0160.見知らぬ部屋
アミエーラは目を開いた。
上に木の板がある。横を向く。体中が軋み、一瞬、息が止まった。頬にやわらかい物が触れる。
布……いや、布団だ。
ふっくらした寝具がアミエーラを包む。
……店長……?
仕立屋の店長の自宅かと思ったが、違う。匂いが違う。
身体は動かさず、目だけを巡らせた。部屋の様子も違う。
質素な土壁で、窓には無地のカーテンが掛かる。見える範囲に家具はない。
部屋の隅、天井に近い部分にどこかで見たような模様がある他は、飾り気のない部屋だ。
全身がだるい。左腕が熱を持ち、鼓動に合わせて疼く。
他はどこがどうなっているのか、痛みの境もわからないくらい、とにかく痛い。
痛みから気を逸らそうと、あの模様をどこで見たのか記憶を漁る。
……どこで……? 暗い……隅っこ……?
山小屋だ。
気付いた瞬間、ここ数日のことを一気に思い出した。
登山道の門を閉めた時、錆びた鎌がなかった。逃げる途中で落としたのだろう。
アミエーラには戦いの経験や心得が何もない。念の為に山小屋から鎌を持ち出したが、イザと言う時に直面しても、あれを武器に戦うなど思いつきもしなかった。
魔物から逃げるのに精一杯で、どこで落としたのかさえ思い出せない。
柵を出た後、どこまで歩いたのか。ここはどこなのか。
アミエーラは右手でそっと布団をめくった。
コートは脱がされたが、他の服はそのままだ。
……あれっ? キレイ……?
袖で血を拭った筈だが、汚れがない。
痛みを堪え、そっと起き上る。
折れた左腕には包帯が巻かれ、板の添え木まである。転んで泥塗れになった覚えはあるが、上着とズボンには染みひとつない。
ベッドに腰掛けると、それ以上動くのが億劫になった。
浅く呼吸するだけで、額に脂汗が滲む。
何も考えられず、左腕を押さえて項垂れた。
どのくらいそうしたのか、足音が近付いて来た。
木の床をゆっくり歩く足音が止まり、戸が小さな音を立てて開いた。
ふわりと懐かしい香りが漂う。
アミエーラは顔を上げる気力もなく、全く動けなかった。
「あら、目が覚めたのかい」
しわがれ声がアミエーラに向けられ、何かを置く音に続いてその人が近付く。
皺くちゃの手がアミエーラの額に触れる。その冷たさが心地よい。
「まだ下がらないねぇ」
心配そうな声と同時に手が離れ、足音が移動する。
足音が戻り、目の前に木のマグカップが現れた。
「飲めそうかい?」
その声で、アミエーラは顔を上げた。
たったそれだけの動作が身に堪える。
痩せた老婆が柔和な笑みを浮かべ、隣に腰掛けた。小さな匙で少し掬い、アミエーラの口許に運ぶ。
薄く開いた唇の隙間にそっと匙が触れる。丁度良く冷めた香草茶が口を湿し、やわらかな甘みが舌の上に広がった。
「滋養がつくように蜂蜜を足したんだよ。もっと飲めそうかい?」
アミエーラがなんとか目顔で意思を伝える。
老婆はせっせと匙を運び、甘くした香草茶を飲ませてくれた。
マグカップ三分の一くらい飲ませたところで手を止め、老婆は立ち上がった。
ベッド脇の小机にカップを置き、アミエーラを寝かしつける。
「あんまり長く座ってると、よくないからね。もう少しお休み」
老婆は、アミエーラにそっと布団を掛け直して頬を撫でた。
「可哀想に。口もきけないくらい怖かったんだね。魔物はウチに入れやしないから、安心おし」
それだけ言うと、カップを持って出て行った。
戸が閉まる音を聞き、足音が遠ざかるのを待って、アミエーラは長い溜め息を吐いた。
山を降りたのは夕方だった。今、カーテンの隙間から漏れる光は、明るい。
目を閉じる。
舌に残るやさしい甘さと香草茶の効果で心は静かだ。
老婆が何者かわからないが、アミエーラを助けてくれたのだ。
……何とかして、お礼しなきゃね。
こんな身体では何もできない。完治するまで置いてもらえるのか。いや、それ以前にここが空襲に遭わないとも限らない。
不吉な考えが脳裡を過った。
……その時は、その時よね。
アミエーラは、落ち着いた気持ちで眠りに落ちた。




