その15 前編「真夜中の扉」
ある年の3月の初め頃。いまだ冷え込む真夜中に電話がかかってきた。ヨシダさんだ……こんなふうに突然電話がかかってくるときは、どこかの街に落ち着いたから遊びに来いと呼び出される(そして高確率で心霊スポットに連れて行かれる)か、何か面白い話(この場合、怪談とは限らない)を仕入れてきたか、だった。
なんとなく寝ぞびれていた僕は携帯電話を取って、通話ボタンを押した。
「もしもしヨシダさん? 今度はなにがあったの?」
真夜中。九州のずっと南の片田舎での出来事だった。海沿いの切り立った峠を走る国道から随分外れた森の中に、その廃墟は建っていた。山側に向かって酷く荒れた狭いでこぼこ道を登っていく。おそらく昼間でも薄暗いであろう鬱蒼とした森のさらに奥。旧政府の保養所か、はたまた何かの実験所だったのではないかと言われているがあまり表沙汰にならない建物であることに違いは無い。潮風と雨に晒され続けた鉄格子とコンクリートの門が、ひしゃげたまま道の端に残っている。一応立ち入り禁止らしい。が、そんな事を気にするヨシダさんではなく真夜中に呼び止める人も居らず。荒れ放題の敷地の中にずんずん入っていった。
波打ってしまった石畳も構わずに愛車のスカイラインで走ってゆくと、ウン十年は放ったらかしの建物の前に出る。3階建ての横長、小さな病院か気の利かない保養所のように見える建物だ。正面はロータリーになっていて、玄関には出っ張ったポーチがついている。へッドライトが照らした建物には蔦がビッシリと絡みつき、窓ガラスも所々割れている。日頃は目につかないだけで何処かに必ずある…時代の、歴史の忘れ物みたいな廃墟。誰からの記憶からもすっぽりと抜け落ちた暗い落とし穴のような場所。それが、確かにそこにあった。
エンジンを止めず様子を見るために車から降りてみる。バタン! とドアの閉まる音がやわらかにこだまして響く。他には、かすかに風の吹く音だけ。想像以上の不気味さに流石のヨシダさんも
(コレは帰った方がいいかもしれない)
と思った、そのとき。
ヨシダさんの愛車、白いスカイラインのエンジンが、すーっと止まった。たった今まで低い唸り声をあげていたはずなのに。ヘッドライトも消えてしまい、あたりは真っ暗。
(呼ばれたか……)
覚悟を決めたヨシダさんは、助手席に置いてあった懐中電灯を引っ掴むとスイッチを入れた。正面玄関の割れたガラス戸が丸く照らされた。床一面に積もった砂埃が訪れる人の無い事を示している。
散乱するガラスを踏みしめながら中へ入ってみると、突き当りから左右に長く伸びた廊下が続いている。さてどうしたものか…と、懐中電灯をふりふり動かして辺りを照らす。壁には残されたものも無く、しみや汚れの模様だけが黒や茶色に浮かんでいた。
トットットットット……。
足音だ。がらんどうの暗闇に、確かに足音が聞こえた。もぬけの殻になった玄関の突き当たりに立ち尽くすヨシダさんから逃げてゆくように。深い、常世の暗闇に誘うように。
トットットットット……。
廊下の左端だ。今度もハッキリと聞こえた。懐中電灯を向けてみると、灯りの届かない数十メートル先で廊下が終わっているらしい。
(ごくり……。)
冷や汗が背筋を流れた。真夜中の廃墟で得体の知れない足音を追いかけようとする自分がほんの少し恐ろしくなった。自嘲的な笑みを浮かべながら、ヨシダさんは廊下を歩き出した。そしてすぐに、ヨシダさんは自分のおろかな振る舞いを後悔する事になった。右側に残されたガラス窓が、時折バシン、バシンと音を立てて揺れる。山肌に面した窓には風も当たらず、その日はガラス窓を揺するほどの風は吹いていなかった。
コツ、コツ、コツ。ヨシダさんの足音が廊下に小さく響く。そこへ、バシン! と窓ガラスが一際強く揺れた。驚いた拍子に振り向いてしまったヨシダさんは、窓の外に真っ白な人影がぼーーっと立っているのを見てしまった。顔も体も無い。ただ人の形をした白いものが、灯りもないのにハッキリと見えたという。数秒のち、白い人影たちは音も無く消えていった。
ヨシダさんはこめかみが引きつるように痛む事に気が付いた。いつもの二枚目からは余裕が消え、額にも脂汗が浮ぶ。前を向いて灯りを足元から廊下の端に向けると曲がり角が見えた。するとまた、トットットットット……と足音。それも、最初に聞いたよりかなり近い。どうやらあの角の向こうが怪しい。角は右側に向かって折れている。その折れ目の部分に、何か黒いものが見えた。んっ!? と思ったヨシダさんが懐中電灯を向けるより一瞬早く、黒い何かは奥へと引っ込んだ。どうやら足音の正体らしい。
なおも痛むこめかみを右手で押さえながら、左手の懐中電灯を強く握り締めた。曲がり角まで数メートルの地点にドアがあった。何かの部屋らしい。正面から見た感じでは今までにも数部屋あったはずだけど、何故かこのドアだけ目に付いた。そっとドアノブに手をかけてみる。
(ギャア、ギャア、ギャア)
ドアの向こうから、何か聞こえる…動物の鳴き声だろうか。いや違う…泣き声だ。それも生まれたばかりの赤ん坊の。
(ギャア、ギャア、ギャアア)
ドアの向こうで、赤ん坊が烈火のごとく泣いている。思わずドアを開けようとしたヨシダさんは、すんでのところで思いとどまった。おかしい。どう考えたって、こんな場所に赤ん坊が居るわけがない。ドアの前からそっと離れて歩き出したヨシダさんを
ドン!
と向こう側からドアを強く叩く音が送り出した。
廊下の端っこを右に折れると、すぐにドアがあった。木で出来た分厚そうな扉の上に、くすんで字が読めなくなったプレートがつけてある。
(真夜中の扉か……)
なんとなく頭に浮かんだそんなフレーズをボソっと呟いて、ヨシダさんはドアノブに手をかけた。この向こうに自分を誘い込もうとしているのは、一体何者なんだろう。ガチャリと音を立ててドアを開けた、目の前の光景は、一瞬よぎったそんな恐怖が抽象的に具現化されたようなものだった。
階段、だった。(後編に続く)




