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タクシー運転手のヨシダさん  作者: 佐野和哉
タクシー運転手のヨシダさん
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その18「能面・後編」

 お寺の塀に沿って静かな道を歩いていた。昼下がりの住宅街はひっそりとしていて、生垣の椿の葉が風に揺れる音と、遠くの幹線道路を自動車がごんごんと通る音がするぐらいだった。人影は無い。

 門の前にJさんが立っていて僕を出迎えてくれた。

「こんにちは。そろそろ、いらっしゃると、思ってましたよ」

 Jさんは柔和な表情で僕を促し、お寺の一室に案内した。青い畳のにおいが爽やかな和室は綺麗に整頓されており、低い重厚なテーブルを挟んで座布団が二つ並んでいた。


「さて」

 僕の対面に正座したJさんは、さっそく用件に取り掛かるつもりのようだ。

「あ、これがお面です」

 僕はかばんの中からむき出しの能面を取り出し、Jさんに手渡した。Jさんは両手に持って、しばらく見入っているようだった。時折、ほう、と声をこぼしながら真剣な目つきで能面を隅から隅まで見ていたJさんが不意に僕を見た。

「この、能面は、ちょっと、まずかったですねえ」

 相変わらず表情は温厚そのものだが、声に力がこもっていた。Jさんが本気になった証拠だ。

 ふう、と大きく息をついてから、Jさんは語り始めた。

「この、能面には、非常に強い、念が、こもっています。それも、激しい憎悪です。恨んで恨んで取り返しの付かなくなった思いが、このお面を形作っていると言えるでしょう」

「じゃあ、ヨシダさんは、その念に何か関係があるんですか?」

「それも、後でお話しましょう。それよりも、佐野君、これを見つけた時の事を、詳しく、出来るだけ、詳しく、聞かせて頂けますか?」

 僕は事のあらましを思い出し思い出し、必死で伝えた。Jさんは時々質問をしながら、熱心に聞いていた。

「その、空き家で、見たのは、白い顔、それと、お面。それだけ、でしたか?」

「ええ。突然風が吹いた以外は、それだけでした」

「そうですか……」

「あの?」

 Jさんは再び語り始めた。

「いえ、いえ。彼が気付かないはずが、ない、と、思っていましたが……あなたが、知らない所を、見ると、伝えなかったのかも、知れませんね」

 むむ、なんだなんだ?

「佐野君」

「はいっ」

「驚くと、思いますが……あの、空き家。あれは、実は」

「……」

 僕はJさんの目をじっと見た。Jさんも僕をしっかり見て、ついにこう言った。

「あそこが、彼の、ヨシダさんの、生まれ故郷、なのですよ。彼は、子供の頃、あの家で育ち、そして、あの家を、出て行ったのです」

「……えっ!?」

 頭の中が急に忙しくなって、僕はわけがわからなくなりそうだった。

「実は……あなたが、お見えになる、ずっと前。あなた方が、空き家に行った、すぐ後。彼は、私のところへ、いらっしゃったのですよ。そして、全てを、打ち明けて、くれました」

「そうだったんですか」

「あなたにも、お伝えしたい、ことが、あるそうでしたが、なんせ、お面を持って、いらっしゃいますから。会わない方が、良かったのです。念とは時に頼もしく、素晴らしいものですが……反面、非常に恐ろしいものでも、あります」

「はい」

「この能面は、全てを、見てきました。彼の家族と、彼の、あの家での、所業。全てを。そして遂に、住む者のなくなった、今でも、ずっと、あの場に、閉じ込められていた」

「まさか僕たちが……」

「左様、解き放ってしまった。あの時、あなたが浴びた、あの、生ぬるい風。あれは、あの場に残った、思念、そのもの。あの風が、ある意味、この能面の、本体。持ち主とでも、言えるでしょう」

 確かにあの時、閉めきった空間を吹きぬけた生ぬるい突風には、なにかしらの意思を感じた。明らかに僕とヨシダさん目掛けて、開放されるそのときを待っていたように吹き抜けていったのだ。果たしてその正体は……。

「あの風の、正体ですか?もちろん、お話しますよ。また、驚かせてしまうと、思いますが……。あの風は、誰かを、求めていたのですよ。あの場所で、何十年も、ずっと……ずっと。」

 ビャーーッ! と鋭い音がして、庭の木にとまっていたオナガが飛び去って行った。それで一拍息を吸って、Jさんは話を続けた。

「あの風は、彼を、探していたのです。待っていた、と言うべきでしょうか。あのとき、あなたがドアを蹴破って、そして彼は風を浴びた。しかし、能面は、あなたを選んだ」

 僕はテーブルの端にちょこんと乗った能面をちらりと見た。無表情な細い目で天井をじっと見つめる白い顔が、無性に恐ろしく見えた。


「佐野君。あなたは、気絶している間、うわ言を、言っていたそうですね」

 やっときた……お前は誰だ……。

「能面の、向こうに、顔を見た、というのと、関係が、あるかも、しれません。あのお面は彼を、待っていた。しかし、本来、まったく無関係のはずの、あなたが、あの場に居て、能面に、触れてしまった。奴の誤算は、そこに、あったのでしょう」

「や、や……つ……? 奴ってなんです?」

「能面、生ぬるい風、全ての元凶。張本人、ですよ」

 Jさんは温和な表情を崩さずに言い放った。

「そしてそれは、佐野君。あなたが、とても、よく、知っている、人物です」

「……ヨシダさん?」

 僕は恐る恐る聞いた。

「ええ」

 Jさんの答えは簡潔だった。

「正確には、彼の残した、意思。いえ、あの家に居た頃の、彼、そのもの。と、言うべきかも、知れません。あなたは、まだ、聞いていませんでしたよね。彼が、あの家で、どのように育ち、そして、何を見たのか。何を、経験したのか」

「ええ、ぽつぽつと聞いてはいたのですが……詳しくは知らないです」


「実は、私に、代わりに、伝えて欲しいことが、ある、と、彼からの、言伝があるのです。今回のことで、もう、洗いざらい、話して、しまいたい。けれど、さっきも、申し上げた通り、いまあなたと彼……いや、佐野君と、ヨシダさんは、お会いできません。それが何故かも、一緒に、ご説明します」

「……」

「聞いていただけますね……?」

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