第一章第三話(四)夕食の献立
タイトルを変えました。
「まさかこの空間でお茶が飲めるとは思わなかった。
しかもこんなに美味しい」
エルザとエリーはリビングに戻り、テーブルを囲んでいる。
トニーが用意したお茶が暖かい。
エリーはカップを口に運びながらトニーに礼を言う。
「予定では後何週なのかい?」
エリーが訊いているのは出産までの週数だ。
「良く判っていないのよね。
多分あと七・八週くらいはあると思うのだけれど」
エルザの応えはなんとも頼りない。
「後で診察をさせてくれ。
内診すれば何週か判る。
他にも君の健康や胎児の状態を診る必要があるしね」
エルザは、お願いするわ、と言う。
トニーも、やはりそういうものが必要なんだろうなぁ、と頷く。
「お産はどこの部屋でするのだ?
暖かくて、水桶などが置ける広い場所があると良い。
このリビングでも良いな」
エルザは、そうね、と言って言葉を濁す。
どうもエルザは夫婦の寝室で出産を考えていたらしい。
エルザはエリーにすべて任せることを決心する。
「うん、任せてくれ。
必要な道具も用意するよ。
ここに泊めてもらう間の炊事と洗濯も任せてもらって構わない」
エリーは薄く微笑みながら大変そうなことを簡単に請け負う。
厨房を乗っ取られることに抵抗を感じる。
大変なので申し訳ない気持ちもある。
しかし最近頓に家事が大変になってきたことを自覚していたので助かる気持ちもある。
尤もエリーの腕前次第ではあるのだけれども。
「ところで、こっちで産もうと決めた理由は古きものの追跡から逃れるためか?」
「――!」
エルザは身構え、夫を見る。
トニーはエリーを凝視する。
「似た話を良く聞くのでね。
空間魔法も禁呪の一つだから、大きな力を多用するとやつらに目を付けられてしまうのだろう?
せめて出産前後の身動きが取れない間、こっちに居ると決めたわけだ?」
エリーは茶飲み話にしては恐ろしいことを口にする。
そうだ、まさにエルザが怯え逃れてきたのは古きものからだ。
「貴女は古きものに詳しいの?」
「幾柱かは見たことがある。
特に蛙には何度も痛い目にあっている」
エリーは軽くそう言う。
古きものに何度も痛い目にあって生きているほうがどうかしているとエルザは思う。
「私は蚯蚓に目を付けられてしまった」
そう言うエルザの目は泳いでいる。
古きものに邂逅したものは恐怖を精神に刻まれてしまう。
「蚯蚓……、なるほど」
エリーは暫し空中を見て考える。
「すまなかった。
胎教に良い話題ではなかったな。
厨房を教えておくれ。
炊事の準備をする」
エリーは立ち上がりながらそう言って、二人に薄い笑顔を向ける。
エルザはつられて立ち上がる。
二人は連れ添ってキッチンに向かう。
「二人が食べられないものは?」
エリーは二人に訊く。
特に二人とも採食主義者であるわけではないし、宗教上の理由で食べられないものもない。
しかし妙なクリーチャーを調理されても困る。
エルザは、普通に食べられるものが良いのだけれど、と最低限のリクエストをする。
「確かに。
鳥はどうだろう?」
エリーは微笑みながら尋ねる。
カラスとかでなければ、とエルザは応える。
エリーは、承知、と言って出ていき、さほど時間をかけずに鴨と思われる鳥と何かの果実、それに香菜を持って帰ってくる。
その後もエリーは何回か外に出て、水や食材を調達する。
エリーの行動は早く謎めいている。
「良いよ、座っていてくれ。
捌くところを見ると気分が悪くなるかもしれない」
そう言ってエリーはエルザを厨房から追い出す。
エルザは厨房が気になりながらもリビングで夫と共に待つ。
しばらくして料理が運ばれてくる。
「この空間では穀物の入手が困難であることが課題だね」
エリーはそう言いながら料理を並べる。
ソテーされた鴨肉、豆、果実にスープである。
「この果実は杏子に似た味がする。
鴨のソースにも加えてある。
スープも鴨と香菜だ。
味付けは岩塩と香辛料少々」
エリーは料理の説明をしながらエルザとトニーに勧める。
二人は、頂きます、と言って手を合わせた後に食べ始める。
「上品な味ね。
美味しいわ」
エルザは予想外にエリーの料理が高級感のあるものであったので驚く。
「君の料理も美味しいけれど、エリーの料理もいけるね」
トニーはエルザに気を使って微妙な言い回しをする。
「君たちの習慣としている食事は非常に腹の子に良いものだと思うよ。
糖質が抑えられているし、葉酸も十分に含まれている。
しかし多少蛋白質を増やしたほうが良いと思う」
エリーはエルザに優しく語りかける。
エリーが言うには、腹の子は足りない栄養を母親から奪い取ってしまうそうだ。
カルシウム、マグネシウム、鉄分、亜鉛、各種アミノ酸。
その結果、産後母親の健康に関わってくるらしい。
本当は豚肉などがあるといいのだけれどね、とエリーは付け加える。
もちろん、豚肉を入手するのはこの空間では困難だ。
だからエルザの夫は豆の栽培を行って植物蛋白を確保しようとしている。
しかし日照の関係であまり育ちが良くない。
しかしまあ、座っていてこのレベルの食事が出てくるのならば楽だなあ、とエルザは堕落への誘惑を感じる。
三人は食事を終え、歓談する。
トニーは軽くアルコールも入り、エリーへの警戒も薄れてきているように見える。
「湯は張っておいたよ」
エリーは二人に入浴を勧める。
この家にはシャワーは無く、大きな桶に張った湯で体を洗う。
大きな桶に川の水を満たすのは重労働であるはずなのだが、エリーはその作業を既に終わらせている。
エルザはいつの間にと訝しむ。
しかし、もはやエリーのやることに一々驚くのが莫迦ばかしくもなっている。
エルザとトニーは風呂場に消える。
エリーは食器の片付けを済ませる。
エリーはナイフと木片を取り出して床に置き、リビングの床に直に腰を下ろす。
エリーは木片を器用にナイフで削り始める。
木片は瞬く間に人形に削られてゆく。
人形は三頭身で乳房と大きな腹をもつ、恐らくは妊婦の形をしている。
数体同じものを削り上げ床に並べる。
木くずを集め、人形を持ち、ドアの外に出る。
外は夜の帳が降り、冷たい冷気が霧とともに漂っている。
エリーは外に消える。
直ぐに戻ってきたが人形と木くずはない。
こうして、トニーとエルザの夫婦、そしてエリーの三人の奇妙な共同生活が始まった。




