その5 『かわいい』を越えて
なんやかんやあったが、さつきは無事に髪の毛を切ることができた。
「よし、これで罪滅ぼしは終わりだ。今日は代金は要らねぇけど、次からはきちん予約してこい。カウンターできちんと会員登録しとけよ?」
「え? いいんですか?」
「今日だけ、特別だ。もし気後れするなら、次もうちの店にきてあたしに切らせろ。上物を常連にできたなら、あたしの功績になるからな。安心しろ、次もあんたを可愛くしてやる」
ピンク色の髪の毛を揺らす波美に、さつきは頬を緩める。
彼女からは、爽やかな匂いがした。悪意とは縁のない香りは、嗅いでいてとても気持ちがいいものだった。
見た目は派手だ。髪の毛はピンク色で、化粧も濃く、服装もファンキー。バンドマンのような様相で、言葉は少し荒い。本来であればさつきとは縁のない人間に近い。
だが、桐川波美という人間の匂いはとてもサッパリしていた。自分をまっすぐに貫いているような人間から漂う香りだった。
(また会いたいっ)
さつきが素直にそう思える人間は、なかなかいない。
もちろん、次もお願いしたいのはさつきもだ。
「ありがとうございました!」
最後にきちんとお礼を言って、その場を後にする。
きちんとカウンターで会員登録をした後に、彼女はお店を出た。
「ふんふ~んっ♪」
足取りは軽い。
時刻はまだ16時過ぎだ。まだいつきは家に帰っていないし、すぐに車に乗り込むのはなんとなくもったいない気分になって、彼女は少しだけ周囲をブラブラしてみた。
波美の店があるここは都会である。駅も近いせいか、さつきが住んでいる場所に比べて人が多い。もちろんお店もたくさんあるので、時間があればいつきとここに来たいなぁと、彼女は妄想を膨らませていた。
時折、お店のウィンドウに反射する自分を見ては、笑顔をこぼす。そんな彼女は、自然と周囲から注目されてしまった。
そのせいで、彼女は何度かナンパされてしまい、少し驚いた。
普段もナンパされないことはないのだが、ここまで短時間で何回も声をかけられるのは、珍しかったのだ。
(目立ってるのかなぁ? もう帰ろっと……)
まぁ、だからといってナンパされるのが好きなわけではない。
浮かれた気分も少し落ち着いたので、さつきは駅の近くにある有料駐車場へと向かう。
その、道中のことだった。
「あのー、すいませんっ。ちょっとよろしいっすか?」
またしても声をかけられた。しかし今回は男性ではなく女性で、それが珍しくてさつきは足を止めた。
「はい?」
声の方向に振り向くと、そこには大きなカメラを抱えた女性がいた。作業着のようなものを着用していて、背負っているカバンからは色々な機材がはみ出ている。
年齢はさつきより少し年上だろうか。ハツラツとした表情が印象的な、短髪のボーイッシュな女性だった。
「突然すいませんっす! 自分はこういう者なんですけれどっ」
そう言って彼女が差し出したのは、一枚の名刺。受け取ると、そこにはファッション雑誌所属のフォトグラファーと書かれていた。
「亀井真矢と申しますっす! 実はファッション雑誌の企画で『街角美人』の撮影をしているすけど、一枚よろしいっすか?」
「え? わたしが???」
突然の申し出にさつきはびっくりしてしまう。最初は嘘か詐欺だと思ったのだが、亀井真矢からは嘘の匂いがしなかったので、彼女は困惑してしまった。
さつきは基本的に周囲の評価は気にしない。いつきの評価なら気にするのだが、自分のことを考えることは少ない。
なので、雑誌に載りたい!とか、有名になりたい!とか、そういう欲はなかった。
彼女にとって絶対的なのはいつきからの評価のみだ。いつきが『かわいい』と言ってくれるなら、それだけで満足していた。だから、まさか自分が雑誌の載るような人間とは思っていなかったのである。
「一枚だけでいいんで、ダメっすかね? いやぁ、あなたみたいに可愛い子を見ると我慢できなくなっちゃうんすよっ! どうか、このフィルムに焼き付けさせてくださいっす!」
真矢はぐいぐいと詰め寄ってくる。
目を輝かせる彼女の言動は熱っぽく、いつまでも食い下がってくるように思えた。
「どうっすか? 自分に撮らせてくれれば、めちゃくちゃ可愛くしてみせるっすよ!!」
「かわいく……!」
ふと、妄想する。
ファッショ雑誌に映る自分を見せて、いつきがびっくりする姿を。
(むふふっ♪ 悪くないかも)
周囲にどんなことを思われても気にしないさつきだが。
この子はとことん、いつきの評価を気にする子だ。
少しでも多く『かわいい』と思われるためなら、なんだってやりたいと思っている。
なので、彼女は真矢の申し出を受けることにした。
「少しだけなら……」
「わぁ、いいんすか!? ありがとうございますっす! じゃ、じゃあ早速、こっち来てください!!」
頷くと、真矢はメチャクチャ喜んでくれた。
飛び跳ねるくらいテンションの高い真矢に連れられて、少しだけ撮影を行った。一枚と言われたのに何十枚か撮られた気がするのだが、一時間くらいで解放してくれたので、彼女は何も言わないことにした。
(つ、疲れた……そろそろ帰らないと、いつきに『おかえり』が言えなくなっちゃう!)
気付けばもう17時を過ぎていた。慌てて車に乗り込んで、家に向かう。もちろん安全運転を心がけたので事故を起こすことはなかったが、ラッシュに重なってしまって大分時間を奪われてしまった。
帰宅したのは、十九時手前だった。
(うぅ、いつきはもう帰ってるかなぁ?)
アパートの階段を駆け上がる。オシャレしてはくようになったハイヒールは走りにくくて、今日はスニーカーにすれば良かったと後悔する。
さつきはいつきを出迎えるのが好きだ。おかえりを言ってあげると、彼は嬉しそうに笑ってくれるのだ。
しかし、いつきはもう帰っていてもおかしくない。ただ、忙しくて遅い日なら、19時ごろには帰宅している。なので、ギリギリ間に合うことを願って彼女は慌てていた。
急いで階段を上がっていると……ちょうど、ぽっちゃりした男性と遭遇した。
「ん?」
ヒールの音に反応したのか、階段をゆっくりと上がっていた彼がこちらを振り向く。
もちろんその人は、さつきが大好きな人だった。
(いちゅきっ)
突然の遭遇にさつきは心の中で叫ぶ。しかも心の中の発言なのに噛んでしまった。
髪の毛を切って、一刻も早く見せたいと思っていたが、まだ心の準備ができていなかった。階段で遭遇するとは思わなかったのである。
(な、なんて言うんだろう?)
ドキドキとしながら、いつきの反応を待つ。
彼はさつきを見て、それから穏やかに笑った後、スッと端に寄った。
「お急ぎですか? どうぞ、先に行ってください。何分、太っているもので……歩みが遅いんですよ」
その発言に、さつきは目を丸くする。
他人行儀にされて、不意に涙が出そうになった。
「パパ、酷いよっ。わたしはさつきだよ!? 敬語なんて使わないでっ!!」
途端に子供に戻った彼女は、ほっぺたを膨らませて抗議する。
その時になって、いつきはようやくさつきが『さつき』であることに気付いたらしい。
「え!? ……さつきなのかっ!? びっくりした、近所のお姉さんかと思ってた……っ」
よくよく考えてみれば、近所にさつきくらいの女性はいない。
というか、銀髪の少女なんて街で探しても少数だ。冷静に考えれば間違えるはずはない。
だが、いつきの思い描く『さつき』と、今目の前にいる『さつき』は、あまりにもイメージが違っていたのだ。
「髪形、変えたのか? すごく大人っぽくなってるよ……誰か分からなかった」
そう言って、いつきはニッコリと笑ってくれた。
さつきにそっくりな、見ている人を笑顔にしてくれるような優しい笑顔だった。
「綺麗になったね、さつき」
その言葉に――彼女は、心臓をギュッと握られたような錯覚を覚えてしまう。
彼女が欲していたのは『かわいい』という言葉だった。
しかし、いつきは『綺麗』だと言ってくれたのである。
(うぅ……この人は本当に、娘ったらしなんだからっ!)
かわいいを越えた言葉が、さつきの胸を熱くする。
嬉しくて嬉しくて仕方なくて、彼女は思わず泣きそうになってしまった。
「べ、別に、綺麗になっても他の男性になんて興味ないんだからね! わたしが好きなのは、いちゅきだけなんだからねっ」
混乱してもいたようで、意味不明にツンデレになるさつき。
そんな娘を見て、父親は肩を震わせていた。
「……もう少し、中身も大人になったら、もっと綺麗になれるかもしれないな」
「な、なにそれっ! わたし、もう大人だもんっ。19歳なんだよ!?」
父親の腕を揺さぶって抗議する。。
逞しい腕は、さつきの華奢な体を容易に支えてくれた。
「はいはい。じゃあ、帰ろうか……今日は仕事が忙しかったから、少し疲れてるんだ」
「そうなの? じゃあ、美味しいごはん作ってあげるね?」
いつも通りの会話を交わしながら、二人は階段を上がる。
二人の生活は、数日で変化するほど劇的なものではないけれど。
日に日に、少しだけずつ、変化しているのかもしれない――




