三十五話 ふと沸いた偽善
見果てる事無き砂漠が広がっている。金色の砂は沈み始めた日に照らされて、正に黄金の粒の様に煌いていた。
しかしそれは、一滴の価値を、生命を生まぬ死の灰である。一本の草も生えぬ砂漠の砂を、フランシスは何気なく一掴み握りこんだ。さらさらと指の間から抜け落ちたそれに、水の気配は一切感じない。胡坐をかいたフランシスは、じっと砂漠を見つめた。何がこの国を滅ぼそうとしているのか、見定める様に。北から盗賊、南から砂漠。だが、それだけだろうか? そう訝しんでいた。
こういう時、治安は自然と悪くなりがちだ。表だって闇は見えずとも、その裏に何が隠れているか分かった物ではない。議会が盗賊や砂漠への対処で紛糾している間にも、盗賊よりも素早い影響を与える、砂漠よりも凶悪な何かが潜んでいる気がしてならなかった。
そんなことを考えながら砂漠を眺めていると、横合いから声があった。フランシスの見知らぬ声であった。
「御仁、どうかなされたかな」
その声にゆっくりと振り向いたフランシス。彼の瞳に映ったのは、細身の老人であった。老人は植木鉢が幾つも載った荷車を引いており、その上には孫と思われる少女の姿が見えた。
「……いや。考え事をしていただけだ。……御老体は、何を?」
フランシスが問いかけ返すと、さて、と老人は背を伸ばした。固まっていたのか、筋がペキペキと音を立てた。身が沿った拍子に露わになったのは、枯枝の様な老人には似つかわしくない、よく張り巡らされた筋肉だった。
一瞬とはいえ、フランシスは戦士。その一瞬が命取りになる事もあるのだから、その程度は何の制限にもならない。そして同時に、フランシスはその筋肉が戦いの為の物でないことにも気がついていた。
「見てくださいや、この砂漠を」
フランシスは今一度、砂漠を振り返る。それは唯々広大で、唯々虚無な砂の海だ。到底、人が生きて行ける場所ではない事が一目見れば分かってしまう魔境だ。何度見ようとも、それ以外の側面は見受けられない。
「この場所は、かつて砂漠などではなかった。もっと自然豊かな土地であったのですよ」
ゆっくりと、荷車を押しながら老人は呟く。しみじみとしたその言葉にこめられた感情は、何を考えているのかフランシスには分からなかった。だが、深く過去を思っているのだろう事だけは分かった。
数年前まで、砂漠でなかった事はフランシスも知っている。アルラは何かとそう言う知識をフランシスに語っており、フランシスもそれを深く覚えている事が多かった。今回もそれである。
「きっと、太陽の神がお怒りなのでしょうな」
なるほど確かに、遠くに見える光は、沈みかけとはいえ殺人的に見える。神の怒りであるならば、この死の灰が広がることもあり得るのだろう、と。フランシスにはそう思えた。
「私は、この町が、国が。砂に包まれるのを指を加えて見ている事ができぬのです」
そう呟いた老人は、おもむろにここに荷車を置いていいか、とフランシスに問いかけた。フランシスは鷹揚に頷く。もとより自分の土地ではないのだから、フランシスがとやかく口をはさむ理由もなかった。老人はにこりと笑った。
「砂漠はひろい。そんな木の七、八本で何とかなるものなのか?」
フランシスはふと問いかける。生命の象徴の様な広大な麦畑と対を成す様に、死を体現したような砂漠もまた広い。日々植えているのだとしても、焼け石に水をかける様な物では、と思ってしまうのも無理はなかった。
しかも、砂漠はひどく乾いている。雨も降らないような有様では、とても植物が育つ事など夢物語の様な物にしか思えない。荒野の上の街が丸ごと国であるが為に、農耕地帯まで砂漠は届いてはいない。だが、届いたが最後、全てが枯れ果ててしまうだろう光景は簡単に考えられることだ。
「ハハハ……まぁ当然、何ともなりませんや」
老人はフランシスの不躾とも取れる言葉に対し、鷹揚に笑いつつ、長い年月で蓄えられた顎鬚を弄った。
「それでも、何もやらないよりは、と。老骨ながら、日々こうして木を運んで、植えて、毎日水をやれば……何時か、実ってくれる気がしましてな」
荷車を下ろした老人は、植木鉢を一つ掴み上げた。軽そうに持ち上げてこそいるが、土と苗が詰まった重くるしいそれは、常人ならばたたらを踏む物であった。荷車の上に乗っていた少女も、同様に――とはいっても、両手でしっかりと掴んで、だが――植木鉢を持ち上げた。長い長い、反復が生む筋肉は馬鹿に成らないものだ。とはいっても、少女の方はまだまだではあるのだが。
そんな老人を見ていたフランシスは、その柳の様な細い体に、何か強く気高い物を感じた。己とは違う強さ、自らとは違う信念を、垣間見た気がした。
「御老人、俺も手伝ってよいかな?」
「……ほう」
老人は驚いた様にフランシスに振り返った。少女はまだ荷車から植木鉢を一つ降ろしている途中だった。
「何故か、お聞きしてもよろしいかな?」
植木鉢を持ったまま、老人は問いかける。その見透かす様な眼差しは、しかとフランシスを貫いていた。その身に漂う気配、戦う者の気配はやはり、普通の人に過ぎない老人にもわかるものだ。であれば、何故……という問いが浮かんでくるのは、当たり前でもあった。
「いや、なに……ちょっとした、偽善と言う奴だ」
自分から偽善という偽善者がそういるだろうか? 老人は一拍呆れた様な顔をしてから、快活に笑った。




