第二章第二話(六)どこにも行かないで
「私が必要以上に大きな魔法を使ったのが良くなかった。
おかあさんを死なせてしまった」
エリナはエリフの顔を見る。
「もう二度と死なせたりはしない!」
大きな目で涙を流し、くしゃくしゃになった泣き顔で、絶対に死なせたりしない! と繰り返す。
エリフはそんなエリナに微笑む。
エリフはエリナの手を曳き、先を歩く。
先のほうの地面が黒ずんでいる。
血痕である。
エリフが蚯蚓の化け物と対峙した先だ。
エリフはしゃがみ、その血痕に左手を添える。
左手から黒い煙のようなものが沸き立つ。
――シュパッ!
銀色の閃光が瞬き、女性の像が浮かび上がる。
この血痕の主の像である。
長身で髪の長い美貌の女性だ。
髪も肌も、衣服さえも白銀に輝いている。
エリフは得心する。
やはり貴女だ……。
「おかあさん!」
エリナは女性の像を見て叫ぶ。
女性の像は緩やかに輝きを失い、やがて消えてゆく。
エリフは認める。
確かに銀色に輝く光の像の女性は自分に似ていなくもない。
しかし、もっと似ている人物をエリフは知っている……。
そうか……、貴女がこの子を私に託すというのなら、私はこの子を私の娘としよう。
「記憶はないが……、私は君のおかあさんだ」
エリフはエリナを見て宣言する。
エリナはエリフを見つめ返す。
そして再び、おーい、おーい、と泣き始める。
エリフはエリナの手を握り、先を促す。
エリナは、ヒック、ヒック、と嗚咽しながら手を曳かれるままに付いてゆく。
小一時間ほど沢を登り、斜面を登り、小屋に着く。
ログハウスだ。
エリナたち母子の住処であるらしい。
エリナは扉を開き、エリフを招き入れる。
「今日は私が作る。
食べてくれるだろう?」
エリナはエリフの顔色を窺うように訊く。
エリフは、いただくよ、と笑う。
エリナはエリフの笑顔を見て満面の笑みを浮かべる。
エリナは小屋を出て、忙しそうに働く。
エリフは小川に下りて体を洗う。
周囲には霧が立ち込め、暗い。
エリフが川から上がると、川岸の岩の上に柔らかい布と着替えが置いてある。
エリフが着替えを済ませて小屋に戻ると、エリナは、おかえりなさい、と笑いながらテーブルに料理を並べてゆく。
エリフはそんなエリナを眺める。
「鱒をソテーにした。
この季節の鱒は脂が乗っていて旨い。
付け合わせは山芋だ。
鳥の油で素揚げにした。
そして季節の野菜と鳥肉のスープ。
パンには胡桃とチーズを入れた」
出てきた料理はエリフが想像していたよりも遥かに見栄えの良いものである。
「凄いね。
いつも君が作っているの?」
エリフは感心して言う。
「おかあさんと交代でだ。
さぁ、食べてくれ」
エリナは大きな目を見開き、鼻を膨らませて自慢げに料理を勧める。
エリフは料理に口をつける。
旨い。
「美味しいよ。
有難う」
エリフはエリナの料理を食べながら周囲を見渡す。
棚には人体や医学に関する本、魔法や宇宙、数学や物理、化学に関する様々な本がおかれている。
「おかあさんの本?」
エリフの問いにエリナはコクリと頷く。
棚には妊婦をモチーフにした木彫りの人形も並べてある。
エリフは無言で人形を眺める。
「その……、外は暗くなってきた。
別に出発は明日でも良いのだろう?」
エリナは上目遣いにエリフに訊く。
季節は秋、山の陽は短く夜は早い。
窓から見える空は曇天模様である。
エリフは、そうだな、出発は明日にしよう、と応える。
エリナは安堵したように微笑む。
「そっちの部屋がおかあさんの部屋だ」
エリナは左の手前の部屋を指さす。
そしてこっちが私の部屋だ、と続けて左の奥の部屋を指さす。
「右側の部屋は?」
リビングを挟み部屋は左に二つ、右に二つある。
「客間だ」
エリナは興味なさそうに短く応える。
「では客間を借りよう」
エリフは当然のように言う。
エリナはエリフの言葉が心底不思議だというように首を傾げる。
「なぜだ?
自分の部屋で寝れば良いじゃないか」
エリナは立ち上がり、『おかあさんの部屋』の扉を開ける。
中は綺麗にメイクされたベッドと小さな机、クローゼット、そして立てかけられたリュートがある。
エリフはリュートを手に取り、チューニングを確かめる。
その姿を見て、エリナは嬉しそうに部屋を出てゆき、陶器のフルートを持って帰ってくる。
エリフは愕然とする。
そのフルートは……。
エリナはフルートを左に構え、吹き始める。
美しい旋律が流れる。
エリフはフルートの音を邪魔しないように低い旋律であわせる。
リュートの泣くような音色がフルートと調和して響く。
フルートの旋律はやがて早く明るいものになって踊りだす。
エリフのリュートは陽気なリズムを刻む。
エリフは確信する。
ああこの子もまた確かに私の系譜だ。
フルートの音色は悲しく美しいものに変わる。
葬送の曲だ。
エリフのリュートは低い単調な伴奏となる。
フルートの音は優しく静かに響き、やがて終わる。
エリナは涙を溜め、エリフを見る。
「やっぱりおかあさんだ。
間違いない」
エリナは泣く。
「おかあさんごめんなさい。
おかあさんごめんなさい。
もう会えないかと思った。
また会えてよかった。
本当によかった」
エリナは呟きながら泣く。
エリフは泣き続けるエリナを自室に届け、自分も『おかあさんの部屋』のベッドに潜り込む。
エリナのおかあさんは二日前までこのベッドに寝ていたのだろう。
しかしこの部屋に彼女の痕跡は残っていない。
このベッドに彼女の匂いは残っていない。
この部屋はまるでエリフのために用意されているかのようだ。
消える自分の代わりに。
――トントン
部屋の扉が叩かれる。
エリフは、どうぞ、と応える。
扉が開く。
「おかあさん……。
一緒に寝て欲しいんだ……」
エリナは寝間着姿で枕を持って立っている。
目は泣きはらしたように真赤だ。
「判っている。
もう大きいから一人で寝なければならないんだろう?
でも今日だけで良いから一緒に寝て欲しいんだ」
エリナはもごもごと暗い顔で口ごもる。
「いいよ、一緒に寝るとしよう」
エリフがそう言うと、エリナの顔はパッと明るい表情になる。
いそいそとエリフの寝るベッドに近づき、エリフの横に潜り込む。
「ありがとう、おかあさん」
エリフの横で掛布団から顔を出し笑う。
「眠っている間におかあさんが居なくなりそうで……」
エリフは頬杖をついてエリナの顔を至近距離で眺める。
「大丈夫。
居なくなったりしないよ。
だからもう目を閉じてお眠り」
エリフの言葉にエリナは素直に目を閉じる。
「おかあさんも、弟子も、一緒にここに住めばいいじゃないか。
別に他所に行かなくても良いのだろう?」
エリナは眠そうな声で提案する。
エリナはもうずいぶん長い間寝ていないのだろう。
もうお休み、エリフは眠るよう促す。
もうどこにも行かないで欲しい、エリナはそう呟き、静かになり、そして寝息をたてる。
山の秋、虫たちの鳴く声が聞こえる。
静かに山の夜は更けてゆく。




