その18「能面・前編」
ここに、古ぼけた能面がある。白かった額や頬の部分は重い灰色にくすんで、端の方の塗料もひび割れたままだ。なんだか埃っぽくて湿った匂いもする。
しかし、この無表情な細い目でこちらをじっと見ている能面こそ、あの恐ろしい夜にも僕の隣には確かに年の離れた親友が居てくれた唯一の証拠なのである。だけど、やっぱり手元に置いておく事は出来ない。元あった場所に返さなくては……。そうは思うが、どうにも足が向かない。
そこで、以前からお世話になっている住職のJさんのもとを訪ねるため僕は朝のラッシュで賑わう豊橋駅から新幹線に乗り込み、一路西へ向かうことにした。
新幹線の指定席は比較的空いていた。そもそも何故、僕が自分でこのお面を返しに行かないのか。いや、行けないのか……僕はあの恐ろしい夜のことを思い出して、窓際の座席で身をすくめた。実際のところ今も能面を持ち歩いている事が怖くて仕方が無い。カバンの中に居る能面が今もコチラをじっと見つめているような気がして、足元に視線を落とす事も躊躇うほどだ。紺色の水面が揺れる豊川に掛かる鉄橋を新幹線がごーっと音を立てて通り過ぎてゆく。あの時もこんな風に、新幹線で西へ向かっていったんだっけな。
その半年ほど前の夜。僕は関西のとある駅で新幹線を降りた。そこからJRと私鉄を乗り継いでさびしい田舎駅へと降り立つと、人もまばらなロータリーに白いスカイラインが待っていた。
「おぉ」
いつものように、ジーパンにストライプが入った長袖シャツをさらっと着たヨシダさんが、くたびれたベンチに灰皿を置いただけの喫煙コーナーでタバコをふかしながら言った。薄暗い灯りの下でタバコの火がぼうっと赤く光っている。煙をフゥーっと吐き出して灰皿に吸殻を捨てると、運転席に乗り込みながらこう言った。
「じゃ、行くか」
「どこへ?」
「行けば分かるさ」
僕はまたしても(えらい間違いをしてしまった)と表情では悔やみながら、心の奥底では暗がりに潜む冒険を期待していた。いや、そろそろ慣れっこな気がしていて、散々な目に遭いながらもそんな自分に自惚れていたのかも知れない。タカを括っていたというべきか。
(ヨシダさんが居るから、大丈夫だろう)
そんな甘い気持ちが、いつしか僕に芽生えていた。
スカイラインはしばらくの間、深夜の国道を快調に走っていた。大きなまあるい満月が行き先の空にぽこんと浮いていたのが印象的だった。それほど高い建物がなかったせいだろう。
ぽつりぽつりと飛び去ってゆく街灯以外に目に付くものも無く、助手席からぼんやりと眺めた街並みはすっかりと静まり返っているようだった。看板を頼りに右へ左へと曲がっているうちに、そんな街並みも見えなくなり……どんどん寂しい場所へと向かっていった。目を凝らすとフロントガラスの遥か前方に見えていた真っ黒な山肌がぐんぐん近付いてきていた。市街地から郊外の環状道路を経由して、さらに山際の小さな集落へとやって来たようだ。
山肌を縫うように伸びる暗く細い道路。時おり農作業用の小屋があったりお地蔵様の祠があったりする以外には目立った建物と呼べるようなものも無い。ヘッドライトの光は果てしない闇夜へと吸い込まれているようで、これから一体どんな場所にたどり着くのか。にわかに不安を覚えてきたその時。スカイラインは急に左折して山道へと入った。
真っ暗闇のでこぼこ道を、慎重に進むこと少々。目的地はそこにあった。廃屋だ。スカイラインのヘッドライトが丸い光の輪を描いて、古ぼけた一軒家を黄色っぽく照らしている。見た感じ、そこまで荒れているようでもない……どちらかというと、廃墟というよりも空き家と言えそうな雰囲気だった。
(トントン)
ヨシダさんが僕の肩を指先でつついた。ビックリして彼の方を見やると、二階の右側の窓に向かって小さく首をしゃくった。その視線を追っていくと
(!?)
顔だ……。窓ガラスの向こうから白っぽい顔だけがこちらをのぞいている。ヘッドライトの灯りが薄っすらと届く窓際に、ぼんやりと見えた。その顔はなんとも無機的で、何かこう、命を持っていないような印象を受けた。まるでお面のようだ……恐怖の刹那、そう思ったのを覚えている。
「見たか?」
「みみ、見た…」
僕は早くも足がすくみ、今にもガタガタと振るえそうだった。そんな僕には構わず、ヨシダさんは懐中電灯を二つ取り出して僕にも一つ持たせると
「行くぞ」
とだけ呟いて、すたすた歩いていってしまった。僕は慌ててヨシダさんの後を追った。
荒れ果てた玄関のドアは内側から腐食していて、ノブを引いてみると半ばの辺りからくしゃりと崩れてしまった。車のヘッドライトは消してしまったので懐中電灯の丸い明かりだけが頼りだ。その明かりの中をドアの破片も混じった濃密な土埃が縦横に舞った。ヨシダさんは土足のまま上がりこむと、そのまま真っ直ぐに階段を上ってゆく。
玄関を上がると廊下が真っ直ぐ伸びている。右側に階段があって、左側が通路。上がってすぐ左が居間、その奥の廊下を突き当たって左が台所。ここまでをなんとなく覗いて、僕もヨシダさんの後から階段を上った。
埃の積もった階段はひどく軋んだ。いつ板が抜けやしないか怖かったが、無事に2階へ登りついてしまった。対面に襖の閉められた部屋があって、向かって右手に半分破れたドア、左手には奥に向かって廊下が伸びていた。
廊下の窓から青白い月明かりが射して、廊下の奥にある硬く錆付いたドアノブを構えたくすんだ扉を照らしている。表から見たあの白い顔が居た部屋は、この錆付いたドアの向こうだろう。ヨシダさんはしばらく辺りを見渡していた。いつもなら目的の部屋やモノに向かって図々しい位一直線に向かっていくのに、今日に限っては流石に怖いのだろうか……。
(こくり)
小さな、不思議な音が聞こえた。かすかにだけど、僕の背後から聞こえてきた。振り向くと、ヨシダさんが立っているだけだ。
「ヨシダさん、今」
と言いかけて、僕は驚いた。あのヨシダさんが、どんな廃墟もタチの悪い現象も笑い飛ばすほど肝の座った彼が、冷や汗をじっとりかいて呆然としていたからだ。小さな不思議な音は、彼の喉が鳴らした恐怖のサインだったのだろう。
「ヨシダさん! 大丈夫!?」
全身が硬直したヨシダさんの視線は、階段の正面に飾られた絵画に釘付けになっていた。四角い額に入った、大きさは50センチ四方ぐらいの絵画。懐中電灯で僕も絵を見てみた。大振りで丸い花瓶に真っ赤な花が飾られた、何の変哲も無い古い絵だ。
「ヨシダさん、この絵がどうかしたの? ねえ大丈夫? 帰ろうか」
ヨシダさんは俯いて、ふぅーと深く息を吐き出した。
「いや、大丈夫。それよりオイ、あ、あのドア……」
僕はいまだかつて、こんなにビビったヨシダさんを見た事はなかった。声が完全にかすれて裏返っている。
ドアの前まで来ると、真横の窓から差し込む月明かりでこのドアの向こうが単なる開かずの間でないことが良く分かった。錆付いたドアノブだと思っていたのは、細い鎖がグルグルと十重二十重に巻かれていて、そのまま錆びついていたからだった。またドア一面に黒い筆ペンのような筆致でナニゴトか書いてあったが、すっかり薄れてしまい懐中電灯を当てても解読する事はできなかった。
いつもなら率先してドアに蹴りを入れるヨシダさんが、やはり激しく躊躇っているように見えてならなかった。頬の辺りがヒクヒク小刻みに震えている。怯えた瞳に浮かぶ狼狽と焦り。およそ彼らしからぬ姿である。僕は湧き上がる恐怖心を抑えながら、ヨシダさんに聞いた。
「……行くの?」
ヨシダさんは小さく、しかし確かに首を縦に振った。
正直、僕は全く気乗りしなかった。ヨシダさんが怖がっているような場所に足を踏み入れるなんて……そんな思いと後悔とは裏腹に、僕の少々太くて短い脚はドアの前に進み出て、左足を振り上げていた。それが僕とヨシダさんの間では当たり前になっていた。ヨシダさんがGOを出す。僕が蹴りを入れる。今日だって同じさ。大丈夫。もう、どうにでもなれ。
そしてどうにもならなくなった。
どばったーーん!!
と物凄い音がして、がちゃがちゃと揺すられた蝶つがいが砕け、開かずの扉は呆気なく部屋の向こう側へ倒れていった。その瞬間。
ぶわあっ!
と生ぬるい風が吹いた。なんというか、濃密な空気の塊が僕とヨシダさんの居る場所を勢いよく通り抜けて行ったような感じだった。もうもうと埃が激しく舞う部屋の中に懐中電灯を向けると、部屋の全ての窓はぴっちりと閉じていた。汚れた窓ガラスからうっすら外が見える。どこからも風などは入ってこないはずだ。部屋の中には、もうひとつ奇妙なものがあった。壁に白い顔がついていてコッチを見ている。能面だ。あの時、階下の僕たちを見下ろしていた能面は、間違いなくコイツだった。無表情で細い目をしたオカメの白いお面が、真っ暗な壁の目線より少し高い位置にかけられている。このお面の見える角度で、下に居る僕らを見下ろしていたように見えていたのだろうか。
僕は何か意見を求めようと振り返った。そのときヨシダさんはというと、ドアのあった場所より少し離れた位置から部屋の中を覗き込んでいた。そして彼が恐る恐る懐中電灯を向けたその時。
カターーン!
乾いた音がして、僕は驚いて再び前を向いた。能面が床に落ちてもなお黙って上を向いている。壁にぶら下がっていたのが何かの拍子に落っこちたのだろう。僕はさっきまであれほどの恐怖を感じていたにもかかわらず、何の気なしにお面を拾って壁に掛けなおそうとしたそのとき。
「か、きゃずや!!」
「?」
ヨシダさんがひっくり返った妙な声で僕を呼び止めた。
「触るな! 近寄っちゃダメだ!!」
だが一瞬遅かった。僕はまるで吸い込まれるように軽く無造作に、ひょいと能面を拾い上げてしまった。そして僕は見た。能面が落ちていた場所は壁よりも1メートルほど離れた部屋の真ん中だったのだ。確実に、この位置で……お面は、宙に浮かんでいたことになる。
(ぞおわああああ)
全身の毛穴が恐怖に震えて総立ちになり、僕はゆっくりと後ずさった。ハッと気が付いて、手に持った能面を部屋の隅に向かって放り投げた。
能面は壁に当たって大きく跳ね返って、僕の足元の床に転がった。無表情な視線が僕の目に突き刺さるように感じて、僕は声にならない悲鳴を上げた。
ヨシダさんが僕の腕をぐっと掴んで、真っ暗な廊下を一目散に走り出した。
「逃げろ! カズヤ! 振り向くな!!」
僕は恐怖のあまり、思わず後ろを向いてしまった……さっき壊したドアのあった辺りで、白い能面が宙に浮かんだままこちらをじっと見ていた。
「あっ!!」
「バカ見るな!!」
遅かった。僕は能面とハッキリ目が合ったのを感じてしまった。今度は、あの能面の向こうにハッキリと人の姿があった。冷たい視線。心の奥底まで射抜かれるような鋭い憎悪。あれは空中に浮かんでいるんじゃない、誰かがお面をつけてコッチを見ていたんだ。僕にはそう思えてならなかった。
廃屋から脱兎の如く飛び出すと、そのままスカイラインに飛び乗った。ごりり。座席に座ると何かを踏んだ。
「痛い!」
僕は思わず飛び上がって、スカイラインの低い天井で今度は頭をぶつけた。助手席には、白くてくすんだ能面がひとつ、ぽつんと置かれていた。
「わああああああああ!」
「カズヤ!!」
「わあーっ! わあああ! もういやだ!! もうおいやだああああああ!!!」
僕は完全にパニックになった。そしてそこから先、どうやって帰り着いたのか記憶が無い。後で聞いたら、ヨシダさんが苦労して僕を助手席に押し込み、能面は窓から放り投げて捨てたらしい。
翌日、気が付くとヨシダさんのアパートに居た。時計を見ると昼の11時半。随分寝ていたようだ。僕はひどくだるい身体を起こして、ヨシダさんの姿を探した。窓の外から彼のタバコのにおいがして、いつも僕が居る時にタバコを吸う場所、申し訳程度につけられた狭いベランダに居るんだと気が付いた。
「ヨシダさん?」
しかし返事は無かった。何か怒っているのだろうか……不安になった僕はベランダを覗いた。もぬけの殻だった。灰皿代わりの空き缶から細い煙が伸びていて、空っぽのベランダにヨシダさんの気配を残している。僕は驚いて部屋の中を見渡した。だがやっぱり空っぽ。トイレにも風呂場にも居ない。玄関の鍵は掛かっている。どうしたんだろう……焦った僕がもう一度ベランダに出ると、通りの向こう側から見覚えのあるシャツを着たヨシダさんがポクポク歩いてくるのが見えた。安堵した僕が手を振ると、ヨシダさんは右手に持っていた白い袋をひょいと持ち上げてそれに応えた。
袋の中身は食料品だった。近所のスーパーでお昼の弁当や飲み物を買って来てくれたのだった。昨夜の事を聞いて見ると、僕はパニックを起こして暴れまわった後で急に失神してしまったらしい。そのまま車に乗せて帰宅すると、これまた重たい僕をいつものソファに寝かせて自分も休んだのだとか。
僕はうわ言のような事をブツブツ言ってたり、うなされてたりしたという。
「やっときた」
「おまえはだれだ」
とかなんとか……。僕はヨシダさんが買って来てくれた酢豚弁当をパクつきながら切り出した。
「ヨシダさんは大丈夫だったの?」
「ん?」
「ひどい汗だったし、あんなヨシダさん初めて見た」
「ああ、まあ……大丈夫だろ。」
随分曖昧な答えが返ってきた。
「でも、いつもならもっと」
「うるっせーな。……早く食って帰れよ」
あーあ、今度こそ怒ってしまった。どうやら本当に機嫌を損ねたらしく、その後しばらくはロクに口も聞いてくれなかった。僕は別れの挨拶もそこそこにスゴスゴとアパートを後にして家路についた。
自宅に帰り着くと、もう夜の8時だった。僕は自分の部屋の襖をカラカラと開けて、部屋の電気をつけようとした。その一瞬の暗闇に、白いものが浮かんだのを見た。
(あっ!)
と思ったときには電気を点けてしまった。数回点滅した蛍光灯がぱっと灯りを放ち、部屋の中は真昼のように照らし出された。
敷きっ放しにしていったマットレスの上に、能面がひとつ上を向いて置かれていた。あの時と同じだ……部屋の中に浮いていて、ぽとりと落ちた。僕は恐怖に駆られて、すぐにヨシダさんに電話をしたが出てもらえなかった。まだ根に持っているのだろうか。
僕は思い出していた。あの時、能面を触ってしまったのは僕だけだったことを。ヨシダさんは能面と、あの朽ちかかった空き家を異様に恐れていた。そして能面の事も知っているような感じだったのだが……。差し当たって、いま目の前にあるこの能面は僕の家から250キロ以上離れた場所に捨ててきたはずなのである。
マットレスの上に置かれた奇妙な能面。僕は意を決して引っ掴むと、まだ荷解きもしていないカバンに詰め込んで押入れに仕舞いこんだ。
それからしばらくの間、怖くてカバンを開けられず、あっという間に半年が経った。
ヨシダさんとは結局連絡が取れないまま。僕一人でやらなくてはならない……けれど、このまま放っておく事も出来ない。何より、あの日あれほど恐怖を露わにしたヨシダさんのことが気がかりだった。
Jさんなら、あのお寺に行けば、何か判るかも知れない。新幹線は新大阪駅のごった返すホームに滑り込んだ。僕は人ごみにまぎれてホームに降りて、電車の乗り換えのためにベンチに座った。
そしてこの日、僕はさらに驚くべき事実に直面する事になる。
後編につづく。




