七
この頃の山中はよく朝靄がかかる。
しっとりと濡れた朴の葉の下で、攸は瞑想をしていた。生前からの彼の日課であり、戦場にある時でさえ、状況が許せば欠かさず行っていた。
「なあ、寝てるの?」
だが今朝は毛玉が邪魔をする。
あぐらの上を転がったり、肩にのぼっては頭をぺちぺち叩いてくる。
「お前は寝ないんじゃなかった?」
傍からはうっとうしい限りであったが、攸は微動だにせず、たっぷりと朝の冷気を味わってから目を開けた。
「起きた?」
「ああ。そろそろ行くか」
そう言うと攸は小雷を肩から下ろし、目の前の崖を登り始めた。
急に置き去りにされた小雷は慌てて攸の足を掴もうとしたが、男はあっという間に届かないところまで行ってしまう。
「我をおいてくな!」
攸が夜通し歩き続けてくれたおかげですでに雷来の縄張りだったところからは抜け、闇呑の追っ手もかかりにくくなっているとはいえ、見慣れぬ場所は心細い。
「登ってこい」
攸は途中のくぼみで待っている。だが小雷の短い手足で崖登りはつらい。また上からちょろちょろと水が流れ落ちており、滑りやすくもある。当然、登れるわけがなかった。
「むり!」
「無理じゃない。雷になって飛べばいいだろ」
「そ、だけどっ、簡単にゆうな!」
「簡単にできるようになったほうがよかろうが」
要するに攸は小雷を鍛えたいのであった。雷に変じて狙ったところへ駆けられるようにしておかなければ、また追っ手がかかった時に今度はうまく倒せるかどうか。
小雷もそれはわかっている。なにせ妖怪になったと言いつつ、まともな爪も牙もない攸はあまり頼りにできないのだ。
「ほれ、がんばれ」
雑な励ましを受け小雷は意を決す。攸が留まっているところより上の、崖の頂上を狙う。だが勢いづけに地面を蹴って、閃光となった瞬間に岩の壁に激突した。
「フギャン!」
転々と毛玉が斜面を落ちていく。崖の方向へは飛べたが、やはり途中で軌道が曲がり飛び越えるには至らなかった。
「いっだーーいっ!」
転げ回って泣きわめく毛玉の回収のため、仕方なく攸は崖を下りた。
「うまくいかねえなあ」
「もう我にやらせるなあっ!」
今回は鼻血が出ている。毎度予期せぬ場所に落ちるから、身構える間もなく全身を叩き付けられてしまう。
小雷とてがんばろうとしているのだが、痛みばかりこう強くてはやっていられなかった。
傍にしゃがんだ攸の膝にのぼり、そこでベショベショ泣き出した。
「泣いてばっかりだなあお前は」
攸は小雷の頭をなでてやった。
これがふわふわで大変手触りがよく、実は小雷が寝ている間も男は密かに触っている。
小雷にとって攸の体は少し冷たい。膝の上にいると日陰の地面に寝そべっている心地がする。打ち身を冷やすにはちょうどよかった。
「お前が兵を持てたら直接戦うことはないんだが」
情けない毛玉妖怪を前にして攸は叶わぬことをつぶやく。
「ヘイって?」
「まあ、子分のようなもんだ。お前の命令を聞いてかわりに戦ってくれるものを兵という」
「なんで子分が戦う?」
小雷はいまいちぴんときていない。
「親分のほうが強いんだから、子分のかわりに戦ってやるんだぞ。爸はそうだった」
「へえ。雷来大王は意外に仁者だったか」
「ジンシャって?」
「仁とは他者を助ける優しい心のことだ。俺の国では王が必ず持つべき資質とされている。お前の父亲は大王と呼ばれるだけのことがあったんだろうさ」
「ふーん?」
小雷は尻尾を揺らして考えた。
「助けるのが仁? 攸が我を助けるのも、仁?」
「どちらかといえば俺のは義だ」
「ギ?」
「義とは正しい行いのことだ。俺はお前の仇討ちを正しいことだと思う。真っ黒妖怪を倒すまで付き合ってやるよ」
他にやることもないし、と一度死んだ男は後からこっそりとぼやいた。
「……我はあいつを倒すってゆってない」
「往生際が悪い」
攸は笑って、小雷を背負い改めて崖を登っていった。別に迂回することもできるが、攸自身も己の鍛錬のためにあえてそうした。
登りきると、川の流れる岩場があった。
そこで、青い蛙がうつらうつらしていたのである。
「老蛙?」
小雷はすぐに攸から下り、岩を跳んで駆け寄った。攸は顎ひげを生やした蛙にぎょっとしたものの、少しも警戒しない小雷の様子を見てその後を追う。
「老蛙生きてたの? ここ爸の縄張りじゃないぞ。また迷ったのか?」
闇吞が現れた時にはぐれてから、小雷は今までこの妖怪のことを思い出しもしなかった。
重そうな瞼が開き、ゆっくりと小雷に向けられた金色の瞳には、正気の光が宿っていた。
「ここにお座り、小雷。そこな人の子も」
これは雷来の昔話をしてくれる時のいつもの老蛙である。
「今は爸の昔話してる場合じゃないんだぞ。我はあの黒い奴に追っかけられてるんだ。爸が喰われちゃって、我は、どうしたらいいか……」
「昔話をお聞き」
老蛙は小雷の襟首を持ち、手ごろな石の上に座らせた。
攸も蛙に指図され、小雷の隣に腰かける。彼の椅子としてはいささか低く、膝頭が肩の辺りにくるまで足を曲げて座らねばならなかった。
「蛙の爺さん? なんか訳知り顔だな、あんた」
「知らせるために、待っておったのよ。黒い妖怪、闇吞のことを」
「へえ?」
小雷たちがここを通ることをはじめからわかっていたとでも言うのか。掴みどころのない老妖怪は、ぽつぽつと語り始めた。
それは今から遡ること千年。雷来さえ生まれておらず、まだこの世が帝によって三つに分かたれていなかった頃のこと。
「天の帝が大地を創ったはじめ、神の他には小さく弱い者しかいなかった。だが世界は帝の意に反して絶えず荒ぶり、雨嵐が大気をかき混ぜ、長い時をかけて強大なものを形作っていった。――災禍。はじめはそう呼ばれた。闇吞はその一つだった」
天地の気が凝り固まり、魂魄を得た災禍とは後の妖怪の祖である。
「闇吞の司る災禍は、貪食。それは無とも言える」
「どゆこと?」
老蛙の話はいつもより小雷にはわかりにくかった。
「雷来が雷という災禍であるように、闇吞は無という災禍である。闇吞は生ある者も亡き者も見境なく喰らう。喰らえども喰らえども腹が満ちぬ。喰らうほどに大きくなってゆくからだ。腹の隙間を埋めるため、さらに大いなるものを喰らい出す。闇吞は天地を丸ごと喰らおうとした」
「どんだけでかくなったんだ」
攸は独りごとを呟いた。
「帝は闇吞を許さなかった。武神を遣わせ、これを討伐させた」
「朱娘妈妈?」
「いいや。朱娘の前の武神だ。闇吞はすでに神に匹敵する力を持っておったが、武神は己が命と引き換えに、闇吞を千々に砕いた。各地に飛び散った闇吞の欠片から、多くの妖怪が生まれた。どれも始祖の災禍ほどの力はなく、まだ生まれたての小さなものが大半であったが、確かに禍の芽であった。妖怪がこれ以上世を乱さぬように、帝は門で仕切ることにした。後に雷来が人界との間の門を壊すまでは、妖怪たちは幽界から一歩も出ること叶わなかった」
さて、と老蛙は続ける。
「闇吞は身を砕かれたが完全に消滅してはおらなんだ。魂魄を残した闇吞の一部が地の裂け目に落ちていった。裂け目の底には、かつて帝が封じ込めた始祖の災禍どもが互いを喰い合う世界があった。そこで闇吞は千年に渡り、闇を喰らって生き延びたのだ」
ほとんどの力を奪われたが、闇吞はひたすらに災禍を喰らい続け、少しずつ力を取り戻していった。
やがて地下の者をすべて喰らい尽くした頃、いよいよ底から這い上がってきた闇吞に小雷たちが遭遇したのである。
「闇吞は地上の妖怪を喰らって力を取り戻し、天界へ攻め入るつもりでおる。だが天界の門は力では開けられぬ。ゆえに、お前の血を求めておる」
老蛙はか細い指先で小雷の鼻を突いた。
「天神の血。それだけが天界の門を開ける」
小雷の母譲りの暁色の瞳が大きく見開かれた。
「……爸は、爸は天界の門は開かなかったって」
「お前の中に流れる天女の血が天界の門を開く。ゆえに帝は朱娘に怒ったのだ。妖怪に天への鍵を与えたがゆえに」
「それじゃあ」
小雷は言いかけて口をつぐんだ。
うつむくその頭を、隣で攸が驚きをもって見下ろしていた。
「お前の母亲が天女だと? しかも朱娘と言ったか今」
その武神の名は元武将の攸にとって他の神々よりも特別なものであった。
天神が妖怪の子を生むなど奇想天外な話に思える。人間たちの信仰の中で神と妖怪とは対極にあるべき存在なのだ。
「我は闇吞なんか知らないぞ。裂け目の底にいたあいつはなんで我を知ってる?」
「奴の他にもあと三匹、地の底で生き延び闇吞の仲間となった災禍がおる。そやつらのうちの身軽な者が、時折地上に現れて噂を集めておったのだ。間もなく、ここも嗅ぎつけられよう」
「……我は逃げられない?」
「今のままではな」
老蛙は闇吞を倒せとは言わなかった。しかし闇雲に逃げ続けるのでもいけないらしい。
すると攸が小雷の頭越しに老蛙に問いかけた。
「小雷の味方になってくれそうな妖怪はいないのか? あんたの話だと闇吞は妖怪をみんな喰うつもりなんだろ。それを知れば協力してくれる奴がいるんじゃないか?」
「おるよ。おるとも。今世の妖怪は闇吞を忘れて久しい。闇の肚に還ることを望む者はおらぬ。助けを求むるならば、力ある者のもとへ赴くがよかろう」
力ある者と聞いて小雷の頭にいくつか浮かぶ名がある。
すべてこの年老いた蛙の口から聞いたもの。四目と鳴鳴と何度も夢中になった、雷来の武勇伝に登場する恐るべき大妖怪たちだ。
「水璃は? 老蛙、水璃は闇吞と戦う?」
小雷がいちばん気に入っていた敵役。
あと少しで竜になれた水妖だけあって、気高い者であると老蛙は言っていた。
「水璃は跪かぬ。服従よりも戦いを選ぶであろう」
「そっか――じゃあ、水璃のとこに行ってみる。どこにいるんだ?」
老蛙は川の上流を指した。川が水璃のもとに繋がっているという。
さっそく出発することにした小雷だったが、一歩踏み出したかと思えばすぐに振り返った。
「老蛙は来ないのか?」
「爺を連れてゆけると思うな。いずれ、また昔を語るべき時が来れば、会いにゆくよ」
ここからしばらく動かぬつもりらしい。小雷は尻尾をぱたりと左に振った。
「……老蛙は、どうしてなんでも知ってるんだ? 地の裂け目の底のこととか、見てきたみたいに」
「見ていたからだ。お前のことも、ここで見ておる。早くおゆき」
また小雷は一歩進んで、やはり振り返る。
「四目と鳴鳴が来たら、我は水璃のとこにいるってゆって」
それを本当に最後とし、前へ進むことにした。
攸は手をつきながら岩場を跳んでいく毛玉をしばらく眺め、立ち上がった。
「物知りな妖怪爺さん。ついでに俺がなんなのかも知ってるか?」
「……人の子の、妖怪であろう」
「なんだそれ。蛙の妖怪、人の妖怪ってか?」
「ならば汝は何でありたい?」
「いや、そう言われても」
「あるがままであればよい。それもわからぬのなら、小雷に付いておゆき。いずれ、知る時がくる」
「どういうこった。実は適当なこと言ってるだけだったりしないよな?」
茶化すように攸は返した。しかし去り際には真面目な顔を作り、己より何十何百倍と生きている妖怪の賢者へ、小雷の分まで頭を下げた。
「達者で」
小雷のもとには二歩ほど跳べば追いつけた。
濡れた岩に滑った妖の子の襟首を掴み、しかし甘やかし過ぎず一つ先の岩に下ろす。小雷も攸の腕をよじ登りはしなかった。
「四目と鳴鳴ってのは? 味方か?」
「うん。我の――」
子分と言いかけて、そうでなくなっていたことを小雷は思い出した。かといって二匹が親分だとは思えない。
「……我の子分だったけど、爸がいなくなったから子分じゃなくなった。のに、喰われそうになった我を助けた。逃がしてくれた。そういうのなんてゆう?」
「友だな」
「トモ?」
「お前のことが好きで力を貸してくれる者だ。生きてりゃまた会えるさ」
冷たい手が頭をなでる。
たったそれだけのことで、別になんともないはずなのに、小雷はなぜか鼻の奥がつんと痛くなった。




