0444.森に舞う魔獣
クルィーロが何事か把握するより先に体当たりで草地に転がされた。メドヴェージが頭上の枝に短剣を振るう。
「こンの野郎ッ!」
「……なッ……!」
赤い何かがひらひら動く。目に痛い程の鮮烈な赤。真紅の蛇が空を舞う。蝙蝠に似た皮膜で飛んで、メドヴェージの短剣を躱す。
……魔獣。
やっと認識できたが、半身を起こしただけで呆然と眺める。何も考えられない。頭の中は真っ白だ。
雨傘くらいの長さ太さの蛇が、蝙蝠の皮膜をはばたかせ、宙で身をくねらせる。真紅の魔獣……鮮紅の飛蛇は逃げるどころか、隙を突いて首を伸ばし、メドヴェージに喰らいつこうとする。大きく開いた口の中は暗紫色で、白い牙が木漏れ日に輝く。目立つ二本は毒牙だろうが、他は丸呑みの邪魔になるであろう立派な歯だ。
メドヴェージが後ろへ跳び退り、肉食獣を思わせる歯列が空を噛む。
「兄ちゃん、大丈夫かッ?」
「あ……えっ……」
言葉が出ない。立ち上がることもできず、メドヴェージの背を見上げた。
トラックの運転手が魔法の短剣を縦横に振るい、鮮紅の飛蛇を牽制する。
クルィーロは周囲を見回した。木立の間に切り株が点在する。ここも時々人の手が入るらしい。今は二人の他、人の姿はなかった。
魔獣もこの一体だけだ。
鳥や蝉が鳴りを潜め、メドヴェージの短剣が空を切る音と、草を踏みしめる音だけが聞こえる。
「兄ちゃん、魔法ッ!」
メドヴェージが鮮紅の飛蛇から目を逸らさず、短剣を振るいながら叫んだ。
急に言われても、何の術でどうすればいいか、全く思いつけない。
木の幹に縋り、何とか立ち上がった。膝が震え、立っていられない。
メドヴェージがじりじり後退する。空飛ぶ紅い蛇は鞭のように胴をしならせた。短剣が勢いよく振り抜かれる。何の抵抗もなく、皮膜が片方、切り裂かれた。真ん中辺りで横に切られた膜が、はばたきの度にめくれ上がり、蛇の高度が下がる。
動きが鈍った蛇型の魔獣めがけ、更に短剣が振るわれた。今度は胴に当たった。魔獣が後方へ飛ばされ、体勢を崩す。鱗に覆われた身は無傷だ。宙に浮くせいで勢いが殺されたらしい。
「ずらかるぞッ!」
メドヴェージが振り向きざま叫び、落ちた荷物を拾う。
返事もできないクルィーロは、震える足を励まし、どうにか道路へ向き直った。ほんの十メートルばかり先にアスファルトで舗装された車道が見える。
「走れッ!」
メドヴェージに肩を叩かれ、クルィーロは弾かれたように駆けだした。人の手が入った小道で、障害物は特にない。緑濃い木々が視界を圧迫し、ほんの少しの距離が絶望的に遠く感じられる。
短剣と荷物を持ったメドヴェージがクルィーロを追い越した。
「兄ちゃん、走れ、走れッ!」
叫びながら森の小道を駆け抜ける。その声に励まされ、クルィーロも足を前へ前へと動かした。
一足先に道路へ飛び出したメドヴェージが、短剣を振り回しながら手招きする。クルィーロ自身は走っているつもりだが、足は思うように動いてくれなった。気ばかり焦り、心臓が早鐘を打つ。
メドヴェージが何か叫び、荷物を放り出して森に飛び込んだ。クルィーロの横をすり抜け、背後に短剣を振るう。
鈍い音に振り向く間もなく、手首を掴まれた。半ば引きずられて森の外へ連れ出される。
日射しに炙られたアスファルトの熱気で一瞬、息が止まる。魔法のマントは、暑さ寒さを軽減してくれるが、吸い込む空気の暑さはどうにもならないらしい。頭の一部は妙に冷静で、そんなコトを考える。
へたり込みそうになるクルィーロの肩が勢いよく叩かれた。
「仕留められねぇ。拠点へ逃げるぞ」
クルィーロはどうにか頷き、素材の袋を拾った。メドヴェージに手を引かれ、笑いっぱなしの膝を何とか動かしてその場を離れる。恐ろしくて振り向けない。アスファルトだけを見詰め、機械的に足を前に出した。
時間の感覚がわからない。どのくらい経ったのか、長いような短いような時間の後、不意にメドヴェージが足を止めた。
不安に駆られ、クルィーロは顔を上げた。
メドヴェージは後ろではなく、前を険しい顔で見詰める。
何があるか聞きたいが、口がカラカラに乾き、かすれた吐息が漏れただけだ。
クルィーロも前方に目を凝らした。
……バス?
ゼルノー市でもよく見かけた大型の路線バスが近付いて来る。色柄は勿論、故郷で母が通勤に使ったものとは違うが、人間の存在に安堵した瞬間、膝から力が抜けてしまった。
「おっ、おいッ! 兄ちゃん、しっかりしろッ!」
メドヴェージが助け起こそうとした。クルィーロ自身、立ち上がって道の端に寄らなければと焦るが、足は他人になったように全く言うことを聞いてくれない。
バスがゆるゆる速度を落とし、二人の数メートル手前で止まる。前部扉が開き、運転手がマイクで叫んだ。
「早く乗れッ! 後ろッ! 魔獣だッ!」
メドヴェージがギョッとして振り向き、息を呑む。運転手が降りてクルィーロに肩を貸す。メドヴェージが「すまねぇ」と会釈し、二人掛かりでクルィーロを車内に運んだ。
運転席に戻った運転手が扉を閉める。クルィーロとメドヴェージはバスの床にへたり込んだ。フロントガラス越しに、鮮紅の飛蛇が暗灰色の道を這って来るのが見える。
アクセルを踏み込んだ。切り裂かれた皮膜を引きずる蛇型の魔獣との距離が一気に縮まる。道の真ん中に居た魔獣は、バスに轢かれず、車体の下を這って行った。
運転手は、余計に止まった分の遅れを取り戻そうとするのか、どんどん速度を上げる。無人のバス停や港の廃墟を無言で通過した。
「運ちゃん、すまねぇ。お陰で命拾いした。申し訳ねぇんだが、俺ら無一文なんだ」
カーブを曲がり、遠目に街が見えてくる頃、メドヴェージが心底、申し訳なさそうに頭を下げた。やっと自体の深刻さに気付き、クルィーロの額を冷や汗が伝う。
……バス代……いや、これ、どうやって帰りゃいいんだ?
バックミラーに映る運転手の目が笑う。
「なぁに、人助けできて嬉しいぜ。戦争がおっぱじまってから空気ばっか運んでてな、張り合いがなかったんだ」
「あぁ、あんたぁ命の恩人だ。バス賃にもなりゃしねぇだろうけどよ、香草茶にする用の草だったらあるんだ。もらってくんねぇか?」
「俺、魔法使えねぇから、薬草だけもらってもしょうがねぇ。気持ちだけもらっとくぞ」
メドヴェージは、摘みたての香草が詰まったビニール袋をクルィーロの袋から取り出して、首を横に振った。
「こいつぁ、水抜きだけで使える。……兄ちゃん、そろそろ落ち着いたか?」
メドヴェージが香草の袋をクルィーロに握らせ、自分の袋から水筒を取り出す。
……香草茶……あ、そうか。
クルィーロは震える手で、捻って止めただけの袋の口を開き、草の香気を胸いっぱいに吸い込んだ。数秒、息を止めて、ゆっくりと吐き出すと動悸が治まった。手の震えも落ち着く。メドヴェージに差し出された水筒の蓋を普通に受け取れた。水を飲み干して一息つく。口がちゃんと動くようになった。
「いえ……あの……すごく助かりました。有難うございます。せめてお礼させて下さい」
クルィーロはやっと礼を言えた。
「そうかい? でも、あんたたちゃ、そいつを採りに行って襲われたんじゃねぇのか? 命懸けで採ったもん、寄越せなんて言えねぇよ」
「いやいや、だからこそ、命の恩人の運ちゃんに受け取ってもらいてぇんだ」
メドヴェージとバスの運転手が押し問答する間に、クルィーロは【操水】の呪文を唱え、一袋分の香草を水抜きした。術がきちんと発動し、香草から抜き取った水分が宙を流れ、水筒の蓋に移る。メドヴェージが受け取り、喉を潤した。




