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タクシー運転手のヨシダさん  作者: 佐野和哉
タクシー運転手のヨシダさん
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その15 後編「孤独な騒乱」

 真っ暗な階段が、狭い階段室の中で上に向かって伸びている。地獄への階段は下りるだけじゃないんだ、となんとなく思ったヨシダさんであった。懐中電灯で足元を照らしてみる。破損や腐食した部分は無いみたいだ。積もりきった埃が長らく人の行き来の無かった事を示している。踊り場の高い位置にある小さな窓から外の明かりがうっすらと差し込んで足元の絨毯を青白く浮き上がらせている。すっかりくたびれたさび色の絨毯は、歩くたびにコト、コトと、床そのものの音がした。ひとつ、ひとつ。ゆっくりと階段を登ってみる。いつだってそうだ。怖いけど……足が先に動いてしまう。踵を返して車のエンジンをかける。アクセルを吹かして山道を下りて。それで家まで帰って寝る。たったそれだけで済むことなのに。

 1階と2階の踊り場に立ってみる。上も下も真っ暗だけど、この踊り場にだけは青白い光が差し込んできている。と、懐中電灯を2階へ向けると……パタパタパタ……また足音だ。しかも、今までと違ってさっきまでそこにいたような聞こえ方をした。やはり誰か居るのか……でも、いったい誰が?

 いつの間にか、はっくん、はっくん、と大きく脈打つようになった心臓に急かされるように階段を登っていく。2階の階段室と廊下を繋ぐドアは錆付いて、ビクともしなかった。心臓の鼓動が、より一層早くなってきていた。大きく脈打つような感じから、はくん、はくん、はくん、はくん、と素早く何度も、大振りなものになっていた。ひどく息苦しい。なんだか眩暈もする。

 パタパタパタパタ……。

 パタパタパタパタ……。

 足音がすぐ上を駆けてゆく。くらくらする頭の奥でひどく嫌な予感が渦巻いていた。足が重くて今にも床にへたりこんでしまいそうだ。しかしそれでも、なぜか歩くことは止められない。ヨシダさんは左右の壁や天井の暗闇に気おされるように階段を上りきると、3階のドアを力いっぱい開け放とうとドアノブを握った。が、

 ガチッ!!

 このドアも、すっかり錆付いてとてもじゃないが開きそうも無かった。ドアノブの異常な冷たさのせいか、得体の知れない足音をはじめ様々な現象のせいか。体の芯がひどく熱っぽく重たかった。さすがに引き返そう。これは手に負えない……懐中電灯を下に向けて、慎重に歩き出した。一刻も早くこの建物から抜け出したい気持ちをどうにか落ち着かせて、ひとつ、ひとつ。ゆっくりと階段を下りてゆく。

 踊り場はやけに暗かった。そういえば1階と2階の踊り場には、青白い光が差していたはず……ぼんやりとする目で辺りを見回してみても、階下の踊り場のような青白い光は差し込んできていない。月が大きな木立の影に隠れているのかな……と、窓があるであろう位置に顔を向けた、その瞬間。

「あっ……!!」

 声が詰まった。確かに窓はあった。階下と同じ位置に、同じ形の窓がキチンと取り付けてあった。そして無数の黒い影が、そこからこちらをのぞきこんでいた。思わずその場で固まって、数秒そいつらを見つめてしまった。懐中電灯を向けることなど、とても出来なかった。でも足も動かなかった。影は身動きもせず、じっとしている。

 ふと気が付くと、窓の外から青白い光が差し込んできていた。立ったまま気絶したのか? それとも夢でも見ていたのか。とにかく一刻も早くココを出よう!ヨシダさんは再び足を踏み出し、懐中電灯を床に向けた。埃まみれの階段には、無数の足跡が並んでいた。夢なんかじゃなかった。あの窓はどこか深い深い暗闇に続いているんだ……。

 バタバタバタバタ!

 ヨシダさんが階段を駆け下りる音が、真夜中の廃墟にこだまする。懐中電灯を左手で突き出すように構えて、1階の廊下に続くドアをばーん! と開け放ち、そのまま来た道を引き返した。

 パタパタパタパタ……。

 パタパタパタパタ……。

 パタパタパタパタバタバタバタバタ!

 ドタドタドタドタドタ!

 バタバタバタバタドタドタドタドタ!!

 突然、小さな足音がそこいら中から響き出したかと思うと、それは重なり合い響きあい、やがて闇夜をつんざく雷鳴のようになって一直線に向かってきた。ヨシダさんに向かって。

「わあーっ!」

 思わず叫び出して、とにかく玄関に向かって走り出した。すでに囲まれたのかも知れない。ココには一体全体どんな奴らが、どれほど潜んでいたというのだろう。恐怖や後悔よりも、とにかくココから脱出する事しか考えていなかった。

 バンバンバババンバンバン!!

 窓ガラスも一斉に揺れだした。廊下に張られたガラスの全てが激しく揺らされているようだ。

 バタバタバタバタ!!

 足音がどんどん近付いてきて、ヨシダさんを追い詰める。さっきから心臓が悲鳴を上げている。もう破裂寸前だ……年齢の割に体力には自信があったヨシダさんだが、なぜだか体が思うように前に進まない。正面玄関が遠いはるか彼方にあるようだ……まるで廊下や天井、床からも、無数の長い手が伸びてきて、体中にまとわり付いてくるみたいだった。

 それでも無様な格好で走り続けた。玄関までたどり着いて、さあ!外へ!! と、ようやく建物から飛び出した瞬間。


 うおおおおおーーーん……。


 陰獣のうめき声か、それとも魑魅魍魎の断末魔か。地獄の底からはらわたに響き渡るような、物凄い叫び声がした。スカイラインに飛び乗ったヨシダさんは、祈るような気持ちでキーを回した。

 キュキュキュキュキュガルルルン!

 ブォン!!

(やった! かかった!)

 エンジンは唸りを上げてガソリンを燃やし、踏み込むアクセルに力を与えた。そのまま山道を一目散に下りていって、アパートに帰りつき……僕に電話をしてきた、と言うわけだった。


「オイオイ! 大丈夫なのかよ!」

 長い話を聞き終わり、恐怖と目が冴えたのですっかり寝れなくなってしまった僕が逆に心配すると

「バッカヤロー! 大丈夫だったらオメェーになんか電話してねえよ!」

 だとさ。なんだ、可愛い所あるじゃないか。このオッサン。


 その後。ヨシダさんもその夜はどうにか寝てしまい、翌日も何事も無く過ぎていった。しかしその後も気になって調べたり、人に聞いたりしてみたものの……そんな場所に廃墟があることも、何かの施設があったことも、誰も何も知らなかったという。それどころか5日ほど経った昼間にヨシダさんが同じ場所を探してみたところ、そこには朽ち果てた門だけがひしゃげて道の端っこに打ち捨てられていて。奥には鬱蒼とした森が広がっていた。とても、施設や廃墟が残っているような場所ではなかったらしい。

 石畳はおろか、獣道さえ見当たらず、その後、二度とその場所を見る事はなかったという。

 誰からも忘れられた場所は、本当に時代の暗闇に葬られてしまったのかも知れない。


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