一人で自室に篭って居た彼が、押入れの天井に四角い蓋を見つけました。下から押すと、子供の力でも呆気なく開きました。そして顔を覗かせてみると……手の届きそうな場所に、古びた木箱を見つけたのです。

 うっふっふ。佐野君。君は飲み込みが早いですねえ。顔が青いですよ、少し休みましょうか? そうですか。では続けましょう。

 取り出してみると、ひどく埃を被ってはいたものの、つるつるした立派な桐の箱でした。押入れに登ったままその箱を開けると……中には、鮮やかな紫色の絹に包まれた古い能面が、ひとつ。まるで彼を待っていたかのように入っていました。彼はその能面が宝物のように思えたそうです。あの家に暮らしているあいだ、おもちゃらしいおもちゃを与えられた事もなかった所為でもあるでしょう。毎日、毎日。飽きることなく、無表情で冷たい能面に話しかけていたとか。他愛も無い事、寂しい時、悲しいとき、両親から心身を傷つけられたとき。

いつも彼の側には、能面が居ました。

(おはよう。……おはよう)

 ある朝の事です。彼は聞き覚えの無い声に呼び起こされました。家の中はもぬけの殻。両親は眠っている彼にさえ関心を示さず、ほったらかしで出かけていくのが常でした。部屋の中には、いや、家の中には、彼ただひとり……そして、傍らにいつもの能面。

 ふたりの時間は、その日の朝から始まったのです。そしてこれが、悲劇の始まりでした。


 ほんの少年だった彼の心はしかし、すでにひどい傷を負っていたのはお話したとおりです。外の世界を知らず、ヒトの愛を知らない彼は、自らの心の奥底に眠る自分自身と言う名の友を作り出したのででしょう。今風に言えば、イマジナリー・フレンド、というやつですね。決して語らず、笑ったり泣いたりもしない能面を、彼は親友にしたのです。これほど悲しいことがあるでしょうか。来る日も、来る日も。能面をぎゅっと胸に抱いて過ごし、その声や笑顔や一緒に野山を駆け回って遊ぶ事を想像していたのです。

 そうした生活がひと月ほど続いたある日。彼の両親は、とうとう、この能面に気が付いてしまいます。幼い子供と言うのは本当に健気ですね。明らかに彼の様子は変わり、暴行や罵声を受けても以前ほど弱々しい仕草を見せなくなったのです。そう、親友となった能面が、彼の心をギリギリのところで支えていたからです。

 両親はこの得体の知れない、古ぼけた能面をひどく気味悪がりました。そして泣きじゃくる彼の手から能面を引き剥がすと、裏山へ埋めてしまったそうです。ひどく落胆した彼は一晩中泣いていましたが、そのうちに泣き疲れて眠ってしまったとか。

 能面が埋められてから3日後の朝のことでした。

 聞き覚えの無い声が

(おはよう。……おはよう)

 と彼にささやいてきたのです。そう、その声の主は。

 あの能面、だったんですよ。

 聞こえるはずの無い声が、二重の意味で彼を驚かせました。捨てられたはずの能面が部屋の中に居る。そして今までには無かったこと、つまり、ついに能面の方から、彼に語りかけてくるようになったのです。

 それだけではありませんでした。彼の目の前に居たのは、能面を被った、一人の少年だったのですから。彼はひどく驚き、恐怖しました。しかし少年の方は、彼に親密そうに語り掛けました。

「また会えたね」

 高くもなく、低くも無い、独特の声。抑揚の無い、のっぺりした声に、彼は少し落ち着きを取り戻しました。

「君は誰?」

「僕……? 僕はね……君さ」

 少年はそう名乗ったそうです。当時の彼が少年の言葉の意味をどこまで理解したのかは分かりません。しかし彼らはどんどん親密になってゆきました。少年は決まって彼が悲しいときや、両親から謂れのない暴力を受けたときに現れました。そして彼を慰め、優しい言葉を掛けてくれました。

 しかし彼には、一つだけ気になることがありました。少年はいつも、必ず能面をつけて現れるのです。そのお面は確かに彼の親が捨てたものですが、彼にとっては宝物でした。どうか返して欲しいと言っても、それだけはダメだと言って聞きません。それならせめて顔を見せて欲しいと言うと……少年はおもむろに能面に手をかけ、ちょっとだけだよ。と前置きをして、素顔を顕わにしました。

 細身で背の低い、無表情で男の子とも女の子ともつかない顔たち。黒々とした髪の毛、赤くみずみずしい唇。透き通るような黒い瞳。少し曲がってしまった鼻。

 お互いに青白い肌と広めの額。

 それは紛れもない、自分自身の顔だったのです。

 能面を外した少年の顔は、まさにその時点での彼そのものでした。驚いた彼は言葉を失いますが、少年は続けました。

「言っただろう。僕は君さ。君が寂しい時、僕は必ずやってくる。君が悲しいときも、誰かを嫌いになるときも、僕はやってくる。ずっと一緒。親友だろ?」

 彼はあまりの恐怖に泣き出してしまいました。わんわん泣いて、怖い怖いと叫びました。すぐに両親が飛んできて彼を殴り、蹴り、罵声を浴びせて鎮まらせました。優しい言葉も、慰めの言葉もありませんでした。ひどくいたぶられて、壁や床に何度となく叩きつけられた彼は、次第に意識が遠ざかってゆくのを感じます。そして目の前が真っ暗になるその時に、彼はぼんやりと見たのです。彼を蹂躙する両親の背後で、鬼のような顔をした少年を。

 そして気が付くと、彼は病院のベッドの上でした。病室に両親の姿はありませんでした。もちろん、あの少年の姿も。そこに居たのは医師と看護師、それに警察官と、若いお坊さんでした。意識を取り戻した事がわかると、警官は矢継ぎ早に彼を質問攻めにします。

 倒れる前に何があった? お父さんとお母さんは喧嘩をしていたのか? 君は乱暴されていたのか……しかし彼はひと言も喋りませんでした。あまりのショックと心身の疲労で言葉を忘れてしまったのでしょう。心を硬く閉じた彼は、ただ一人を除いて誰にも言葉を発しませんでした。

 それは病室に居た、若い坊さん……そう、それが40年以上前の、私です。

 彼が自室で倒れていたところを見つけたのは、実は私なのです。あの集落の寺にやってきたばかりだった私は、噂に聞いていた家の様子を見ておこうと足を運んだのです。そしてそこで見たものは……まさしく惨劇、修羅場。いえ、地獄絵図そのものでした。

 玄関は開け放たれ、家中の異様なにおいを垂れ流していました。そして二階の部屋からは……もっと異様な、濃密なにおいがしました……何のにおいか、わかりますか?

 血、ですよ。部屋中が錆び付いた様に壁も天井も赤茶に染まっていて、床には混じり合ったあらゆる体液が腐って酸化したような……思い出すのもおぞましいにおいが充満していました。

 その部屋の中に、彼は倒れていたのです。意識はありませんでしたが、生きていました。しかし……彼の両親は、ともに身体中を滅多刺しにされて死んでいました。

 私はとるものもとりあえず彼を背負い、里山を駆け下りました。私の異様な姿に周りの人々も駆けつけて、大騒ぎになりました。


 やがて救急車や警察が続々とやってきました。私はお寺とも話し合い、彼の付き添いをする事になりました。と言うのも、彼が私にくっ付いて離れなかったのです。よほど人の温もりに飢えていたのでしょう。初めて抱きしめられた体温が、彼には何より嬉しかったのかも知れません。

 そういう訳がありまして、彼は私にだけ心を開いてくれました。そして一部始終を語ってくれたのです。誰にも言わない、と言う約束つきで。

 その後、彼があの家に戻る事はありませんでした。病室に親戚のものが迎えに来ましてね……お寺で預かる事もできたのですが、結局は遠くても親類が良いのだろうと言って。まあ、そんな事は全くなかったのですがね。

 忌まわしい事件の後、結局は、無理心中と言うことになったのですが、あの家はずっと空き家のまま残されていました。興味本位で荒らしに来る連中もすぐに居なくなりました。あの家の二階の部屋には、能面を被った少年が包丁を持って待ち構えている、などという噂話も流れましたし。実際の所はわかりませんが……しかし公になっていないはずの、能面を被った少年、包丁、二階の部屋というキーワードが共通している点など、ある程度の信憑性はありました。そこで私は、あの部屋を封印する事にしたのです。当時の私でも、そのぐらいは出来ました。部屋の中は綺麗に掃除されていましたが、窓を閉め切っていたせいか酷いにおいはそのままでした。そして部屋を封印するときも、家の中は無人でしたし、もちろん能面などというものもありませんでした。


 彼はその後親戚を転々とし、ヨシダという姓を名乗ります。佐野君と同じ豊橋で暮らしていたのも、ヨシダ姓を名乗ってからでしたね。施設を出て、全国を放浪しながら就職したのが豊橋の会社だったのではないでしょうか。

 その後も彼は、自分の生まれた場所を探していたようです。そして、この私のことも。そう、あの時彼を助け出し、命を救った私を彼はずっと覚えていてくれたのです。私も記憶力の良いほうですから、出会って話を聞いてすぐに分かりました。全国の心霊スポットと呼ばれる場所を回り、自分のルーツになるあの空き家を探していたのでしょう。


 そして彼は……とうとう辿り着いたのです。ずっと探し続けたあの家に。あの部屋に。そして佐野君は……能面を見た。風を浴びた。

 あの家には、まだ、彼が居たのです。彼の強烈な思念が生み出した、もう一人の彼が、成長しヨシダ マサシとなった彼を待っていた……今度こそ、彼に還ろうとしたその時に、佐野君。君が居て、彼を守ったのです。

 あの家で彼を待っていた思念は、長い年月の間に見境をなくしていました。元は子供の作り出した妄想ですが、その奥底にあるのはあまりに深い憎しみや苦しみ、絶望です。そしてそれらが時間と共にあの部屋に閉じ込められ続け……時おり噂を聞きつけてやってくる輩共に脅かされ、ますます歪んで行った。

 最早、あの思念には彼がかつての自分であると判断するだけの力さえ、ほとんど残っていなかったに違いありません。ですが、先ほども申し上げたとおり思念は佐野君を通じて彼に触れた。君の中にある彼の人物像を、思念が感じ取ったとは考えられます。

 能面はお預かりします。この能面だけは、分からない事ばかりなのです。なぜ、あの日あの場所に現れたのか。あの家の土地は元々何があったのか。このままでは、能面はおそらくずっと彼を待ち続けるでしょう。彼を待つことは出来ても、彼を壊してしまう事を止められはしないでしょう。能面にこめられた思念は猛烈な邪念となって彼の心をめちゃくちゃにしてしまうに違いありません。なんと言っても、元は、一つの心なのですから……。元に戻ろうと、お互いをひきつけあう事は可能なはずです。

 大丈夫ですよ。今、思念は能面の中に居ます。佐野君にとり憑いているわけではありません。


 私が知っている事はコレで全てです。そして佐野君、君に伝えなくてはならないことがもう一つだけあります。今度は、君の親友についてです。

 ヨシダさんが、いま、どこでどうしているのか……それも、お話しましょう。ただし今日は遅いですから、また明日にでも。


 ふと窓の外を見ると、すっかり日が暮れていた。

 僕たちは身体を伸ばしたりねじったりして、少しの間忌まわしい記憶の世界から抜け出す事にした。


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