六十五話 暗い転機
一匹と一人が、必死な様子で道を走る。青々と伸びた稲畑の間を、ひた走っていた。そこは、季節と共に光景が切り替わって行く、ベルロンドへと向かう道である。
しかし、そんな風情を感じる間もなく、男は自らの相棒である馬の腹を適度に蹴り、早馬にあるまじき全力疾走を行わせていた。襲歩だ。凄まじい速度で男の視界が流れて行く。先の水飲み場からほぼ最高速である襲歩で急ぐ男は、馬の首に手を当ててすまないと呟いた。
しかし、それでも尚、男は速度を緩めようとはしない。馬も、騎手の思いに答えようと、必死に足をめぐらせる。お互いに荒く息を吐きながら、それでも前へ前へと駆けて行く。門は、もう直ぐそこである。
「くそっ! このままでは、戦争が――!」
男が激しい上下運動の中、独り言のように呟こうとして、舌を噛みそうになる。素早く口を閉じて対処した男は、それでも臓腑の底からこみ上げてくる感情を無視する事はできなかった。急がなければと、改めて姿勢を低くして、走る。
――このままでは、再び戦乱が訪れる。
自分にどう出来る事ではなくても、せめて一分一秒、早くこの情報を。男は後にも先にも、これほどの信念と速さを持つ事はなかった。
尋常ではない早駆け――伝令の男を見た門番が、あわてて槍を組んで止めにかかる。しかし、伝令の男はその二歩ほど手前で止まり、懐から見事な封蝋印を施された封書を取り出し、掲げながら、喉が張り裂けんばかりに叫んだ。
「伝令、伝令ッ! 至急、ベルロンド貴族議会に緊急報告の必要あり――ッ!」
「早駆けの、伝令だと? パートマデット王国印で封がされた書まで持って、か?」
アルラが、天幕を訪れていた情報屋から、耳にした情報を思わず聞き返した。情報屋は、迷う様子も無く頷く。
"早駆け伝令"とは、すなわち緊急事態に用いられる特殊要員である。ある種の、重装偵察兵と似た様な存在であるが、性質としては逆。安全性よりも至急性、僅かでも早く情報を伝える為に用いられる、伝令兵である。馬も人も、より素早くなる為の訓練を幾度も受けた猛者たちだ。
それらが使われる様な事態がそもそもないため、確実さが売りである情報屋の間でさえ、真偽が明らかになっていなかった存在だ。となれば、そんな、半ば架空上の物となっていたような者達を引っ張り出してくるような緊急事態と言うことか。アルラはそっと目を細めた。
「言い値で買おう。伝令の持ってきた情報も、大方掴んでいるのだろう」
言い値で買う。その言葉に情報屋の男は目を光らせ、口の端で僅かに三日月を描いた。どんな情報だろうが、金になりさえすれば情報屋連中にとって、世界の命運などどうでもよいのだ。強いていうならば、その言い値で買うという言葉が、彼らにとっては救いの神だ。
いくらで売りつけるか。いや、ここは相場より若干安めに信頼を得ておくべきか。頭の中で算段を巡らせながら、情報屋は――ある意味、頑丈な――口を開いた。
「聖エンパイア教国が傭兵崩れの軍に占拠されたんだ。そんで、声明を出して全大陸の国々へ宣戦布告」
全く、どこの馬鹿か知らんが、無謀な話だよな。そう追記する様にして呟いた情報屋の言葉に、アルラは大きなため息を吐いた。家の団長が黙っている訳はないだろうな、と。
「……宣戦布告」
「あぁ。全世界へ向けて、だ」
幹部での会議中、アルラからの報告を聞いたフランシスは、思わず眉間を片手で抑えた。誰よりも自分自身が、その言葉を聞いて、向かわない訳にはいかないとわかっているからだ。
正直、ベルロンドを離れたくなかった。まだ復興は終わっていないし、フューレの進む道が見つかったのかも聞いていなければ、賊の脅威も残存したままだ。遣り残したことばかりで、ベルロンドから離れるのには忌避感があった。
いや、少し違う。フランシスにとって、ベルロンドは居心地がよかったと言うのも強いのだろう。
砂漠に木を植える老人と少女に出会ったのはここで、それ以外にも様々な人間達と会ってきた。ノールや、ケンドリックの話を聞いたのもベルロンドだ。最も長く滞在したのも、やはりベルロンドである。一種の愛着の様な物がフランシスの中にあることを、否定はできない。
「……団長。何も我々が行く必要はないのだぞ? 帝国や王国にまかせてしまってもいい」
そんな団長の心中を覗き込んだ様に、アルラはいった。国に任せれば、きっと混乱は直ぐにでも収まるだろう。国一つ落としたとはいえ、所詮は逆賊でしかない。
「わかるだろう、アルラ。国に任せれば、どうなるか」
しかし、フランシスは首を横に振った。アルラも、その頭脳をもってして、わからない筈はあるまい。アルラはその端整な顔をゆがめた。
国がその腰を上げれば、おのずと軍が立ち上がる事となる。宣戦布告され、それに対し軍が立ち上がってしまえば、それはもはや――。
「戦争、ですかな」
口を開かなかったアルラに変わり、ノールが言葉を紡ぐ。
そう。フランシスの忌み嫌う、"戦争"なのだ。どこまでいっても、フランシスの中に、揺るがない嫌悪だけが残っていた。
会議中の天幕の外が、厚い曇天で覆われている。一雨来そうだなと、誰ともなく呟いた。




