0276.区画整理事業
埃っぽい風に排ガスが混じる。
リストヴァー自治区の仕立屋クフシーンカは、杖に縋り、シーニー緑地から工事を見守る。
アルトン・ガザ大陸のキルクルス教徒から寄付が集まったとかで、区画整理事業が一気に加速したのだ。
ネモラリス島にある首都クレーヴェルとは連絡がつかないのに、どうしたことかと老女は訝しんだ。
その理由は、会合の席で酒屋の店長が鼻高々に語った。
インターネットとか言う通信網がある。
この十年程で、両輪の国から訪れる巡礼者用にラクリマリス王国領全土でも、整備された。
それは無線通信で、ネーニア島の東西の端なら、クブルム山脈を挟んでもギリギリで電波が届くらしい。
この戦争が始まる少し前、酒屋の店長は、幾つもの国を経由させてラニスタ共和国から通信機器を密輸し、区長に高値で売り付けた。
月々の利用料が掛かるらしいが、それはラニスタ共和国の「星の標」団員が立て替えてくれる。
区長はそれを使って、キルクルス教団本部に支援を求めた。
教団本部は、遠くアルトン・ガザ大陸北部のバンクシア共和国にあるが、これを使えば、瞬時に連絡できると言う。そうして集まった資金を基に中立国のアミトスチグマ王国経由で、資材や重機などが届けられた。
区長や工場長たちは、欲を言えば、魔道機船のような穢らわしい手段で運ばれた物資は受け取りたくないが、背に腹は代えられない。この際、やむを得ないなどと言う。
沿岸部に湖水の淡水化プラントが三基、増設されつつあった。
既存の工場を避けて下水処理場も建設中だ。それらを起点に道路が再編された。
上水道管と雨水管、下水道管の埋設を終えた道路から順にアスファルトが敷かれる。車道の両脇には、コンクリートで側溝と歩道が整備された。
元々大した物がなく、焼け残った瓦礫もほぼない。
古いアスファルトが撤去され、僅かな瓦礫と共に自治区の北側、ゼルノー市との境界付近に積み上げられた。
焼けた土地が測量、区画整理され、杭とロープが巡らされる。
教会の再建も急ピッチで進めむ。聖職者たちは団地地区に住居があり、誰一人として欠けず、今は教区で発生した孤児の養子縁組などに奔走する。
シーニー緑地の手前には、鉄筋コンクリートの集合住宅、その東には木造モルタルの平屋建てアパートが建てられた。集合住宅はまだ建設中で、焼け出された労働者が大勢、忙しく働く。
物件の所有者は、自治区外に本社を置く大企業や、自治区西部の豪農、団地地区の富裕層などだ。
アパートは何棟か完成し、既に入居も済んだ。
バラックの住居は焼失したが、工場の夜勤に出て助かった人々だ。クフシーンカが雇った針子のアミエーラのような「バラック地帯在住で団地地区勤務」の生き残りも入居する。
職があり、家賃を滞りなく払える者が、優先的に入居させてもらえた。
その東には、プレハブの仮設住宅が並ぶ。
一棟に十平方メートル弱の小部屋が十室。どの部屋にも、電気や水道の設備はない。こちらはすぐ完成し、生命の他は全てを失った人々が収容された。
アパートと仮設住宅の入居者には、薄っぺらな毛布が一人一枚ずつ支給された。教団本部からの寄付だ。
バラック街の住人にとって、仮設住宅は「広くて立派な部屋」で、本当にこんないい部屋に住んでもいいのかと、喜びより驚きと不安の声の方が大きかった。
以前は、トタン板やコンクリートブロックで作ったバラック小屋に住み、蔓草で編んだ敷物や段ボール、古新聞やボロ布に包まって眠る者が大半だった。
整地された空き地と、整然と並ぶプレハブ住宅とアパート群。少し立派な共同住宅の建設現場。ゴミ溜め同然だったバラック街が、見違えるように立派な街に生まれ変わりつつある。
仮設住宅とアパートには、一棟に対して、男女別で三基ずつ共同トイレが用意され、建設現場にも仮設トイレが用意された。いずれも汲み取り式だが、街の悪臭は激減した。
ゴミ捨て場も、各建物の脇に一カ所ずつ用意され、可燃物と不燃物、瓶、缶を分別回収できるよう、ゴミ箱が置いてある。
まだキレイなゴミ捨て場には、一匹の雑妖も視えなかった。
少し東の空き地には、大きなテントが何張りもある。
煤と垢に塗れた住人が新しい住居を汚さないよう、ここで身体を清潔にさせる為に公衆浴場が設置された。
テントは男女別で、区役所の職員が中でドラム缶に湯を沸かし、新品のタオルを二枚ずつ配布した。一枚は濡らして身体を拭き、もう一枚は残った水滴を拭き取る為のものだ。
更に、一人一組ずつ新しい肌着まで与えられた。
現在、入居ラッシュは落ち着いたが、週一回、日曜の午後には湯が沸かされる。
区役所の職員が各戸を巡回し、身体を拭きに来るよう衛生指導した。
リストヴァー自治区……特にバラック街の若い世代は、身体を清潔に保つ意味と重要性を知らなかった。
元バラック街の住人は、大部分が着替えなど持っておらず、洗濯の仕方も知らない。役所はテント内に手桶の他、洗濯板と洗い桶も用意して洗濯も指導する。
人々は当初、淡水化プラントで浄化したキレイな水で、身体や衣服を洗うことに難色を示したが、今ではすっかり慣れたようだ。
女性たちは喜んで役所の指導に従い、中には洗濯を面倒がる男性の分を引受け、収入を得る者も現れた。
それらの排水は全て側溝に流され、住宅街には全く流入しない。
以前は、少しでも雨が降ろうものなら、バラックの隙間を縫う通路がぬかるみ、雨漏りが床を濡らし、床材もない住居は地面と同じにぬかるんだ。
その辺に放置された吐瀉物や排泄物も、雨水に溶け込んで流れ込み、酷い状態になるのが当たり前だった。
仮設住宅とアパートには、鉄格子付きのガラス窓がある。淡い色のカーテンも取り付けられ、人々は小学校の窓みたいだと喜ぶ。
ほんの数カ月前までは、窓のないバラックが密集し、殆ど日の射さない中で暮らした。
今では、隙間風と雨漏り、浸水に悩まされることなく、明るく清潔な部屋で暮らせる。
復興特需で、建設現場などの仕事も多い。洗濯代行など、新しい仕事を創り出した者も居る。
緑地から見下ろす街は、見違えたように明るい。
生命以外、何もかもを失った人々は、新たな暮らしに希望を見出し、悲しみから立ち直りつつあった。
……それでも、星の標がしたことは、決して許されることではないけれど。
街の物理的な汚れが一掃され、雑妖の発生が大幅に減り、今のところ魔物も居ない。以前なら、雑妖を視ない日はなく、毎晩どこかで魔物の犠牲者が発生した。
食糧も大量の寄付があり、充分に行き渡った。それでも、干した肌着やタオルが盗まれるのは日常茶飯事で、治安の面ではまだまだだ。
クフシーンカは遠く、東の沿岸部へ視線を転じた。
火災を免れた工場はどこもフル稼働する。焼失した跡地には、太陽光パネルが設置され、各工場に電力を供給した。ほぼ、自治区の有力者たちが描いた青写真通りに事が運ぶ。
南端に目を向けると、車道が防火帯となって延焼を免れたバラック街が、殊更みすぼらしく映った。
ここも、アパートなどが完成すれば、住人を立ち退かせて取り壊される。
小学校は校庭に仮設校舎を置き、本校舎は再建中だ。今年中に完成するだろう。
子供の多くが逃げ遅れ、児童、生徒は以前の十分の一以下に減ったと聞いた。生き残りの半数以上が孤児だ。
仕立屋の店長クフシーンカは、リストヴァー自治区の未来を思うと、手放しでは喜べなかった。
……ハルパトールがこれを見たら、何というかしらね。
クフシーンカは、国会議員として働く弟を思い、北東の空を見上げた。




