0266.初めての授業
「先生、よろしくお願いします」
「私は遅くとも、六月半ばには旅に出ます。短い間ですが、こちらこそよろしくお願いします」
薬師アウェッラーナは、七人の薬師候補生を前に緊張した。
女性四人、男性三人。みんな勉強熱心そうだ。
女子学生一人が湖の民で、後は力ある陸の民。外見は十代後半から二十代前半だが、実年齢はわからない。
アウェッラーナ自身、外見年齢は中学生のピナティフィダとそう違わないが、半世紀の内乱中に生まれ、そろそろ六十に手が届く長命人種だ。
内乱時代に何人もの医療者から、系統の異なる医療系の術を断片的に教わり、平和になってから改めて大学へ通った。
働きながら夜間大学に通ったが、主な目的は、バラバラに教わった知識をきちんと整理して理解を深める為だ。
彼らのように白紙の状態で学んだのではない。
幼いアウェッラーナは、生命の危機に晒される中で術を教わった。
空襲を避ける防空壕の中で、いつ地上部隊が来るとも知れない焼け跡で、死の臭いを嗅ぎつけた魔物が跋扈する廃墟の街で――習い覚えたばかりの覚束ない術で、一刻を争う治療を手伝わされた。
術を覚えても素材がなく、魔法薬を作れない状況は多い。
数えきれない遺族から、治療できないことを詰られた。それでも、癒しの術が使えなれば、家族や近所の人は誰も助からず、アウェッラーナも生き延びられなかっただろう。
今、この部屋には山程、魔法薬の素材がある。
ラクリマリス王国は平和そのものだ。
湖の民アウェッラーナは、炎に蹂躙される街の記憶を頭の隅へ追いやった。
……まぁ、教科書はあるって言ってたし、実演を見せるだけでいいよね。
ロークが、作業台に薬草の束と油壺、完成した傷薬を入れる小さな壺を並べてくれた。学生たちは正面に立ち、メモ帳を手に緊張した顔で講師の次の動きを待つ。
「今から作るのは、傷薬です。薬草は生でも乾物でも構いません。虫綿は取っておいて、根っこと枯葉は捨てて下さい」
「どうしてですか?」
早速、黒髪の女子生徒から質問が出た。
「根と枯葉は薬になりません。ゴミです。虫綿は、咳止めの薬になるからです」
「有難うございます」
アウセラートルが臨時講師をどう紹介したのか、学生たちはとても礼儀正しい。
アウェッラーナは薬草の束を手に取り、呪文を唱えた。
「元は根を張る仲間たち 土に根を張る仲間たち
油ゆらゆら たゆたい馴染め……」
もう何千、何万回も作った薬だ。
じっと見詰められて緊張しても、術は間違いなく発動した。瓶から植物油が起ち上がり、宙を漂う。薬草を油に挿し、いつもよりゆっくり続きを唱えた。
「……緑の仲間と生命結い 溶け合い結ぶ生命の緒
基はひとつの生命の根 結び留めよ 現世の内に」
薬草が形を失い、植物油に溶け込む。ふたつの霊的性質を結合させ、全く別の存在に作り変えた。
緑の液体を壺に注いで完成。術の支配から解放されると、緑の液は粘度の高い軟膏になった。
「えーっと、油の量は容器の大きさに合わせて下さい。慣れない内は、先に量った方がいいでしょうね」
「薬草の量はどうすればいいですか?」
金髪の男子学生からも質問が出る。
「勿論、油の量に合わせて下さい。この大きさの壺なら、十回分の量で薬草は五本です」
「量を合わせなかったら、どうなるんですか?」
「足りないと薬効が弱くなります。多いと溶け切りません」
そんな遣り取りをする横で、ロークが壺に蓋をした。
正方形の油紙を蓋の口に沿わせ、細い麻紐で括る。片手で引っ張れば簡単に解ける結び方だ。今朝、学生が来る前に二人で一時間ばかり作業して、今は難なくできるようになった。
「みなさんは、もう【傷薬】の呪文を覚えましたか?」
学生が全員、申し訳なさそうに首を振る。
アウェッラーナは教科書を見なかった。見れば、彼らの教育に深入りしてしまいそうだ。
……アウセラートルさんは自習できるみたいに言ってたし、そこまで面倒みなくていいよね。
「じゃあ、明後日までに覚えて下さい。実践もした方がいいので」
学生たちは戸惑いながらも、小さく頷いた。互いに目配せする顔には、焦りと緊張が溢れる。
薬師アウェッラーナは構わず続けた。こちらには時間がないのだ。
「今日は私の実演をしっかり見て、魔力の流れと強さ、薬草を追加する段階などを覚えて下さい」
そこで言葉を切って学生を見回す。七人は肩に力を入れてこくりと頷いた。
学生の都合に合わせてはいられない。
「明日は各自、自習して呪文を覚えて来て下さい」
アウェッラーナは有無を言わさず、どんどん傷薬を作り、ロークがせっせと蓋をして木箱に詰める。
学生たちはメモを取りながら真剣に作業を見詰めた。
プロの薬師は、一瞬たりとも見逃すまいとする七つの視線に晒されながら、ひたすら緑色の軟膏を作り続ける。
やがて、アウェッラーナは学生の存在を忘れ、術に没入した。
瓶の油と手元の薬草が尽きれば、ロークがそっと瓶を入れ替え、束を追加する。切れ目なく流れ作業で作り出される傷薬に、学生たちは瞬きも忘れて見入った。
アウェッラーナは遠慮なく【魔力の水晶】を使い、休みなく同じ術を繰り返す。
昼前には壺七十個余り、七百回分以上の傷薬が完成した。
……説明の時間も入れて、これだけか。
アウェッラーナは頭の中でざっと計算した。余程のことがない限り、四、五日でできそうだ。
学生たちの食事は別に用意されるらしく、作業部屋の前で一旦別れた。
薬師アウェッラーナとロークは、大食堂でいつものみんなと食卓を囲む。
他のみんなは今日、製菓と蔓草細工に分かれて作業した。
パン屋の兄妹が厨房の様子を語る。
スヴェチーニク家は専門の菓子職人を抱えるが、今朝は取敢えず、他の使用人たちが基本を教えてくれた。
「今日のおやつは俺たちが作らせてもらったんだ」
「へぇー、どんなの?」
レノ店長が少し照れ笑いを浮かべ、幼馴染のクルィーロが興味津々で聞いた。エランティスが、答えようとする兄を手振りで制した。
「内緒。食べる時のお楽しみ」
「ははは。そうか。お茶の時間が待ち遠しいな」
クルィーロの明るい声にみんなもつられて笑う。
……ここに居る時間が延びて、よかったのかもね。
早くネモラリス島へ渡りたいが、戦争はまだ終わらない。空襲が少なかったとは言え、あの島も無傷ではなかった。
何よりも、人の心が荒んだだろう。
ここしばらくは忙しく、ラジオのニュースを聞く暇もなかった。クブルム山脈の向こう側がどうなったか、目と鼻の先なのにわからない。
プラエテルミッサのみんなは、何もかもを失い、心に大きな傷を負った。
たった二カ月や三カ月で癒える筈がない。この安全な場所で、もう少し休息した方がよさそうだ。
昼食後、薬師アウェッラーナは学生の質問を少し受け、作業を再開した。昼食後の空き時間に教科書を読んだのか、質問がより専門的になった。
学生たちは、小声で力ある言葉を唱えながら作業を見守る。何度も聞いて少しは覚えられたらしい。
間で幾つか質問を受けた他は、お茶の時間まで延々同じ作業を繰り返し、実演した。ここまでの完成品は百個と少し。ノルマは膨大だが、順調だ。
「お茶は、学生さんもご一緒にどうぞ」
呼びに来た使用人の言葉で、アウェッラーナはすかさず釘を刺した。
「休憩だから、質問はナシでお願いします」
学生たちが強張った顔で頷く。
ロークが殊更に明るい声で場の緊張を解いた。
「今日のおやつは、ウチの店長たちが作ったんですよ」
学生たちは、お茶会が始まってしばらくは緊張で固かったが、香草茶の薬効のお陰か、アウセラートルと知らない人が同席しても、次第に肩から力が抜けた。
お茶請けは、クッキーとパウンドケーキ。砕いたアーモンドを混ぜたクッキーは香ばしく、さくさく軽い食感で、幾らでも食べられそうだ。
パウンドケーキは、ホウレンソウを混ぜた塩味と、ブルーベリーを混ぜた甘いものの二種類。女の子たちにはブルーベリー味が人気だ。彼女らの声と笑顔で場が華やぐ。
「へぇー……兄ちゃん、流石、店長なだけあるな。こいつもふわっふわだ」
「ちゃんとした機材、使わせてもらったんで」
謙遜にこれまでの苦労が滲む。以前はビニール袋など、間に合わせの物で急場を凌いだ。アウェッラーナは、それでも売り物になる品質にできた彼らに心の中で賛辞を送る。
……魔法じゃないのに、魔法みたい。
小麦粉、卵、砂糖、ふくらし粉。基本素材に味の変化を加えて、こんなに美味しいお菓子ができる。
ちゃんとした厨房とは言え、魔法を使わずにどう作るのか。アウェッラーナにはわからないが、椿屋兄妹の技術は確かだ。
メドヴェージが菓子の出来を褒めちぎり、パン屋の三兄姉妹が頬を染めて笑う。少年兵モーフは夢中で焼菓子を頬張った。
学生たちは、参加者の奇妙な取り合わせに怪訝な顔で愛想笑いを浮かべる。講師に質問を禁じられ、落ち着かない様子だが、誰も説明しなかった。
アウセラートルが何も言わないので、プラエテルミッサのみんなも、「自分たちは難民の移動販売だ」などと、わざわざ自己紹介しない。
……まぁ、こんなものよね。
お茶会の後は、五時まで学生相手に実演した。彼らが帰ってからも夕飯まで、ロークと二人で作業を続ける。
講師としての初日が終わり、寝室に引き揚げると、どっと疲れが押し寄せた。
何も考えられず、ベッドに入るなり睡魔に襲われる。アミエーラは何か言いたそうだが、返事もままならない。
気付いた時には、朝だった。
☆教科書はあるって言ってた……「0255.魔法中心の街」「264.理由を語る者」参照
☆薬草の束を手に取り、呪文……「0009.薬師の手伝い」参照
☆空襲が少なかったとは言え、あの島も無傷ではなかった……「0203.外国の報道は」参照




