其ノ弐 ── 標的ニスル者セラル者
桜之鬼、用 于吉 狙孫策。
其 為 集 此之時間之妖気 也。
【桜の鬼、于吉を利用して孫策を狙う。
この時間に散らばった、在らざるべき妖気という名の欠片を、集める為に。】
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淮河にて、河を跨いでの双弓戦が繰り広げられる、少し前。
洛陽から南東方面に位置する、呉国の主要拠点である県城・建業。
洛陽の都城と同じように石造りの大きな壁で囲まれており、四方には出入りをするための門がある。
そんな建業の周辺の木々に、身を隠すようにひっそりと佇む一羽の烏。
微動だにすることなく、建業の様子を見据えていた紅き瞳は、ふと建業の上に広がる空を映し出す。
時刻にして、金烏が真上に来るより少し前。
(そろそろ来る頃か)
そう思ったとき、烏が佇む枝の真下に突如として現れた、よく知る者の妖気と気配。
それが〈記憶辿咲〉によるものだと分かっている烏は、特に警戒することなく下を覗き込む。
しかし、そこに人の姿は見当たらない。
それもまた、現れたのが彼女であることの証明だった。
再び前を向きながら、烏は頭の中で声を発する。
『まだ眼を使わなくていいか?』
「はい、大丈夫です。
先に淮河周辺のことをお伝えしたいですし」
『ああ、そうだったな』
そこにいるであろう彼女に向かって〝念話〟で声を伝える、鳥の姿の鴉こと紗鴉那と、〈霞ノ型〉によって姿を消している薙瑠。
目視できるのは烏の姿のみ、声が聞こえるのは姿を消している彼女の声のみと、傍から見れば異様な光景だろう。
『で、淮河に赴いてるのは誰だ?』
「驚かないでくださいね? ……全員、いらっしゃいました」
『は? 全員だと? 孫権や呂蒙まで向こうに行ってるのか?』
「はい。鴉様が事前偵察で掴んでいた、呉国が拠点にするであろう淮河付近の砦を偵察して来ましたが……其処には村で出会った二人の鬼と、まだ対峙したことがない鬼が二人、いらっしゃいました。
後者が恐らく、孫権殿と孫向香殿かと」
『四人……確かに間違いないようだな。
取り敢えず、このことは神流に伝えて問題ないな?』
「はい、お願いします」
そこで一度、二人の会話は途切れる。
紗鴉那や鴉斗の念話を聞き取れるのは〈六華將〉のみ。
というのも、念話を聞き取るためには、鴉たちの妖術が施された特殊な小道具──二人の場合は羽根を用いている──が必要となるが、それを所持しているのが彼らだけだった。
もちろん、彼ら以外にも同様の羽根を渡しておけば念話が可能だったが、鴉たちはそこまで〈六華將〉以外の者を信頼しているわけではない。
故に紗鴉那は、薙瑠が見た情報を神流に伝えることで、仲達や子元に情報を共有する、という手段を取っていた。
『薙瑠、伝達は完了したぞ』
「ありがとうございます」
『しかし、呉国の奴等が全員、向こうに行ってるとなると……早急に戻る必要があるか』
「万が一の時のことを考えて鴉斗様にもお願いをしてますが、呉国の目的が分からない以上は、急ぐに越したことはないですね」
『そうだな』と頷きながら、紗鴉那は前方に堂々と構えている建業を静かに見据える。
四人が淮河に居るならば、あの建物の中に居るのは、狼莎から聞いた〝分身〟の力を持つ孫向香のみとなるだろう。
『弓……か、可能性が低いとは言え想定してたことだが……避けきれる気がしねー』
「そもそも、ですが。県城内では洛陽と同じように、民も暮らしているのでは?」
『ああ、居るな』
「その中で弓なんて放ったら……」
『言いたいことは分かるが、敵国の民の心配はして、あたしの心配はしてくれないのかよ?』
「あ、いえ、決してそういう訳では」
半ば慌てて否定する薙瑠に、紗鴉那は少しむすっとする。
しかし紗鴉那は、彼女が自分よりも、敵国とはいえ民の心配をする理由を何となく把握していた。
民の心配、それは裏を返せば、信じて疑わない、彼女なりの自分への〝信頼〟の証。
「紗鴉那様なら、避けきれると信じているので」
『……お前、本当そういうとこだぞ』
「何がですか?」
『何でもない。兎に角、今の目的は氷牙だ。
あたしたちが素早くここから抜け出してしまえば、民に被害が及ぶこともないだろ』
自分の考えが当たってしまっていたことが何だか小っ恥ずかしくて、紗鴉那は半ば早口で言葉を紡いだ。
薙瑠も「そうですね」と賛同の意を示すと、その場で小さくひと呼吸。
呼応するように、紗鴉那も瞳を閉じて深呼吸。
少し冷たさを感じるそよ風が吹き、穏やかだった空気は緊張感を持ち始める。
それを感じ取りながら、ゆっくり瞳を開けば。
右眼の瞳孔だけが、十字型の特殊な紋様を描き出していた。
『──よし、行くぞ』
その声を合図に、薙瑠は建業に向かって走り出し、紗鴉那は空へと飛び立った。
建業に限らず県城や都城は、基本的に防衛のために高い壁に囲まれた構造になっている。
いくら鬼とはいえ、その壁を登りきることは妖術でも使わない限り難しいだろう。
故に今回は、確実に見つからない方法として、紗鴉那が空から建業の中に入り込んだのち、〈記憶辿咲〉を用いて薙瑠も中に入り込む、という手はずになっている。
紗鴉那は周囲に特に危険がないことを確認すると、黒い翼を羽ばたかせて建業の城壁の上に留まる。
建業の外側の地上を見下ろせば、姿を消している薙瑠も城壁のすぐ近くで、上方に留まる紗鴉那を見上げている。
目が合えば、薙瑠は小さく頷いた。
それは問題ない、の合図。
──そう、今の紗鴉那には、姿を消しているはずの薙瑠の姿が、しっかりと視えているのだ。
頷く彼女を見届けて、紗鴉那は城壁の内側に向かって飛び立った。
ふわりと宙を舞い、すぐ近くの家屋の屋根の上に降り立つ。
『……此方も問題なさそうだ。来ていいぞ』
その声を脳裏で聞いた薙瑠は、鞘に収めている刀の鍔を、親指のみで軽く押し上げる。
僅かに覗く桃色の刀身に、優しく呼びかけるようにして。
「〈紅桜・記憶辿咲〉」
小さく呟くと、彼女の身体はゆらりと静かに、紗鴉那の隣、家屋の屋根の上へと移動した。
もちろん、その姿は何者にも視えていない。
ただ一人──隣に居る、紗鴉那を除いて。
十字型の瞳孔を持つ右眼で、隣に現れた薙瑠の姿を確認すると、その瞳孔はすぐにいつも通りの、縦に長い楕円の形へと戻ってゆく。
同時に、彼女の視界から薙瑠の姿もすう、と消える。
(この眼を使うのは慣れねーな……少し使っただけでも頭が痛くなりそうだ……)
そんなことを内心で呟きながら、紗鴉那は小さくひと呼吸。
ここから先は、時間との勝負。
いつどこから狙われるかなど分からない、常に命の危険と隣合わせの空間。
とはいえ、建業の中は何事もないように賑わっていて、緊張感の欠片もない。
それが返って紗鴉那たちの緊張感を倍増させた。
(……全く、奴等は何を考えてるんだか)
紗鴉那は内心で小さく毒づいて、自分の不安を誤魔化す。
そして再び、あの眼を開眼させ、見据える先は県城の中心──氷牙の居場所。
『氷牙がいる場所はあの城内の一角だ。
お前はできる限り屋根や塀の上をつたって来てくれ』
薙瑠が小さく頷いたのを合図に、紗鴉那は再び空へと飛び立った。
随時薙瑠の様子を確認しながら、真っ直ぐと氷牙のいる方へ飛んでいく紗鴉那。
一方で薙瑠は、軽快に屋根や塀の上を難なく移動している。
そうして何事もなく、あっという間に氷牙が居る場所の近くへと辿り着けてしまった。
氷牙がいる建物を囲む塀の内側で、紗鴉那は木の上に身を隠し、薙瑠はその木の下で周囲の様子を窺う。
城内だけでなく、来る過程にも兵士や文官・女官らしき人物の姿は見かけたものの、特に変わった様子は見られなかった。
警戒する様子が全く無いのだ。
それも──不自然なくらいに。
呉国が桜の鬼の力の源である〈逍遙樹〉を断ったと思い込んでいることを考えれば、何ら不思議ではないのかもしれないが。
それにしても──建業をこれ程手薄にしてまで、淮河に向かう意味が分からなかった。
しかし、手薄にしてまで淮河、即ち魏国との戦に赴くということは。
裏を返せば、彼らの目的は魏国と戦うこと自体に関連していると言うことだ。
そしてもうひとつ気がかりなのは、これまで何処にも、孫向香の姿を見かけていないと言うこと。
「紗鴉那様」
彼女だけに聞こえるような小さな声には、緊張感が含まれていて。
どうやら薙瑠も紗鴉那と同じように〝嫌な予感〟を感じていたらしい。
「ひとつだけ、お願いが」
『何だ?』
「氷牙様に、呂蒙殿のことを」
周囲に人がいないことを確認しての発言ではあるものの、薙瑠は己が潜んでいることが発覚しないよう、可能な限り端的に要件を伝えた。
呂蒙がいないことを先に伝えれば、氷牙も動きやすくなるはず──
その意図をすぐに察した紗鴉那は、『分かった』と頷く。
『念の為……あたしはこのあと上空から県城全体を探ってみる。
お前は周辺を警戒しつつ、氷牙と建業から抜け出すことに集中してくれ』
薙瑠が黙って頷くのを見届けると、紗鴉那は建物内に居る氷牙へと視線を移す。
幾何学紋の窓の向こう、横たわる彼女の姿。
それを確認するや否や。
『──氷牙、呂蒙はここには居ない』
たったそれだけの情報を伝えると、紗鴉那は上空へと飛び立った──刹那。
『──上だ! 奴は上にいる!』
紗鴉那と薙瑠、二人に届いた〝聲〟は、建物内から出た来た小さな白蛇──氷牙のもの。
直後、屋根の上から複数の矢が降り注ぐ。
が、氷牙の忠告で一瞬でも上空に注意を向けれたことにより、紗鴉那と薙瑠は間一髪、左右に避けて矢の雨の射程圏外へと逃れることに成功する。
矢、とは言え、鬼が放てばその威力も人間とは異なり、それは石でできた塀を軽々と崩壊させるくらいの威力がある。
枝が折れた木や崩れた塀から土埃が舞う様子を傍目に、紗鴉那が素早く上昇し、矢が放たれた屋根の上を確認すれば。
そこでは短い橙色の髪を靡かせる鬼──孫向香が、弓矢を構えており。
黄玉の瞳と視線が交錯した瞬間、彼女は愉しそうに嗤った。
「待ってたわよ、鴉!!」
狙いを定め、勢い良く放たれる矢。
立て続けに飛んでくるそれを、紗鴉那は間を縫うようにして器用に躱す。
──待ってた。
躱しながら頭をよぎるのは、先の孫向香の言葉。
そして今、地上には目もくれずに己のみを狙っている現状。
薙瑠は姿を消しているが故にその存在に気付くことはほぼ不可能だが、氷牙を狙うことは出来るはずだ。
その素振りが全く無いことを考えれば、考え得る答えはひとつ。
『──薙瑠、奴の狙いは恐らくあたしだ、氷牙のことは任せるぞ!』
念話でそれだけ伝えると、紗鴉那は矢を躱しながら空高く飛翔する。
相手の目的が何であれ、その目が地上に向かないことは紗鴉那たちにとって好都合だった。
加えて、民への無駄な被害も減らすことができる。
とは言え、此処は建業──敵地だ。
民含め、敵対する国の奴らが如何なろうと正直知ったことではなく、自分の守るべきものが守れればそれで良い──というのが、紗鴉那の考えだったが。
──県城内では洛陽と同じように、民も暮らしているのでは?
──その中で弓なんて放ったら……
──紗鴉那様なら、避けきれると信じているので。
(あーーーくそ、薙瑠には敵わねーな……)
頭の中で反芻する彼女の言葉がきっかけとなり、紗鴉那は可能な限り自分以外に被害が及ばないよう、矢を引きつけながら上昇する。
幸か不幸か、雲ひとつない爽やかな空。
飛びやすい一方で狙われやすい状況だったが、高さという要素がある以上は此方が有利。
だからこそ紗鴉那は、出来るだけ高く、矢が届かないくらいまで、上へ上へと羽ばたいた。
広がる大地の地平線が綺麗に見渡せる高度に来たところで、紗鴉那上昇をやめ、気持ちがいい快晴の空気を全身で感じながら水平に飛翔する。
地上を見下ろせば、正方形に近い県城の全体像が視界に入る。
孫向香がいた場所は、中心にある県城の中でも少し大きめの建物の屋根。
距離があって人の姿は視認が難しいが、それは向こうも同じはずで、現に矢が飛んでこないのがその証拠だ。
(まあそうだよな、流石にこの距離なら矢も届かない──……)
と思った刹那。
県城の中心辺りから近付いてくる何か──それが焔をまとった矢だと気付くまで、少しの時間を要した。
『は!?』
思わず〝声〟が漏れると同時に、咄嗟に身を躱そうとしたものの、完全な不意打ちに完全に避けきれるわけもなく。
真っ直ぐ翔んできた焔矢は、勢い良く左翼の付け根辺りを抉った。
矢を纏っていた焔が傷口を焼き、ジリジリと侵食していく。
『……っ……』
──激痛、だった。
そんな状態で態勢を保てるはずがなく、紗鴉那の身体はゆらりと傾き、地上へと落ちていく。
頑張れば、飛び続けられる。
が、安定しない飛び方で再度狙われれば、今度こそ避ける術がない。
とは言え、先程も避けきれなかったからこその現状。
──ああ、もう面倒だ。
半ば思考を放棄する形で、紗鴉那は重力に身を任せることにした。
そんな中でも、当然ながら抉られた左翼の痛みは止まらず。
──貫通、ではなかったのが不幸中の幸いだった。
(いってぇ……くっそ……完全に油断した、最悪だ……でもまあ、あいつらから目を背けることには成功したな……)
頭から徐々に地上に近づき、このままでは県城内の民家の屋根に衝突しかねない。
激痛を伴ってはいるが、妖術は扱える。
激突する前に、風の妖術を使って受け身くらいは──
「紗鴉那様っ!」
まだ屋根まで距離がある高さで、名を呼ばれると同時に空中で何者かに抱きかかえられた。
それが薙瑠だと認識した直後、彼女の背後を焔矢が横切る。
彼女がいなければ、自分の身体は今頃矢に貫かれていただろう。
(……注意力まで鈍ってやがるな……)
こんな失態ではいくら温厚な彼女でも怒りそうだなと思いながら、紗鴉那はふと、抱きとめられる腕の中から彼女の顔を見上げる。
そして僅かに目を丸くした。
前を見ている彼女の顔に浮かんでいたのは、ものすごく動揺しているような、不安を顕にした表情。
そんな表情をする彼女はあまり見たことがなかった。
そして同時に、その原因が己にあることを──痛い程把握してしまった。
「〈紅桜・記憶辿咲〉っ!」
若干の焦りが含まれるような彼女の声と共に、景色は建業から一転、そこが洛陽の桜の木の下だと分かると、紗鴉那はほっと胸を撫で下ろした。
建業への潜入は虎尾春氷──虎の尾を踏むが如く。
その危機から逃れたのは、春先の氷を溶かす、暖かな風に舞う桜のお陰だった。
*
*
*
同時刻、建業。
額から朱色の小さな角が覗く、橙色の髪を持つ鬼──孫向香。
彼女が鴉を狙って放った二投目の焔矢は、間違いなく鴉を捉えたかに見えたが。
直前で姿が消え、焔矢は何を捉えること無く空を切り、県城を囲う外壁へと衝突していた。
外壁の一部が崩れ、土埃が舞う様を見ながら、彼女は不機嫌そうに眉根を寄せる。
「……消えたぁ? 絶対仕留めたと思ったんだけどなぁ」
仕留めた、と自分で呟いてから、ふと本来の目的を思い出し。
「いや、仕留めなくて正解よね、目的は〝刻印〟だし、実行するには生かす必要があるって権兄さんが言ってたし」
危ない危ない、と言いつつ全く悪びれる様子がない彼女は、手にしていた弓を内にしまいながら、人間の姿へと戻る。
彼女の武器は、射程距離と正確性。
それは人間の姿でも十分に効果を発揮するが、鬼の姿になることで飛距離に必要な力と正確さに必要な視力を格段に上げることができる。
故に彼女は、空高く逃げる鴉を確実に狙うため、途中鬼の姿に変化していた。
「し……尚香殿!」
屋根の下方、地上から名を呼ぶ声が薄っすらと聞こえ、彼女が面倒くさそうな顔をしながら屋根の上から軽快に地上へと降り立つと、そこには一人の兵士が困ったような顔をして待っていた。
彼は孫権に信頼されている人間の一人で、今回は尚香と共に建業の守備を任されている人物だ。
「うるさいわね、何よ」
「やり過ぎですって……! 城内に多少の被害があることは事前に聞いておりましたが、外壁まで壊されてしまっては……」
「うん、そうね、あれは私も想定外だった、ごめんなさい」
反省の色が見えない謝罪に、彼は呆れたようにため息を吐く。
そんな彼を横目で見たあと、尚香は何処か寂しげに空を見上げた。
「でも、もう必要ないわ」
「必要ない……ですか?」
「そう。権兄さんは、この戦いで決着をつける気でいるから。
決着がついたら、外壁なんてあってもなくても変わらない。
だから鬼以外、誰も連れずに行ったのよ、あなたたち兵士を無駄に巻き込まないようにするためにね」
決着──その結末は、きっと。
「さて、片付けするかぁ」
両手を上げて伸びをしながら、尚香はその先の言葉を、そっと胸の内に秘めたのだった。




