その16 「106号室の井戸」
ヨシダさんが関西に越して1年ほど経った頃のはなし。四ツ指トンネルの件以来しばらく会わなかったけど、幸か不幸か(いや絶対に不幸な事であったが)僕が彼女と別れてヒマになったので久々に彼の元へ遊びに行く事にした。
賑やかな大都市の喧騒からすっかり離れた小さな町の何処かに、築ウン十年の古いアパルトマンが建っている。もちろんヨシダさんの住まいではなく、今回の目的地だ。
新幹線から在来線と私鉄を乗り継いで降り立った田舎駅の改札口にヨシダさんが待っていて、そのまま荷物を積んで直行した。時刻は午前1時。すっかり往来の途絶えた街道を近況報告など交えながら快調に飛ばしてゆく白いスカイライン。お気に入りの細いハンドルを握る彼の指先がパタパタとリズムを刻んでいる。機嫌がいい証拠だ。
少し坂道を登っていくと山肌を縫うように閑静な住宅街が立ち並んでいて、その一本道のドン突きに不気味なアパルトマンが佇んでいた。正面玄関から少し離れた所にぽつんと立っている街灯の灯りでうっすらと浮かぶ外観は円みを帯びたベランダや三角屋根が特徴的だった。それと螺旋階段がひとつに、煉瓦をあしらった外壁。半月型をしたベランダの柵にも洒落た細工が施してあるなど昭和の香りが漂うモダンな建物だ。しかしこのちょっとした洒落っ気が、廃墟となった今はそのまま薄気味さに直結している。
雑草が腰まで伸びた荒れ放題の駐車場にスカイラインを滑り込ませると、迷いもせずに降り立つヨシダさん。僕も意を決してドアの取っ手をガチャリと引いて降りてみた。
……普通だ。こういう場所や話にありがちな得体の知れない嫌悪感だとか季節はずれの寒気なんてなものを全く感じない。夜の帳がざわめくような不安な風も吹いていない。
「ヨシダさん、ここ何?」
「井戸」
「井戸ぉ? この裏?」
「んや、106号室」
ヨシダさんは懐中電灯をカチリと鳴らし、丸い光をふりふりしながら話し始めた。
この建物が建ったのは昭和50年の終わりごろでよ。当時この辺りは売り出し中で近くにも一軒家だとかアパートが沢山建てられたんだ。ところがこの土地にもアパートを建てるに当たって問題が出てきた。買収した土地に建っていた古い民家を壊した所、床下から井戸が見つかったんだと。普通は、家の持ち主に相談したりとか考えるよな。けど、壊した家の持ち主は何年も前から行方不明でさ。そのままほったらかしになってたところを勝手に壊しちまってたんだ。ムチャクチャするわな。けど、当時はそういう事もあったんだろうな。
「それで、その井戸が残ったまま建てちゃったの?」
僕の質問にフムと小さな息を漏らして応えたヨシダさんは、さらに話を続けた。
そ。ちょうど床下に収まるってんでそのままコレを建てちまった。住人にもその事を知らせずに、だ。ところが新築で売りに出されてみると、この部屋だけちっとも売れなかった。やっとこ買い手が見つかってもトラブル続きで長続きしない。
原因は異様な湿気、年中ジメジメしてて一晩でびっしりカビが湧いた事もあったとかな。ただ、それだけじゃなかった。106号室に住んだ奴は口々に、
「部屋の中を青白い炎のようなものが飛んでいる」
って言うんだと。それも決まって真夜中に。あまりにオカシイと言うんで当時の住人と不動産屋の担当者で部屋の床下を調べてみたら……井戸が見っかったってわけさ。
そこまで話すうちに、例の106号室の前に着いた。コンクリートの床に響いていた二つの足音が止み、静けさだけが再び夜空から降りてくる。それほど風のない夜だった。
106号室のドアは風雨に晒されてすっかりくたびれていた。色あせた赤色の板は所々ささくれて、郵便受けも錆付いて開かない。ヨシダさんは部屋のドアの前で、残りの話を簡潔に済ませようと早口で喋り始めた。
井戸のことを知らされてなかった住人や不動産屋は驚いて建設会社に問い合わせた。それで井戸を詳しく調べたら……何が出てきたと思う? 白骨死体だよ。それも何十年も経ったやつだ。さらにそれは前の土地に建ってた廃屋の持ち主だったってことがわかった。
まーそんな話を聞いたら、もう住人みんなはビビっちゃって。すぐにみんな引っ越していったらしい。不動産屋の担当者も怖くなって会社をやめて、文字通り井戸は再び埋もれちまった。さらにバブルがはじけて持ち主が破産。建物は買い手も付かずにほったらかしになってるんだ。もちろん、井戸もな。
僕は目の前のドアを開ける気がすっかり失せていた。
「でも、ウワサなんだろ? だいたい誰からそんな話を聞いたのさ」
「こないだ乗せたお客がその当時ココに住んでたんだと。それで、ウワサから場所からぜーんぶ教えてくれたんだ」
「ホントにそんな井戸があるのかよ」
「それを確かめに遠路遥々やってきたんじゃないか。ん?」
「オイ、あんた迎えに来たらまず晩飯行こうって言ったろ!」
「今更うっせえな。ヤなら車で待ってろよ」
まただ。コレを言われると弱い。腑抜けな自尊心をスッカリ見透かされたようで、行かなきゃ一生馬鹿にされるのだ。
残念かつ意外な事に、ドアは呆気なく開いた。
キィ……キキキイ……ズッ。乾いて掠れきった音を立てながら蝶つがいが左右に動作した。前に居るヨシダさんの肩越しに、恐ろしくかび臭く湿っぽい、嫌な臭いのする空気が流れてきた。そのあまりの臭さに一瞬後ずさり、僕はドアの内側を懐中電灯で照らした。
「わあ!」
「(小声で)うるせえ! どうしたんだ」
「ヨシダさん、これ」
ドアの内側にはびっしりと黒いカビが張り付いていて、その形が苦しみに満ちた人間の顔に見えたのだ。歪んだ黒い輪郭の中に、大きく開いた口と溶け出したような二つの目の部分だけが白く浮かんでいた。これは偶然の産物なのだろうか……それとも。
「おい」
小さな土間で立ち尽くす僕をヨシダさんが呼ぶ。あの顔に背を向けて歩くのは心底嫌だったが、奥の部屋からちらりと見える景色が見事にそんな気持ちをかき消した。
腐りきった畳敷きの居間のど真ん中が乱暴にぶち抜かれ、ぽっかりと黒い穴が開いていた。
「これって……」
「ああ」
それだけ言うと、ヨシダさんは迷わず懐中電灯を向けた。
井戸があった。床板から地面まで数十センチほどの隙間があって、井戸の丸い口が地面とすれすれになっているのが見える。井戸の底までは見えない。光が届かない。幾ら照らしても、底はおろか水が張っているかどうかさえ見えないんだ。
「おいカズヤ!」
「あっ」
バッチリ見てしまった。どうやらヨシダさんも同じらしい。
井戸の底から、小さな光が差していた。最初は懐中電灯の明かりが溜まった水にでも反射したのかと思った。でも違う。まず色だ。青白くて、透き通るような色をしている。そして形。不規則に揺らめきながら、段々大きくなってくる……まるで井戸の底の暗闇で燃え上がった青白い炎のように。
「ヨシダさん! 逃げよう!」
「見るな! 見るなよ!!」
その時、二人して一瞬立ち止まった。開けっ放しにしておいたはずの玄関のドアが音も無く閉まっていた。その一瞬がいけなかった。
井戸の底から青白くて静かな炎がちろちろ、と顔を出している。そして風が吹くような小さな声で、誰かがささやいている。二人同時に顔を見合わせた。僕もヨシダさんも、何も喋っては居ない。
ボソボソ……という静かな音は、やがてブツブツとハッキリした「声」になった。
(ブツブツブツブツブツブツブツブツ)
部屋中の暗闇から響いてくる低い声。そして僕は思い出してしまった。あのドアを開けようとすると、さっきの歪んだ顔と目出度くご対面と言う事になる。大きく開かれた口の部分が、闇に紛れてざわざわと動いているような気がして酷く恐ろしかった。
と、その時。
ガラガラガシャアン!
「こっちだ! 早く!!」
ヨシダさんがベランダのガラス窓を叩き割って、そのまま飛び出した。僕も急いでそれに続く。良いか悪いかは別としてこんな時のヨシダさんは実に頼もしい。ベランダの柵を飛び越えて、そのまま駐車場のスカイラインに乗り込んだ。
ガルン! ガルン! ブロロォォォォ……。
エンジンが唸りをあげた。なるべく後ろを見ないようにして、とにかくその場を離れる事に精一杯だった。
どのぐらい走って来ただろうか。明け方前にはヨシダさんのアパートに帰りついた。ああ、よかった。と車を降りたその時。
「あっ!」
二人して悲鳴を上げてしまった。スカイラインのリアバンパーが、真っ黒に焦げ付いていたのだった。これには流石のヨシダさんもショックだったようで、すっかり項垂れて部屋に戻った。そのまま昼まで寝て、起きたらJさんのお寺に向かう事にした。Jさんは四ツ指トンネルでヨシダさんに憑いたモノを祓ってくれたお坊さんで、あれ以来仲良くしてくれているらしい。そしてすでに、ヨシダさんの或る秘密にも唯一人気付いているのだった。
Jさんは相変わらず穏やかに出迎えてくださった。けれどお堂に入った途端に険しい顔つきになってこう言った。
「佐野くん、ヨシダさん。あなた方は、このままでは、取り返しの付かない事に、なりますよ。もう、遊び半分で、このような真似をするのは、お止しなさい」
すっかりお見通しだったらしい。
そしてこのJさんの言葉は、数ヶ月後に現実のものになってしまった。




