第五章最終話(十六)救いの大蛇
「ぎやー、もうダメです、もうダメですー!」
マロンの絶叫か続く。
ソニアは気にならない。
暴風雨の轟音がマロンの絶叫をマスクしているからだ。
猛烈な雨が下から、横から、方向が全く分からないまま擲り付けられる。
マロンの絶叫は途切れ途切れにしか聞こえない。
ソニアはマロンを左手に抱きかかえる。
そして忌まわしき大蛇の背、首のやや後ろに跨っている。
大蛇の背に列をなして連なる棘に似た大きな突起の一つに右手で必死にしがみついている。
(またしても蛇!)
ソニアは棘に額を当て、必死に耐える。
大蛇? 蛇なのだろうか?
かつて光の谷で『単翼の闇蛇』に遭遇した。
『単翼の闇蛇』はサイズこそ途方もなかったが蛇であった。
しかし今、ソニアが跨っているもの、この悍ましきクリーチャーはソニアが知っているどんな蛇の概念からもかけ離れている。
「お使いって、何をすれば良いのでしょか?」
ほんの数十分前の会話だ。
不気味に光る肉の壁の洞窟。
ソニアはマロンを抱え、長身の女と向き合っている。
「南海の上空に開かれつつあるゲートをね、閉じて欲しいんだ」
長身の女、ナーブは気軽に言う。
「ゲートって、例の外界からの干渉ですか?」
ソニアはラビナとジュニアの話を思い出す。
数か月前、ジュニアが初めてラビナに誘われて夢幻卿に行った際に、巨大なゲートが天空に開かれたという。
その時はラビナの銃によりゲートは閉じられた。
「おお、真の救世主は何でも知っているのだな、そのとおりだとも」
ナーブは満足そうに微笑む。
「私は南海まで行けません」
「もちろん足を貸してやる、救世主よ」
ナーブは陽気に返し、右のほうに移動する。
その先には肉の壁に埋め込まれた石の扉が現れる。
「シャ……、シャンタク鳥ですか?」
ソニアはアムリタが乗っていたグロテスクなクリーチャーを思い出す。
アムリタの言葉が正しければ、見た目よりも優しい性格をしているらしい。
「いいや、彼のものは雨の中を飛べぬ。
今回は役に立たぬな。
なに、もっと適した足がある。
安心せよ、救世主よ。
お前の僕として使うが良い」
ナーブはソニアを手招く。
ソニアは慎重に扉に近づく。
ナーブの長い手がソニアの背に回される。
(なんでも良い、ここから脱出しなければ)
ソニアは扉が現れたことに希望を持つ。
扉が開かれる。
――ブワッ!
雨交じりの激しい風が吹き込む。
気圧が体調を狂わすレベルで下がる。
体感温度も三十度下がる。
扉の向こうには――!
視界を遮るような豪雨と強風、暴風雨。
途切れ途切れに見え隠れする荒れ狂う大海原。
早い速度で形を変え続ける暗雲。
すべてが彩度を無くす灰色の地獄。
「ひいぃ!」
ソニアは声をあげてしまう。
しかし無慈悲にナーブの手がソニアの背を押す。
「それではよろしくお願いするよ、救世主」
ソニアは扉から押し出され、落ちてゆく。
「ひいぃぃぃぃー!」
ソニアとマロンの絶叫は暴風雨の中に消えてゆく。
ソニアは下を見る。
はるか下、風雨の中に激しく波打つ海面が見える。
ソニアは上を見る。
大きな黒い影が動いている。
「早く!」
ソニアは大きな影に向かって叫ぶ。
影はうねりながら、ソニアの落ちる右側を下り、ソニアの下に潜る。
ソニアは影の実態を目視してしまう。
大きな長い体躯を持つクリーチャー。
その体躯には数十センチほどの円錐状の棘が無数に並ぶ。
その先頭には数メートはあろうかと思われる巨大な頭部が有る。
頭部には二つに避けた口があり、無数の牙が頭部の棘と堺なく続く。
長い体躯は激しくうねり、ひとときも同じ体勢でいない。
大蛇の背には体躯と同様の長さをもつ薄い帯が生えていて、周囲に螺旋を描いて旋回する。
蛇ではない。
御伽噺に出てくるドラゴン、もしくは竜といったものが、やや近いかもしれない。
しかし多少の憧れを感じるそういった概念で代用したくない悍ましさを全身に纏っている。
どこまでも禍々しく、異様な動きで空中を彷徨う四肢無き蛟、やはり蛇というべきだろう。
翼のある蛇の化け物、空飛ぶ大蛇のクリーチャーである。
クリーチャーは翼の旋回を止める。
大蛇は頭を下に落下する。
長大な体躯と二つの薄く長い帯が三本の黒い筋となり下から上に向かって棚引く。
大蛇の頭部後方数メートルの体躯がソニアの直ぐ傍に迫る。
「うわあああー!」
そのクリーチャーの背、頭の後部に生えている棘がソニアの至近で共に落下する。
ソニアは絶叫しながら、棘の先を右手で掴み、引き寄せる。
「乗ったわ! 姿勢を立て直して!」
ソニアは大蛇に跨り、叫ぶ。
ソニアの声に呼応するように大蛇は首を持ち上げる。
翼の旋回が再び始まる。
再び大蛇の全体が激しくうねりだす。
長い翼はくねる体躯に合わせて激しく螺旋の旋回方向を変える。
翼は暴力的に空を裂きながら巨体を空中に留める。
しかし首の後方、ソニアが掴んでいる部分の動きは比較的穏やかだ。
大蛇は激しく波打つ海原を掠め、波飛沫だか飛雨だか分からぬ大瀑布の中をうねりながら上昇する。
四方は等しく土砂降りの灰色の世界だ。
――ビガッ!
――ドオォン!
激しい稲光は頻発し、時には同時に、時には遠くに雷鳴を伴う。
「ひいぃぃぃ!」
マロンは怯え、叫ぶ。
ソニアは着ている貫頭衣の帯を外し、マロンとともに巻き直す。
ソニアはマロンを胸の下に隠すように覆いかぶさり、棘にしがみ付く。
「話が違う!」
ソニアは叫ぶ。
マロンは、はいー? なんですかー? と問い返すように叫ぶ。
「ジュニアの話では!
あの人、もう少し話の分かる人のはずだったんだけれど!
問答無用で地獄送り!
この待遇の違いは何なのよー!」
ソニアは絶叫する。
暴風雨に曝され、全身ずぶ濡れだ。
体は既に冷えきっている。
叫ばなくてはやっていられない。
「ウオォォッ!」
ソニアは叫ぶ。
叫びは無慈悲に荒の混濁の中に飲み込まれてゆく。
「ソニア! 何か聞こえます!」
マロンがソニアの咆哮を遮るように叫ぶ。
ソニアは叫ぶのを止め、聞き耳を立てる。
嵐の轟音しか聞こえない。
いや、微かな、しかし騒がしい声が聞こえてくる。
――……なんか声が聞こえたのにゃ……、行ってみるのにゃ……
――って私にはなにも聞こえなかったけれど……
――もう何だっていいわ……、もう藁にでも縋りたい……
――ふぎゃ! なんか凄いのが居るのにゃ、でっかい化け物なのにゃ
――ひぃ……、もう勘弁してよ……、私はもう駄目……、もう戦えない……
――あ! ソニアにゃ、ジュニアの妹のソニアにゃ。
――ソニアが化け物に乗っているのにゃ
ソニアは視界不良の嵐の先に空中に浮かぶ少年を見る。
全身ずぶ濡れになって自分より大きなものを背負っている。
濡れて貌に張り付く髪は青い。
「――アオ!」
「――ソニア!」
ソニアとラビナの声が交差する。
ソニアは大きな荷物を背負う地球猫の少年、アオを認識する。
アオは荷物と一緒にラビナを背負っている。
ラビナはびしょ濡れで、顔はくしゃくしゃに泣き崩れている。
お世辞にも美しいとは言えない。
アオも情けない泣き顔で大蛇に跨るソニアに近づいてくる。
「ちょっと乗せて貰いたいのにゃ」
アオは激しく空中を旋回する大蛇の翼を難なく潜り抜け、ソニアの真後ろにラビナを降ろす。
「た、助かった……」
ラビナは大蛇の背に跨り、大蛇の棘に抱きつく。
「危ないところだったのにゃ」
アオは大荷物を背負ったままラビナのすぐ後ろに跨る。
「ああ、この大蛇、温かい。
まさに地獄に仏、救いの神、ありがたやありがたや」
ラビナは嗚咽交じりに大蛇の体躯に抱きつく。
アオもまた大蛇に抱きつき、暖を採っているようだ。
「ちょっと貴女たち、どういうこと?」
ソニアは体を捻り、ソニアを見る。
「お願いだから乗せていって。
後生だから……」
ラビナは涙ながらに哀願する。
全身を大蛇にくっ付けてガタガタと震えるさまは憐憫を誘う。
「マロン……、私たちってこれでもかなりの好待遇だったみたいよ」
ソニアは前屈みになってマロンの耳元で囁く。
「はあ……?」
マロンは納得いかないという体で生返事を返す。




