第二章最終話(七)参道その二
――ゴゥーン……カラン……、ゴゥーン……カラン……、ゴゥーン……カラン……
低い鐘の音が鳴り響く。
エリフは悲しい気持ちで覚醒する。
何故自分は悲しいのだろう。
赤く暗い空を見上げる。
エリフの記憶は激しく混濁している。
しかしエリフはここに来ることが初めてでないことを知っている。
自分はまた死んだのだ。
自分を追う古きもの、巨大な蛙に似た化け物の薙ぎ払う左腕により跡形もなく粉砕されたのだ。
それだけではない。
今回はそれだけではない。
記憶の混濁の中、自分が取り返しのつかないミスをしたことを感じ取る。
しかし、混濁した記憶の中、すべてが曖昧で思い出せない。
思い出さなければならないのに思い出せない。
こんなにも重要なことなのに。
――ゴゥーン……カラン……
鐘の音が鳴り続ける。
エリフは人が一人入るにはやや大きい横たえられた箱の中に寝ている。
着衣はよく判らないが大きなゆったりとした黒い布で覆われている。
エリフは悲しい気持ちで身を起こす。
桟橋に細い石畳の通路がどこまでも続く。
左右に赤い水が海のように広がる。
エリフはここでなすべきことを知っている。
しかし、必ずしもなさなくてはならないわけでもないことを知っている。
暫しの逡巡の後、それでもエリフは立ち上がる。
そうだ、今回は重要な使命があるのだった。
よく判らないが、重要な使命が。
エリフは後ろを見ない。
後ろには巨大な黒い狼に似た化け物がこちらを見ているはずである。
しかしエリフは今は気にならない。
大事なものを落とさないように、エリフは左手を見る。
そして右手を見ずに強く握る。
エリフは棺桶に似た箱から踏み出で、桟橋に似た石畳の通路を歩く。
通路は殆ど左右の赤い海と高さが変わらない。
左右の海面は全く波がなく絹布のようだ。
エリフは狼の化け物を背に、通路の左側に沿って右手を庇いながら素足で歩き出す。
座っていた狼の化け物はゆっくり立ち上がり、エリフを見る。
そして距離を取ってエリフの後を追う。
十三歩歩き、エリフは進路を七十二度左に向ける。
そして赤い海の水面の上に歩を踏み出す。
エリフは海面すぐ下の見えない足場を、通路に対して七十二度の角度を保って歩く。
鐘の音が鳴り続ける。
狼の化け物も海面の道を付いてくる。
赤い海面は細かく波立つ。
エリフは右手を庇いながら歩く。
エリフは海面の道を歩いた後、また七十二度左に進路を変える。
赤い海面は荒れ始める。
エリフは右手を庇いながら歩を進める。
――ゴゥーン……、ゴゥーン……、ゴゥーン……
低く鳴り響く音はだんだんと短い打鐘へと変わってゆく。
狼の化け物は距離をとりながらエリフが通った道をトレースする。
赤い海面の波はエリフを拒むようにうねる。
エリフは暫く歩いた後、また七十二度左に進路を変える。
赤い海面は大きく激しく揺れ、波はエリフの腰の高さにまで達する。
エリフは右手を左手で庇いながら進む。
進む先、波間に海面が長方形に落ち込んでいる。
長方形の手前、短辺の中央付近に下へ降りる階段が見える。
そして長方形の各辺から赤い水が滝のように落下してゆく。
エリフは階段を降りる。
途中水のカーテンを潜り、先へ先へと歩を進める。
――ゴゥーン、ゴゥーン、ゴゥーン、……
鐘の音は連打に聞こえる。
ぬかるむ階段をエリフは慎重に降りる。
狼の化け物が後ろに付いてくるのが気配で分かる。
どこまでも続く階段を無視して、エリフは左方向、何もない空間に右足を踏み入れる。
エリフは見えない階段を、下へ下へと降りてゆく。
――グァン、グァン、グァン、グァン、……
鐘の音は激しい連打となる。
エリフは煩さに耐えがたいものを感じる。
後ろには狼の化け物が付いてくる。
エリフはさらに七十二度左に方向を変える。
見えない階段がエリフの足下に続いているようだ。
エリフは銀色に光る床に辿り着く。
エリフは床に左足を進める。
踏み込んだ左足は床に張り付く。
エリフは左足を前に出す。
エリフは無理やり右足を床から引き剥がす。
右足のあった場所には右足の裏の肉片が薄く残る。
エリフは右足を左三十六度の鋭角方向に進める。
いつもに増して身が重い。
こんな事は初めてだ。
何でだろう?
エリフは考える。
考えるが、思考は混沌として空回りする。
でも大事なものだ。
大事なものだから。
エリフは床に張り付く左足を引き剥がし、前に進める。
左足の足裏の肉が床に残る。
もっと大きく歩を進めなければならない。
できるだけ前に、効率よく。
進むたびに肉を失い、足の先は既に足首を失い、更にその先もなくなる。
耐えるのだ。
未だ倒れるわけにはいかない。
エリフは気力を振り絞る。
エリフは光る銀の床の縁を、ヨタリ、ヨタリ、と抜け出る。
眼下遥か遠くに、大小の銀色の、鈍色の球体がひしめき合って時には暗く、時には眩しく、明滅している。
遠近感を狂わすその光景は無限に続く。
エリフは右手に抱えるものを庇いながらまっすぐ先を見る。
この先に行かなければならない。
既に膝から下が失われている。
エリフは左手を見えない床につく。
残っている両足と左手で先に進む。
狼の化け物は銀色に光る床に留まり、エリフが這うのを見る。
見えない床に、エリフの足の肉が、左手の肉が剥がれ落ち、残る。
エリフの手や残る足は見る間に削られてゆく。
それでもエリフは前へ、前へと進む。
――ガンガンガンガンガンガンガン
鐘の音は既に鐘の音ではなくなっている。
ただただ恐ろしい轟音となってエリフを苦しめる。
エリフは左半身を床に付け、左半身を削るようにして前に進む。
ダメだ。
光の中に辿り着けない。
こんなことは初めてだ。
でももう良い。
エリフは右手に抱えているものを、大事なものを運ぶことに成功したのだから。
エリフは右手に抱えているものを光の中に投げ入れる。
もう頑張らなくて良いのだ。
もう終わりにできるのだ。
無念と安らぎがない交ぜになった気持ちがエリフを包む。
もう頑張らなくて良いのだ。
終わってしまう。
もう終わりにできるのだ……。
エリフは動くことを止める。
そのとき、光の中から小さな手が伸びてきて、エリフの右手を掴む。
そして光の中からもう片方の手が伸び、エリフを光の中に引き込む。
――ガガガガガガガ
凄まじいばかりの光と音がエリフを包む。
何だ?
今のは?
このようなことがあり得るのか?
エリフは体が分解されていくのを感じる。
精神が分解されていくのを感じる。
凄まじい違和感の中、いつしかエリフの肉体と精神は輪郭を失い、融けて消えていく。
光の中に。
光の海の中に。




