3495.官邸での入浴
ミェーフ大統領はアーテル共和国の大統領官邸に入ってすぐ、警護官の一団と別れた。ランテルナ島出身の魔獣駆除業者に扮したシポーブニク大佐による警護は、ここまでだ。
アーテル人の男性警護官が二名だけ残る。
ミェーフ大統領は、鞄を執務室に置くと、手ぶらで早足に廊下を歩いた。
魔道具で姿を消したラキュス・ラクリマリス王国軍の二人もついてゆく。
大統領警護官の二人は、脱衣所の扉前で待機するが、ラゾールニク少佐と魔装兵ルベルは、ミェーフ大統領と一緒に入った。
大統領が服を脱ぐ間、少佐が先行して浴室に入り、中の安全を確認する。
壁と床にタイルが敷き詰められた小部屋で、湯を満たした大きな陶器が置いてある。大人が一人横たわって入れる大きさだ。
これが間取図で見た「風呂場」と言う部屋なのだろう。
天井は漆喰で、換気口と蓋の閉まった点検口が見えた。
……点検口から降りて来られたら厄介だな。
ルベルは【索敵】を唱え掛けたが、声を出す寸前で思い留まった。【姿隠し】の腕輪で隠れるのは姿だけで、声は聞こえるのだ。
警護官がどこかへ行き、脱衣所前の扉脇にはアーテル軍の警備兵二名が立つ。
ラゾールニク少佐が、手振りでルベルをこの場に留める。
魔装兵ルベルは、戦闘服姿のラゾールニク少佐が、全裸のミェーフ大統領の後に続いて浴室に入るのを呆然と見送った。
脱衣所での警備を任され、浴室のすりガラスの扉を背に廊下側を向いて立つ。
ラキュス・ラクリマリス王国軍の二人は、【姿隠し】の腕輪で見えないので、声や物音を立てない限り気付かれる心配はないが、気マズいことこの上ない。
背後から水音は聞こえるが、【操水】を唱える声はない。
アーテル共和国のミェーフ大統領は、力なき陸の民で、キルクルス教徒なのだ。
ルベルは、力なき民がどうやって身体を洗うか知らないことに気付いた。服を全部脱ぐと知ったのも、たった今だ。
……プライバシーとかないんだな。
仕方のないこととは言え、ルベルは何とも言えない気持ちで、脱いだ服が入った籠に視線を落とした。
一番上にタブレット端末が置いてある。
……あれっ? もしかして、トイレもついて行くとか?
更に気マズさが増したが、任務なので仕方がない。
ルベルは、外交上の理由だけでなく、本人の尊厳的な意味でも、ミェーフ大統領に護衛の存在を覚られないよう、気持ちを新たにした。
アーテル共和国の大統領官邸では、脱衣所の他、玄関、階段の踊り場、廊下の曲がり角、トイレや食堂、寝室前など、至る所に警備のアーテル兵が立つ。
警備兵は、浴室にまではついて来なかった。だが、天井の点検口から侵入可能である以上、ここが最も無防備な場所だ。
脱衣所には、ラキュス・ラクリマリス王国軍の魔装兵ルベル、浴室内には上官のラゾールニク少佐が入って、密かに警護する。二人とも【姿隠し】の腕輪で見えないが、ルベルは音を立てないよう、息を殺して待つ。
脱いだ服の上に置かれたタブレット端末が、何度もメールの着信で震えた。
先程目にしたミェーフ大統領は、貧相な体格だった。アーテル共和国は、魔哮砲戦争を起こしたせいで食糧難に陥り、実家が裕福で、立場上も会食が多い大統領でさえ、アバラが浮く。
貧しい国民は、バルバツム連邦やキルクルス教団からの食料援助がなければ、たちまち大勢が飢餓で命を落とすだろう。
……満足に食べられない人が多いのに……それでも、反対するなんて。
ラキュス・ラクリマリス王国とアーテル共和国の国家再統合に反対するのは、主に星の標と富裕層だ。星の標は全土に散らばるようだが、富裕層は、水害の影響を受けなかった南部在住が多い。
北部在住の中流から貧困層の大半は、国家再統合に賛成だ。
ミェーフ大統領は、国家再統合を公約に掲げて三期目の大統領選に臨む。普通に考えれば、当選は確実だろう。だが、当選直後に暗殺されたヒュムヌス前大統領の例もある。
ルベルたちがミェーフ大統領を警護するのは大統領選の投票日までだが、国家再統合が実現する日まで、一日たりとも気を抜けなかった。
一時間ばかり経って、ミェーフ大統領がびしょ濡れで浴室から出て来た。戦闘服姿のラゾールニク少佐も出てきたが、こちらは全く濡れていない。
脱衣所で大判のタオルを手に取り、濡れた髪を念入りに拭く。
……【操水】なら服と身体を同時に洗えるし、水気を切るのもすぐなのに。
魔装兵ルベルは、力なき民の暮らしの不便さを目の当たりにして、遠い目になった。入浴に一時間も掛けるのは時間の無駄だと思う。
ミェーフ大統領は、タオルを何枚も換えて髪と身体の水気を拭き取ると、籠から出した新しい下着と寝間着を身に着けた。
タブレット端末を手に取り、背広の上下、ネクタイを腕に引っ掛けて脱衣所を出る。
一日身に着けたYシャツと肌着は脱衣籠に置いたままだ。
これも、ルベルにはよくわからない。
もしかすると、明日、係員が出勤してから洗うのかもしれないが、汗などで汚れた衣服を一晩寝かせるのは如何なものかと思った。
ラゾールニク少佐に手振りで促され、魔装兵ルベルはミェーフ大統領に続いて脱衣所を出た。
脱衣所の扉前に立つアーテル軍の警備兵が敬礼する。大統領は会釈して寝室に向かった。




