0295.潜伏する議員
ラクエウス議員は、自分の中の新たな可能性に驚くと同時に呆れた。
クラピーフニク議員の支持者スニェーグ氏の案内で、リャビーナ市内にある別の支持者宅を訪れた。部屋に通されると、待ち構えた女性たちに取り囲まれ、あっという間にもみくちゃにされた。
「ラクエウス先生、さ、終わりましたよ」
女性の一人が手鏡を差し出す。
映ったのは、九十歳を越える老議員ではなく、老婦人の顔だった。
化粧で皺が薄くなり、肌には艶が加わって血色よく見える。皺に囲まれた唇は潤いを湛えて瑞々しい。かつらは白髪だが、ゆるやかな巻き毛が頭と頬をふんわり覆い、華やかに見せる。
姉のクフシーンカに似るが、実際の年齢よりずっと若く見えた。
……儂……なのか?
自分でも目を疑う別人ぶりだ。
服は、若草色の地に白い小花を散らした古風なワンピース。パフスリーブの膨らみが、男性らしいがっしりした肩幅を誤魔化してくれる。濃紺のタイツがスネ毛を隠した。
老議員を変装させた女性陣は、満足げに頷き、互いの健闘を讃え合う。
「みなさん、流石ですね。黙ってれば、誰もこのご婦人をラクエウス先生だなんて思いませんよ」
ピアノ奏者のスニェーグが、半ば呆れた声で彼女らの技術を褒めた。彼女らは、その言葉をくすくす笑って受け取る。
「ラクエウス先生、コンサートの日は、私がずっとお傍に居ります。何でも小さい声でおっしゃって下さいね」
五十代後半から六十代前半と思しき女性が歩み出た。
胸元では、鷦鷯を象った銀のペンダントが揺れる。
歌手ニプトラ・ネウマエと同じ【歌う鷦鷯】学派の術者だ。
そして、あの日、議員宿舎に曲を聴きに来た女性だった。
「コンサートは毎週一回、週末にあります。それ以外はウチでお過ごし下さい」
スニェーグに言われ、ラクエウス議員はまだ夢でも見るような心地で頷いた。
「先生、急な話で恐れ入りますが、後二時間程で開演なんです」
支援を申し出た女性が申し訳なさそうに言う。
ラクエウスは、それには大して驚かず聞いた。
「儂はどうすればいいかね? 何か手伝えることは」
「一度、合わせ練習に参加していただいて、本番でも一曲だけ、お願いできますか?」
「いいのかね? いきなり」
「勿論です。先生に教えていただいた曲ですから」
プログラムを渡され、老眼鏡を掛けた。半分は知らない曲だ。
「国民健康体操……また随分、懐かしい曲を」
思わず呟きが漏れる。スニェーグが、楽譜を寄越しながら言った。
「平和だった時代を思い出せるように、旧王国時代から現代まで幅広く入れてあるんですよ」
「では、この……『聖歌メドレー』と言うのは?」
我知らず渋面になる。
リャビーナ市民楽団の団員に緊張が走った。ピアノ奏者のスニェーグが、困ったような微笑を浮かべ、穏やかな声で解説する。
「旧王国時代に編曲されたものです。フラクシヌス教の各宗派の代表曲だけでなく、キルクルス教の聖歌も入っていますよ」
「何ッ?」
「冒涜だと感じますか?」
「いや……しかし、何故?」
ラクエウスが何とか声を絞り出すと、スニェーグは遠くを見る目で言った。
「旧王国時代には、神々の祝日と言う祭日があったそうです」
「神々の祝日?」
初耳だ。音楽史の授業でも習わなかった。
スニェーグが説明を続ける。
「領内で信仰される全ての神々を讃える祭だったそうです」
「そんなことが……」
できるのか、と言い掛け、言葉を飲み込む。
できたのだろう。旧ラキュス・ラクリマリス王国時代には、一神教のキルクルス教徒も、折り合いを付けて参加したのだろう。
その後のラキュス・ラクリマリス共和国時代に生まれたラクエウス自身、子供の頃はフラクシヌス教徒の子供たちと一緒に遊んだ。
ラクエウスの姉クフシーンカの親友姉妹は、力ある民でフラクシヌス教徒だ。
姉と同い年のフリザンテーマはキルクルス教徒と結婚し、内乱後はリストヴァー自治区へ移住した。
幼いラクエウスが、竪琴の才能を見出されて寄宿学校に入った後、年の離れたカリンドゥラがどこでどう暮らしたか、全く聞かなかった。
姉弟は、フリザンテーマがフラクシヌス教徒の魔女だと知られぬよう、彼女ら一家との交流を殆ど絶った。
音楽家として、政治家として、顔の広いラクエウスと交流を続ければ、その人脈の中にフリザンテーマを知る者が居る可能性があった。
ラクエウス議員の留守中、姉のクフシーンカは、何度か親友を自宅へ招いたようだ。彼女の死後も、孫娘を針子として雇うが、ラクエウスは見て見ぬ振りで通す。
……あの娘は、大火から逃れられたろうか?
「あの……先生、ご無理でしたら、このコンサートには」
スニェーグの気遣わしげな声で顔を上げた。
楽団員たちも、物思いに耽って沈黙するラクエウスに不安な眼差しを向ける。
「いや、気にせんでくれ。子供の時分を思い出しておったのだよ。儂はその後の共和国時代の生まれだが、フラクシヌス教徒の子とも仲良く遊んだし、学校も、信仰に関係なく、共に机を並べておった。それに」
「それに?」
「卒業後すぐ、ラキュス・ラクリマリス交響楽団の一員として、様々な曲を奏でた。呪歌のアレンジも、フラクシヌス教の祭日には聖歌も」
楽団員たちの目が、驚きに見開かれる。
ラクエウス議員は、楽団時代の思い出を語った。
「フラクシヌス教徒の団員たちも、キルクルス教の祭日には、我らが聖者を讃える聖歌を奏でてくれた。民族自決の思想が広まる前までは、な」
語る内に記憶が鮮やかに甦り、声が震えた。
団長は、まだ十六歳のラクエウス……当時はハルパトールと呼ばれた新人の信仰と気持ちを尊重してくれた。
「イヤなら、無理をせずともよい」
それは、“イヤなら楽団を辞めろ”との脅しではなく、全ての団員に向けられた思いやりだ。
その気持ちに支えられて、ラクエウスは自らの信仰に折り合いを付け、呪歌のアレンジ「この大空をみつめて」も、その他の曲も、誠実に奏でられた。
「すべての壁を取り払い、人々の心をひとつにできる。それが、音楽の力だと思うのです。微力ではありますが、この老いぼれの力、お使いいただけましたら幸いに存じます」
その言葉で笑顔が広がり、拍手が湧き起こる。
ラクエウスは、寄宿学校時代の気持ちに戻り、深々とお辞儀で応えた。




