0382.腥風樹の被害
ファーキルは、ズボンのポケットに【魔力の水晶】を幾つも詰めた小袋、ハンカチ、地図を入れた。タブレット端末に重ねて書き写したランテルナ島の地図だ。
主要道路の地図を出し、影の向きで方角を確めて、島の外周を巡る車道を南へ歩く。右手は青々と茂る森、左手の水平線上には島影が揺らいで見えた。
……影の向きがこうだから、フナリス群島だな。
ラキュス湖に目を向ける。隣を歩く呪医もつられて、穏やかにきらめく水面を見た。女神パニセア・ユニ・フローラの涙は、人間の戦争とは無関係に夏の日射しを受け、水晶の破片をちりばめたような光を湛える。
ラクリマリス王国による湖上封鎖で、船影はひとつもなかった。
顎紐をしっかり締めた蔓草の帽子が煽られる。湖の風は涼しいが、アスファルトの照り返しがファーキルをじりじり炙った。
「今から行くのは、どんな街なのですか?」
「地上はカルダフストヴォー市で、普通の住宅街と商店街とかあって、かなり広くて、建物は魔法で守られてますけど、電気とインターネットも使えるとこが多いです」
「ゼルノー市に似てるんですね。……地上は……と言うことは、地下街もあるのですね?」
「はい。地下は、お店とかが多いチェルノクニージニクって言う別の街です」
「無事だったのですか」
「えっ?」
ファーキルは思わず足を止めて呪医を見た。怪訝な顔で少年を見る呪医は、魔法の白衣のお陰で汗ひとつかいていない。
「私が知る旧王国時代の街は、チェルノクニージニクです。地上は畑で、地下が街でした」
長命人種の呪医は前を向いて歩き始めた。ファーキルも再び足を進めながら、呪医セプテントリオーの話に耳を傾ける。
「当時、この島には恐ろしい植物が生えていたので、人々は主に地下で暮らしたのですよ」
「恐ろしい……植物?」
「異界からこの世に迷い込んだモノです。樹液などに強い毒があって、この世の鳥や動物、虫などは、近付くだけで死んでしまいました」
「それって……焼いたりとかは?」
「毒の成分が煙に混じって拡散して、大勢亡くなりました」
ファーキルは絶句したが、辛うじて立ち止まらず、歩みを進めた。
中学生のファーキルが簡単に思いつく対策は、とっくの昔に試されて、最悪の結果をもたらしたのだ。呪医の声は翳ったが、愚かな少年を咎める気配はない。
蔓草細工の帽子が、二人の顔に濃い影を落とす。緑色の髪をなびかせ、呪医セプテントリオーは昔語りを続けた。
「ある程度太い根が残ればそこから再生し、硬く厚い殻に覆われた種子は、火に焼ても数日間は持ち堪えました」
「えっ……そんなのって……今……今は、もう生えてないんですよね?」
質問する声が震える。ファーキルは、景色が灰色になった気がした。
「はい。共和制に移行する少し前に全て駆除されました」
呪医は遠くを見る目をして、人間と植物の戦いを語る。
その植物――腥風樹は、春から秋にかけての日中、条件のいい土地を求めて土中から根を抜き、移動する。そこを遠距離から氷の術で凍結させ、砕いて皮袋に詰める。厳重に結界を敷いた上で【日輪の端】で焼き払い、或いは【送還】の術で異界へ送り返した。
「えっ……? 焼くの、ダメなんじゃ?」
「数百度程度の低温の炎では、毒の煙が出ましたが、流石に太陽の表面を借りて来る術では、毒も燃え尽きましたよ」
「それって、呪医も使えるんですか?」
「いいえ。私では到底、魔力が足りません」
湖の民の呪医は苦笑した。
「王族にお出まし願って、焼き払っていただきました」
ゴミ焼却もそうだ。
八百度以下の焼却炉ではダイオキシン類が発生し、煙に混じって周辺に拡散してしまう。高温炉なら発生を抑えられるが、炉の耐熱性向上には莫大な費用が掛かる為、たくさんは設置できないのだ。
「春に花が咲いて、その香りにも毒がありましたし、散った花弁の回収や、秋は落葉を集めるのも一苦労でしたよ」
「箒で集めるの、ムリそうですもんね」
「えぇ。【操水】で集めると水が汚染されます。汚染水をそのまま捨てると、廃棄場所のこの世の植物が枯れて、それを燃やすとまた毒の煙が」
「えっ? それってどうやって片付けたんですか?」
「上手な人が【操水】で集めて、溶け込んだ毒の成分も落ち葉と一緒に皮袋に捨てて……後は本体と同じですが、何せ、大変でしたね」
腥風樹がランテルナ島に生えて以来、人々は千年以上に亘ってこの忌々しい異界の植物と戦い続けた。命懸けの研究によって、少しずつ対策が編み出された。
腥風樹が来た土地は降雨後、毒の成分が土に染み込んで周辺の植物が枯死する。ミミズなども死滅し、土が痩せた。
畑に侵入されぬよう、厳重に結界を施すが、維持が大変な上、花の香りや落葉の欠片までは防げない。
移動が土の地面に限られるとわかったのは、腥風樹が南北のヴィエートフィ大橋を渡れないと、橋の警備兵が気付いたからだ。以後、畑の周囲には十メートル幅の石畳が敷かれた。
凍結と高温での焼却なら安全だとわかってからは、飛躍的に駆除が進んだ。
「それでも、三百年くらい掛かりましたけどね。種子は赤くてドングリくらいの大きさなのですが、毒がないので、リスなどが埋めてしまって」
「うわぁ……それって、もう居ないんですよね?」
「えぇ。それに、また生えてきたら、地上の街は大変なことになっていますよ。あれのせいで、この島にあった街や村は、住まいを地下に移したチェルノクニージニク以外、全て滅びたのですから」
呪医セプテントリオーの昔語りに、ファーキルは言葉を失った。




