その11「死を呼ぶ影」
2007年。冬。
ヨシダさんと僕は関西のある田舎町へと向かっていた。時刻は夜8時。ヨシダさんの愛車である白いスカイラインは古さゆえにちっともエアコンが効かず、ひどく寒かった。
このさびれた街のさらに山奥に打ち捨てられた精神病院があるらしい。10年以上前に閉鎖され現在は廃墟と化して久しいその病院にはある噂があって、それを今回確かめに行こうと言うわけなのだった。なのだった、などと軽く書いてはいるものの、実際のところ僕の心中は穏やかでなかった。ただでさえ前回の廃旅館で死ぬほど怖い思いをしていると言うのに、なぜまたこのクソ寒い最中に背筋まで冷やさねばならんのか、と。
しかし、僕と言う人間はつくづく愚かだった。口では色々と言いつつも結局は好奇心に負けて、嬉々としてスカイラインを走らせる愚か者の先輩にノコノコ付いて来てしまったのだから。
しばらく走っているうちに車は山道に差し掛かった。冬の夜道は空気がキンと冷え切っているようで、窓ガラスを隔てただけの外の空間が異様に深い闇のように思えてくる。乾いたエンジンの音と急カーブで地面を踏みしめるタイヤの音が大きく響いた。街灯がぽつり、ぽつりと立っていて、暗い山道の点と点を結ぶようにスカイラインのヘッドライトが走ってゆく。
ずいぶん登って頂上付近に差し掛かったとき、道路の左手に細い上り坂が見えた。この左手の坂を上ると、病院。そしてこのまま山道を登りつくと……なんとそこは墓地らしい。この絶妙な組み合わせ。タイガー・ジェット・シンとアブドーラ・ザ・ブッチャーが組んでるようなもんじゃないか。このとき実際そう思ったのをよく覚えている。
車は勢いよく細い一本道を登った。深い木々がトンネルのように両側からせり出して、道路をすっぽりと覆っている。その短いトンネルを抜けた先には夜空よりも深い暗闇が広がっていて、地上4階建ての廃墟がその不気味な姿を残していた。
正面玄関の屋根の下に車を停める。心底降りたくなかったのだが、ドアを開けて外へ出てしまった。冷たくて静かな空気が風もないのに体にまとわり付いてくる。建物も周囲も真っ暗闇だ。
1階部分の窓ガラスはほとんど割られていたが、鉄格子がはまっていて窓からは入れないようだった。玄関の大きなガラス戸も割られて久しいらしく、物好きの乾いた足跡やゴミがアチコチに散らばっていた。大き目の懐中電灯を二つ構えて、一歩、建物に踏み込んだ。とたんに むわあっ、と嫌なにおいが鼻をついた。カビと埃と生肉が腐ったような臭いだ。どこかに動物の死骸でもあるのかもしれない。ヨシダさんは興味深げに懐中電灯を上下左右に揺らして、辺りを見渡している。僕はといえば、怖いし寒いし、とにかく建物から出たくて仕方がなかった。だけど、あの噂が本当なら、是非確かめてみたくもあった。その為にわざわざこんな所までやってきたのだから……。
玄関の奥は待合室だった。さらに進むと診察室と思われる小部屋が幾つも並んでいたので、ドアの開いた部屋を外から覗いてみた。割れたガラス、倒れた戸棚、散らばる紙切れ、転がる小瓶。他にはお菓子やジュースの空き容器にセンスのない落書きが幾つか。期待外れな感じも否めなかった。何かココでとんでもない事が起こった!という状況ではなさそうだ。そう思ってスッカリ油断した僕を、ヨシダさんが呼ぶ。
「オイ、上だ」
階段の入り口には頑丈な扉が付いていたが、今は開け放たれたまま錆び付いている。真っ暗な縦長の空間に取り付けられた階段を、慎重に登ってゆく。
こつん、こつん、こつん、こつん。
こと、こと、こと、こと。
二人分の足音が闇に吸い込まれていく。ふと(帰りもココを通るのかな)と考えてしまいユウウツになる。
僕たちの目指す部屋は3階だった。踊り場から思わず階段を登ろうとしてしまった僕の腕を、ヨシダさんが強く引っ張った。
「バカ、どこ行くんだ!」
小声で怒られた。4階へ向かう階段はひときわ暗く、懐中電灯の光も届かないようだった。特別な部屋があるので階段の幅でも広くなっているのだろうか。
3階のフロアに出ると流石に窓ガラスも割られていたいのか、長年の間に篭りきった空気がどろりと流れてくる。すえたような臭いが段々きつくなり、思わず咳き込んでしまった。
「静かにしろ」
ヨシダさんが少し緊張した面持ちで懐中電灯を向けた。そこには305号室と書かれたプレートが半分傾いてぶら下がっていた。薄緑色のドアに、曇りガラスがはめ込まれている。中の様子はわからない。しんと静まり返った廊下の奥から暗闇がやってきて、今にも飲み込まれてしまいそうだった。
イィィィィ……キィ。
ヨシダさんはゆっくりとドアノブに手をかけた。蝶つがいが耳障りな音を立てて軋みながら、ドアは手前に向かって開いた。部屋の中から流れ出てくる猛烈な悪臭。今までのとは全く違った感じだ。なんだろう、これ。
305号室は4人部屋で、手前には傾いたり壊れたりしているベッドが残されたままになっていた。誰かが入った形跡はない。窓際の二つのベッドのうち、向かって右側のベッドの周りにだけカーテンがかかっていた。病室によくあるベッドの周りをぐるっと取り囲むコの形のカーテンだ。二つの懐中電灯をふりふり向けて、ベッドの周りを照らしてみる。
ぞわっ。
鳥肌が立った。誰かいる。カーテンの向こうに誰か立っている。僕の懐中電灯がカーテンを照らした時、足元の隙間に影があったのだ。ヨシダさんのわき腹をつつき、それを知らせた。
「どうした?」
と小声で聞いてきたので
「あ、足。誰かいる……」
僕がかろうじてそれだけを伝えるが早いか、
ザアアアアアッ!
あろう事かヨシダさんはツカツカとベッドに歩み寄り、閉ざしてあったカーテンを思い切り引っ張ったのだ。開け放たれた中には綺麗な形で残されたベッドが一つだけ。誰も中に立ってなんか居なかった。そりゃあそうだ。こんな廃病院のベッドの中に、一体誰が。
ヨシダさんは、さらにそこに懐中電灯を向けた。何の変哲もない古いベッドと埃まみれのシーツ。僕も懐中電灯を向けて、もう一度辺りをよく照らした。
「……おい!」
ヨシダさんが緊張した声をあげた。
(うわ、うわうわっ)
僕は口をパクパクさせて声にならない悲鳴を上げた。ヨシダさんが照らした壁、窓枠のすぐ下の部分にハッキリと人の顔をした染みがあった。苦しみに歪む表情、乱れた長い髪、そして誰かを招くように伸びた細い腕。すべてが鮮明すぎるほどに浮かび上がっていた。壁の黒い染みが偶然このような形になったのだろうか。それとも誰かのイタズラか?
驚いた僕が次に懐中電灯を向けたのは、高い天井の片隅だった。するとそこには、僕たちを見下ろすようにニタァーッと笑った大きな黒い顔が映っていた。僕は声も出せずに、その場にステーンと尻餅をついてしまった。落っことした懐中電灯を慌てて拾い上げてさらに照らすと、床一面に、地の底から這い上がるような無数の手、腕、そして
顔、顔、顔。
壁からも天井からも次々浮かび上がる、
顔、顔、顔。
とっくに限界を超えた僕は這いつくばってヨシダさんを呼んだ。
「よ、よヨシダさあん!」
腰を抜かした僕の腕を引っ張って立たせながら、ヨシダさんは部屋を飛び出した。
「走れるか?」
「なんとか」
「じゃ走れ! 後ろ見んなよ!」
そういうと、ヨシダさんは一目散に走りだした。
「わああああああああああああ!!」
恐怖のあまりとうとうパニックになった僕はひたすらヨシダさんの後を追った。 真っ暗な階段に差し掛かったとき、さっきより暗闇が深くなったような気がした。だが、冷静だったのはそこだけで後は無我夢中になって廃墟の中を駆け抜け、スカイラインの助手席に飛びこんだ。
青息吐息の白い息を、寒い車内に吐き出し続けていた。噂は本当だった。あの部屋には死を呼ぶ影があった。あの顔の形の染みが本当に、閉鎖後にあの部屋で自殺をした者の怨念かどうかはわからない。だが、その他のあの影は……?
「ヨシダさん、あの時」
「お前、足掴まれてたな」
「ゲェッ! ほんと?」
「最初、4階へ行こうとしたろ」
そういえば3階へ着いたのに、僕はウッカリ次の階段を登ろうとした。ヨシダさんいわく「4階はヤバい位居た」らしく、あの時にもう足をつかまれていたのだろう、と言うことだった。最早数が多すぎて、念が強すぎて、奴らの念の固まりが、暗闇そのものだったのだ。つまり階段で僕が照らした暗闇はすべて「あの影ども」だったのだ。
宿に帰り着いて明るい場所で見てみると、僕の左の足首だけ元々あったアトピーが異常なぐらい赤く爛れていた。その傷口は何日も膿みを出し、完全に治るのに長い時間を要した。しかしその傷も癒えぬうちに、僕たちはまたしても新たな恐怖に首を突っ込むのであった。




