その4 わたしは『ママ』にはなれないけれど
鏡越しに映る自分の顔を見ていると、いつも不思議な気分になる。
(わたしって、写真のママにそっくりだなぁ)
アルバムに映る母親は、まるで生き写しのようにさつきとそっくりだ。
母親と娘の容姿が似る、ということは然程珍しいことでもないのだが、さつきにはそれが本当に興味深かった。
(いつきは、わたしに似ている人を好きになったんだよね……)
なぜなら、最愛の人がさつきにそっくりな人を愛していたから。
だったら、自分も愛されていいはず……と、思う反面、サーシャの代替として見られたくない、という複雑な女心もある。
(そういえば……ママの髪の毛は、ちょっと短めだったっけ?)
美容室で、大きな鏡に映る自分を見ながら、ぼんやりと思考を巡らせる。
そんな時に、準備を終えた美容室の店長が部屋に帰ってきた。
「悪いね、待たせちゃって。急だったから準備に手間取っちまった」
「いえ、大丈夫です」
首を横に振ると、店長はやけに赤い唇の端を釣り上げて、さつきの髪の毛をくしゃくしゃにかきまわす。
「あんた、育ちがいいな」
「え?」
不意に言われて、さつきはきょとんと首を傾げる。そんなことを言われたのは初めてだった。
「そう見えるんですか?」
「ああ。表情が柔らかくて、笑顔がかわいい。普段あまり怒ったり、イライラしたり、落ち込んだりする人間が浮かべる表情じゃない。育ちが良くて、大切に愛されてきた子供だけが見せる笑顔だ」
美容師として、幾多もの人間と接してきたからなのだろうか。
店長の人物評はやけに説得力がある。そして、それはすなわち育ての親……父親であるいつきを褒められたことと同義なので、さつきはもっと嬉しくなった。
「えへへ~」
思わず、父親にしか見せないような笑顔を浮かべてしまう。
それがまた、店長の琴線に触れたらしい。
「ほう? かわいい小娘だな。よし、今日はとびっきりかわいくしてやるから、覚悟しとけよ」
「はい、よろしくお願いしますっ」
鏡越しに目を合わせながら、ぺこりとお辞儀をする。
店長はさつきにカットクロスをかぶせて、切り拭きで髪の毛を濡らした。
「少し冷たいけど、我慢してくれ。切りやすいように整えるから」
手櫛で梳いたり、前髪に触れたり、いろんな角度で見たり、店長は入念にチェックを始める。
それがひととおり済んだ後、ようやく彼女はハサミを手に取った。
「よし、だいたい分かったところで、切ろうと思うんだけどよ……あんた、名前は?」
聞かれて、さつきはまだ名乗っていないことを思い出す
「さつきですっ。五月雨さつき、19歳です……自己紹介が遅れてごめんなさい」
「いやいや、気にすんな。あたしもまだ名乗ってねぇからな。桐川波美っていうんだ、よろしくな」
店長の名前は、波美というらしい。
「波美さん、よろしくお願いします」
もう一度ぺこりと頭を下げてから、ようやくカットが始まった。
「さつきは今まで、自分で髪の毛を切ってただろ?」
しかし、まだ波美はハサミを動かしてくれない。
さっきからずっと、さつきの髪の毛に触れてばかりである。
「え? どうして知ってるんですか?」
さすがはプロといったところか。
さつきの状態を見て、色々なことを把握していたみたいだ。
「長さが不揃いで、毛量も左右でバランスが違うからな……伸ばし始めたのは最近ってところか? 前までは短かったから誤魔化せていたみたいだけど、長くなったら違和感が強くなってきたんじゃないか?」
「……すごいっ! 当たってます!」
さつきが美容室に行きたいと思ったのは、波美の言う通りだった。
最近、自分の髪形に違和感を覚えるようになっていたのである。伸ばし始めてから、どうもおかしい気がしていたのだ。
「それで、どうしたい? さつきならどんな髪形でも似合うはずだが、希望はあるか?」
「希望……」
どんな髪形にしたい、というのは特にない。
具体的な芸能人の髪形を真似したい、という思いもない。
ただ、明確にあるのは、方向性だけだった。
「お、大人っぽく、お願いしますっ」
大人っぽい髪形。
それがさつきの希望だった。
(いつきがもっと、かわいいって思ってくれる髪形がいいなぁ)
そのためにも、今までとは違う自分になりたかった。
「大人っぽく、ねぇ……分かった。任せてくれ、あたしはこう見えて結構腕が立つからな」
ニヤリとした笑顔は、やけに好戦的である。
「ここまで上物の素材はなかなか見ねぇ……活かすも殺すもあたし次第ってところか? いいじゃねぇか、ゾクゾクする」
感情が高ぶった時の波美は、いつもよりも言葉遣いが荒くなるようだ。
チャラい男性店員と話していた時のような荒い言葉で、自分を鼓舞している。
「ふむふむ……オッケー、見えた。大人っぽくしてやるよ、さつき……ちょっと待ってろよ? 集中するから」
「は、はいっ」
そう言ってから、波美は一切しゃべらなくなった。
美容師といえば、おしゃべりのイメージがあったので、さつきはそのことに驚く。カットの間も客に暇を感じさせないためのサービスだとさつきは認識していたが、波美はそういうことを好まないらしい。
「…………」
無言で、髪の毛に手を加えていく。
ハサミを変え、道具を変え、洗い流すときでさえも、彼女は無言だった。
接客として採点するなら、ほとんどゼロ点に近いだろう。
しかしさつきは、そんな波美から目を離せなかった。
(手つきがすごい……職人さんみたいっ)
よどみなく、しなやかに動く手に熟練の技を感じた。
そしてみるみる変わっていく自分の姿が面白くて、目を離せなくなった。
一応、鏡台の上には申し訳程度に複数の雑誌が並べられている。だが、手に取る気にはなれなくて、さつきは鏡を凝視していた。
約、二時間くらいだろうか。
あっという間に時間が過ぎて、気付けばさつきの髪形が変わっていた。
「できた。どうだ? 悪くないだろ?」
鏡越しに映る波美の顔は満足そうである。
さつきの髪の毛に優しく触れながらも、自分が作り上げた作品を見て充足感を得ているようだ。
「さつき、大人っぽくなったんじゃないか?」
「……はいっ」
さつきは、思わず見とれてしまった。
鏡に映っているのは自分なのに、まるで違う誰かのようでさえあった。
「さつきは元がいいから、さほど手を加えたわけじゃないけどな……細かい部分を整えた。いい感じだろ? あたしはなかなかいい腕をしてるよ」
自画自賛しているが、それが自惚れに聞こえないのは実力が伴っているからだろう
確かに波美の言う通り、髪の長さに大きな変化はない。数センチ、短くなった程度だろう。
だが、カットした毛量は結構多い。余分な髪の毛を梳いたようで、頭も軽くなってスッキリしていた。
前髪も、以前までは眉毛が隠れるくらい長かったのだが、今は眉毛の上まで切られていた。
「さつきは顔がいいから、ハッキリ見えた方がいい」
波美はとにかく、さつきという最高級の素材を活かすために料理してくれたらしい。
それから、何よりもさつきが気に入っていたのは、後ろ髪の毛先部分に緩いウェーブがかかっていることだった。
おかげで大分見違えていた。
大人っぽいという注文を見事にこなした波美に、さつきは思わず手を叩いてしまったくらいだ。
「すごいですっ。かわいい!」
まるで、テレビに出てくる女優みたいである。
それが自分であることに、さつきはとても驚いている。
(わたしはやっぱり……ママでは、ないんだなぁ)
鏡に映る自分を見て、さつきはふと母親のことを考える。
顔立ちも、髪色も、そっくりだけど……やっぱり、彼女とサーシャは違うのだと、あらためて認識した。
(当たり前だけど、わたしはママにはなれないんだね)
いつきの愛した人になることはできない。
だからこそ、さつきは彼に愛される人間にならないといけないのだ。
そのための第一歩として、今日は美容室を訪れた。その甲斐あって、もっとかわいくなることができた。
さつきはそのことを、とても喜んでいた――




