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海の王女は愛しい王子を海の底で守り切ろうと思っていた

作者: 日室千種



 赤珊瑚の城、真珠の間、玉座に座る父王に向かって頭を垂れるエスリーアは、静かに沙汰を待っていた。

 つい先程、海底に帰還したばかり。身に纏うのは、王に敬意を表し、もう二度と着ないものと思った海の王族の衣装だ。上半身は胸と腰元だけ隠し、袖と膝下に美しくひだを重ねる。

 そのむき出しの肩を隠していた薄布だけは陸のものだったが、急激な潜降に耐えられなかったのか、気がつけば失ってしまっていた。エスリーアの瞳と同じ青銀色の髪、そのうねりに現れる緑や桃色の鮮やかな色味に合わせた、美しい布だったのに。


 王が、重たい息を吐いた。


「もう一度だけ問おう。そなたは、陸の男と肌を合わせたと。そう言うのだな?」

「はい、お父様」

「王族が異性と肌を合わせれば、その相手を連れ帰って添い遂げるか、この国から追放か、どちらかひとつ。知ってのことか?」

「——はい、お父様、ですが」


 彼の人は、陸の高貴な人。そしてまた、優美でたおやかで、荒事には向かない人。連れて帰ることは、できないのです。


「では王女殿下は、この国を捨てると、そうおっしゃるのか」


 太い声が、黙り込んだ王の代わりにエスリーアを責めた。


「親子の会話に口を挟むとは、増長がひどいわね、将軍」

「親子とて、王と王女であれば。王女よ、国を捨てるなど、許されませんぞ」

「将軍に指図される謂れはないわ」

「なかろうとも、言わせていただく。連れ帰るか、殺しておいでなさい、その男」


 至極当たり前のことのように言い放った男の隻眼を、エスリーアは睨みつけた。

 若くして近海の猛者を軒並み下した海の勇者、カルハリ。巨大な男だ。華奢なエスリーアの倍ほどもありそうな体には、歴戦の傷が刻まれている。


 エスリーアは、心に三叉の槍を構えた。

 玉座の前ゆえ、実際に手に取ることはできなくとも、心は毅然としてあるために。

 王族にだけ呼び出せる、神の槍。神秘の武器。それを握るエスリーアは、カルハリとも対等に戦うことができるのだ。


「私の愛した男よ。殺さない」

「では、連れ帰りなされ。次代の王配ともなるかもしれぬ御仁の宿命は、この海底の国にあるはず。いかに王女殿下といえど、一人合点で決めて良いものでもあるまい」


 エスリーアの心は揺れた。

 恋人と離れるのは有り得ないが、故郷であるこの国を追われるのもつらい。

 心を決めてきたはずなのに、ここで揺れてしまったからには。


「では、それも一案として今一度陸へあがり、私の運命を決めてまいります」


 エスリーアの決意を、父王は鷹揚に認めてくれた。


「わしは、年経てからの娘であるそなたが可愛いのじゃ。追放だけは避けたい。だが、これも掟。ぜひとも口説き落として、連れてまいるがよい」




 だが愛娘を見送りながら王の顔をして呟いた言葉は、エスリーアには届かなかった。


「カルハリはしつこいぞ。王配といえど、隙を見せれば殺すであろう。愛した男を守り切れるか、エスリーア」


 海底の国は、多種多様の強大な生物と常にせめぎ合っている。男女問わず、王の資質として武力は必須。夫婦支え合うのが理想ではあるが、王配が非力というならば、エスリーアがその分を補わねばならない。


「せめて、その男、歌舞音曲にでも秀でていればよいな」


 海底の国は芸事に熱い。カルハリ将軍の剣舞は国でも指折りの素晴らしさで、そちらの信奉者も溢れている。

 武と舞を兼ね備えた男。エスリーアに運命が訪れなければ、王配となったのはカルハリだっただろう。


 王は、堂々たる男をちらりと見た。泰然自若に見えるが、その顎から首筋に力が入っている。歯軋りしたいほどの思いなのだろう。それを押し隠し、瞬きもせずにひたと立ち去るエスリーアの背を見つめている。

 この執着をエスリーアが受け入れれば、国にとっても良きことだったのに。

 王のついたため息は、ぽかりと丸い泡となり、珊瑚の宮殿の天井の隙間にゆらゆらと上がっていった。










 夕焼けの海に、たどたどしい弦の音が響く。優しい海の歌をゆったりと紡ぐ声だけは、なかなかだ。

 海の中からその声に聞き入って、エスリーアはじわっと浮いた涙を、そのまま水に溶かした。仮にも王女として育ち、芸術にも触れて来た。彼の歌は愛おしいが、万人に称賛される腕前ではない。


 どうしよう。

 連れて帰って、守りきろうと、ここまでやって来たけれど。エスリーアは、彼を守りきれるのだろうか。海底の国で、彼は不幸にならないだろうか。

 悩んで波の間に同化して揺蕩っていたのに。


「エスリーア!」


 何故か彼は、エスリーアを容易く見つけるのだ。初めてエスリーアを救ってくれた日から、いつも。


「リュスロス」

「しばらく顔を見ないから、どうしたかと思っていた。おいで」


 足首まで海水に踏み込んで、手を差し伸べてくれる。

 長い朱色の髪がさらさらとこぼれ落ちる。夕焼けの光を浴びてますます燃え上がるようなその美しさに、エスリーアは悩みをすっかり忘れて、ただ、ふわふわと浮き立つ気持ちのまま、手を掴んで陸に上がった。


 海中で衣装ごと身に纏う保護膜を消して、柔らかな足の裏で慎重に体重を支えて移動する。

 リュスロスは着ていた上着を脱いでゴツゴツとした岩の上に敷いてくれる。美しい衣を傷めないか気になるが、これはリュスロスの気遣いだ。エスリーアはにっこりと笑って、そっと腰を下ろした。


「どうして、いつも私がいるとわかるの?」


 不思議で首を傾げると、リュスロスも朱金の目を細めて、真似をするように首を傾げた。


「エスリーアの纏う魔力はとてもおしゃべりだからね。ここにいるよって呼ばれるように、僕には聞こえるよ」

「陸の人が魔力を察知するのが上手いというのは、本当なのね。海の中は魔力に満ちていて、察知どころではないし、逆に自分を自分の魔力で覆っておかないと、潰れちゃうわ」


「面白いね。僕は、海底の女性は、魚のヒレを持っていると思っていたよ」

「持っていないわ。普通の人よ。ちょっと、魔力の操作が特殊なだけ」


 魔力は常に身に纏って、海水から空気を補充するほかは、身体強化に大半を使う。もとは水圧に耐え長く潜水するためだったようだが、肉弾戦にも強くなった。


「でも陸に出ると、空気中の魔力は薄いのね。気をつけないと、自分からも魔力が溶け出ちゃいそう」

「そうだね、みんな魔力は内に閉じ込めて、必要なときだけ使うようにしているよ」

「そっか、だからなのね? 私には、リュスロスの魔力は見つけられないわ」


 海と陸との違いに、心がささくれていたかもしれない。

 思ったより拗ねた響きになって、エスリーアは内心慌ててしまった。リュスロスに責任のないことだ。八つ当たりをして、どうするというのか。

 けれど、リュスロスは優しく笑って、武器など持たないすんなりとした腕を中空に伸ばしてみせた。


「これはどう?」


 その指から、朱金の煌めきが溢れ出し、何もない宙に文字を書く。

 エスリーアの審美眼にも叶う、うっとりするような美しい文字だ。


「古代語で、リュスロス、と書いた」

「読めるわ。海底でも、書としてこの文字の筆記体を彫ったりして飾るわ。でも、こんなに魔力を帯びている字なんて、見たことない」

「これは、魔術だよ、エスリーア。——『ε』」


 最初の一文字を、リュスロスが音として口から発した。

 その瞬間、文字が煌めきを強めた。手のひらほどの大きさの文字が、太陽を借りてきたように眩い。

 海の果てまで届く光などないのに、この輝きなら、海底からでも見えそうだ。


「すごい。リュスロスはここにいる。そう言ってる」

「うん。受け取り手はエスリーアだけ。これなら、海の中からでも見つけられるよね」


 暮れかけた空に光り続ける文字に、エスリーアはすっかり魅了された。


「魔術って、とても綺麗なのね。まるで光の絵画か書のよう」


 これなら、海底の民も気に入るだろう。美しい光の魔術の使い手を、王配として尊重してくれる。そんな気がする。


 明るい展望を得ると、たちまち、エスリーアは重石が取れたように心も体も軽くなった。拍手をしながら、にこにこと頬が緩むのを止められない。

 青銀の瞳は光を内包して煌めき、髪は明るさを増して、風にそよぐたびに桃色や緑の色味をちらつかせる。

 それが恋人の目にいかに無邪気で艶めかしく映っているかなど、エスリーア自身にはまるでわからない。

 リュスロスは垂れがちの朱金の目を細めると、その髪を一束手に取った。


「海底に戻っていたの?」

「ええ、貴方とのことを報告しに」


 リュスロスはくすぐったげに笑った。


「大げさだな。たかが、ハグとキスだ」

「で、でも、海の中だとあり得ないのよ。今貴方が触っている髪だって……。いつも私達は膜に覆われているから。生身で触れ合うなんて。夫婦だけだわ」

「海底の風習に感謝だな。あと、陸に打ち上げられていた君を見つけたのが、僕で良かった」


 夕陽の最後の輝きを浴びるエスリーアに、リュスロスは優しく口づけた。


「さて、でも君を迎えるとなると、僕も環境を整えなければね」


 少し思案げに言った恋人に、エスリーアは意を決して、打ち明けることにした。


「あの、そのことで、話があるの。私、海底を追放される事ばかり考えていたけど。——けれど、私、これでも海底の国のただ一人の王女なの。本当は、王配を得て、父王の後を継ぎ、武をもって海底を治める王となるべき立場。貴方とのために、捨てようとした立場だけれど、もし、もしも、許されるなら」


 そっと手を伸ばして、リュスロスの膝に置く。

 伝わる温もり。乾いた衣服のさらりとした手触り。足に触れるひんやりとした岩との明確な違い。陸は、すべてがヴェイルを剥いだように鮮やかだ。

 朱金の瞳が、エスリーアを捕らえて離さない。

 この、力強くも繊細な太陽の色は、きっと海底では青が混じって見えるだろう。それだけは、惜しいけれど。


「リュスロス、私の夫として、いずれは王配として、海底の国に一緒に来てくれない?」


 ——守るから、と言う暇などなかった。


「もちろん。願ってもないよ」


 海底の国について、エスリーアから聞き知っているとはいえ、陸とは隔絶した場所。なのにリュスロスは、あっけらかんとして即答した。


「王位継承のネチネチとした争いも、エスリーアがお嫁さんに来てくれるならちょっと頑張ろうかと思ったけど、そうじゃないなら、この国には、僕が留まる理由はなにもない。エスリーアと共に行くよ、海底の国へ」


 その時。

 恐ろしい地響きがして、沖の方で巨大な波が立ち上がるのが見えた。


「鯨が……どうして!」

「エスリーアに、付いてきたのかな?」


 陸に向かって壁のような波の上から迫る巨体は、自分がどこを向いているかもわからない様子で、我を失っている。


「何か、他者の魔力干渉を受けてるね。意志が奪われているのかも」

「そんなことも、わかるの?」


 それは、魔力に敏感だという表現で済む範疇だろうか。

 ふと浮かんだ疑問を掘り下げる余裕もなく、波は近づいてくる。地面が振動で縦に揺れ、浜を慌てた蟹たちが走っていく。

 海に飛び込んで槍を召喚しようとしたエスリーアの肩を掴んで、リュスロスは優美に朱金の髪を揺らして微笑んだ。


「僕は君の夫になる身だ。僕に守らせて? いい機会だから、魔術の本来の姿を見せてあげるよ」

「え……?」

「怖がらないでね」


 エスリーアの隣に、リュスロスが立つ。

 いつもより、その上背が大きいようなのは、気の所為だろうか。

 優美で繊細、武芸からは縁遠い細身の恋人は、王位継承から締め出されたハズレの王子。そう聞いていたし、疑うことなどなかった。

 けれどそれならば今、エスリーアが彼から感じる強大な気配は、なんだろう。


「ま、待って、なるべく怪我をさせないで」


 どうして、楽器すら置いて手ぶらの相手に、懇願するように言ったのだろう。その答えを、エスリーアの総毛立ったうなじは知っていたのかもしれない。


「承ったよ、僕の姫」


 歌うように言って。

 リュスロスは薄い掌から、細い魔力の複雑な塊を放った。

 それは空中高く上がると、一瞬で投網のように大きく広がる。いくつもの朱金に輝く紋様が互いに押し合うように展開し、宵の空を飾った。

 壮絶に美しい朱金のヴェイル。

 一瞬ののち、それは天から落ちるようにして巨鯨を包み込み。

 そしてかき消えた。

 幾重にも迫っていた波と、鯨の巨体に満ちていた狂気と破壊とを、根こそぎに奪い去って。


「……は。え?」


 過ぎ去った光は海の表面に、名残りの赤い色を残すのみ。

 いつの間にか夜に沈んだ海の上に、月明かりに照らされた鯨がぼんやりと浮かんでいる。


「なんだろうね、あの魔力。君を付け狙うようで、傷つけても構わないみたいな……。気に食わないよ。魔術と違って、本当に魔力は人間が透けて見える」

「リュ、リュスロス。今の……、今みたいな魔術を、陸の人は使えるの?」


 驚いて、目をまん丸にしたエスリーアに、リュスロスはふっと愉しげに笑った。


「どうかな。陸では僕ほど上手く魔術を使える人間はきっといないんじゃないかな?」


 それは、つまり?

 眉根を寄せたエスリーアを優しく引き寄せ、白い手に口づけたリュスロスは、懐中から取り出した布をエスリーアのむき出しの肩を隠すようにかけた。

 エスリーアの髪の色を映し取ったような、美しい布だ。夜の中で見れば、薄らと朱金の色も見えた気がした。


「これ、エスリーアの加護を願って贈ったのに、沖の方で流れていたから、綺麗にしておいたよ」

「まあ、失くしたと思っていたの。ありがとう。これ気に入っていたのよ」


 嬉しくて礼を言いながら、恋人の言葉の意味を考える。エスリーアが海底の国に行って留守にした数日間、リュスロスはもしかして、エスリーアを求めて沖の方まで海を魔力で探っていたのだろうか。それは途方もない広さではないだろうか。その範囲が、もし深さにも当てはまるなら……。


「海底の国、行こうか。エスリーアと一緒なら、僕はどこだって行くよ。エスリーアが国のために王になるというのなら、僕は、これ以上ない良い王配になる。やっと出会った、生きる意味なんだ」


 その、細く優美な立ち姿の背後から、月が静かにエスリーアに覚悟を問うた。


 リュスロスの朱金の髪が、仄青い光を帯びている。きっと海底ではこう見えると想像したように。

 青を重ねた朱金は、色を鈍らせはしない。かえってオーロラのように複雑な色味を発し、刻一刻と揺らめき神代の暁のように美しい。

 その光が眩いほどに、奥に揺蕩う闇が暗い。


 エスリーアは魅入られたように、その光と闇を見つめていた。

 か弱い恋人を、海の底で守るつもりだった。

 けれど恋人は、か弱くは、ないのかもしれない。むしろ。


 ふとつないだ手に掌を撫でられて、エスリーアの気がふわりと散った。男性にしては繊細な手指をしていても、エスリーアの手よりは大きく、意外に力強い。すっぽりと包まれた手は、今は神の槍も呼び出せそうにない。


「エスリーア、僕の姫。好きだよ。君と出会えたことは、この世界に感謝してる」


 じっと見つめられて、真摯に言葉を捧げられて、エスリーアの頬に血が上った。

 そうだ、この心の震えは、ときめきだ。

 守ろうと思った気持ち、そこまでしてでも一緒にいたいと思った心は変わらない。


「私もあなたが好きよ、リュスロス」


 手を握り返す。

 出会った時から変わらず、エスリーアはこの恋人が愛しい。愛しいから、絶対に守りたい。

 震える体から、力が漲る気がした。


 決意を込めて微笑んだエスリーアを包む美しい布が、先ほど空を覆ったより一層細かく綿密な朱金の紋様を一瞬閃かせて、すぐに消えた。

 リュスロスは朱金の瞳にエスリーアを閉じ込めて、満足げに頷くと、甘く優しく微笑み返した。



エスリーアの守りたいを感じて嬉しくてたまらないリュスロス。エスリーアが前向きな限りは真っ当な恋人同士です。


このあと海底で将軍とバチバチします。


カル(コロスコロスコロス)

リュ(さてこの脳筋シャチをどうしてくれよう)

エス(将軍いつもリュを独り占めしようとして、邪魔だわ)

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