第五章最終話(十二)北極の眼
――崩壊歴六百三十四年七月十日午後一時半
「見て、地球があんなに青くて、大きくて!」
アムリタは大きく体を捻り、背もたれ越しにルークに向かって笑いかける。
ルークは引きつった顔で頷く。
同意はする。
確かに後ろを振り向けば風防越しに飲み込まれるような大きさの地球がそこにある。
高度約千キロ、これだけ離れて地球が星であることを実感できる。
しかし視界全体に広がるほど大きい。
大気が太陽光を散乱させ、青く輝いている。
局地的に発生している雲の模様が、海や大陸を部分的に覆い隠す。
そこには美しさ、偉大さ、そして引き寄せられ、落下を連想させる恐怖がある。
しかしルークはアムリタに前を向いていて欲しい。
アムリタがリフトのパイロットであるからだ。
操縦士席に座るソニアは寝ている。
今は副操縦士席に座るアムリタがこのリフトの命運を担っている。
そのアムリタが前を見ていない。
だからルークの気が休まることはない。
「オートパイロットなのは分かったんだけれど、でも万が一に備えて前に注意しておいたほうが良いと思うんだ」
ルークは何度目かのお願いをする。
リフトはほぼ自動操縦であるという。
リフトは二対の対向する車輪が天垂の糸のリボンを挟み、回転することにより推力を得る構造だ。
リフトは複雑な動きをしている。
天垂の糸に対する姿勢のコントロール。
天垂の糸からの逸脱防止ガイドはジョイントを乗り越えるために開閉される。
その動きは精密で早い。
この機械が故障したらどうなってしまうのだろう?
ルークはジョイントが迫るたびに手に汗を握る。
Gは座席の背後、地球方向やや西に向かって働いている。
既に進行方向への加速は終わっている。
時速六百キロメートルを超える速度での巡行。
地表は秒速四百七十メートル毎時で宇宙空間を回転移動している。
静止衛星の回転速度は秒速約三千百メートル毎時である。
天垂の糸に等速で登るということはすなわち、重力に逆らいながら回転方向に加速し続けることと同義だ。
地球への重力が減る半面、回転方向逆側への加速Gが支配的となってゆく。
加速Gを座面下方向で受け止めるべく、リフトは地球の回転方向、天垂の糸の東側にへばり付いて登る。
右舷後方の地球は陸半球、左舷後方にはどこまでも続く海が見える。
今はまだ地球の重力が支配的である。
前席の者が何かを落とすと、後部座席方向に落ちてゆくことになる。
危険を避けるため、背もたれの周囲にはネットが張ってあり、落下物を受け止める。
後部座席は食事などの為に垂直方向に座席全体を回転できる仕様だ。
しかし前列、操縦士席にはそのような機能はない。
背もたれの角度を変えられるだけだ。
眠るソニアの座席はほぼ垂直だ。
この状態でソニアの体重は背もたれ方向にかかっている。
アムリタの体重も同様だ。
ルークは背もたれ越しに目をキラキラさせているアムリタの顔を見ている。
明らかにシートベルトをしていない。
アムリタがネットを突き破り、降ってきそうで危機感を覚える。
「大丈夫だいじょうぶ。
ジュニアとソニーが整備したリフトだから。
前のリフトが緊急停止しても追突せずに止まれる距離、空けているし」
アムリタにはルークの感じている怖さはなかなか伝わらない。
ルークの怯えの対象はジュニアやソニアの仕事の成果ではない。
目の前で優しく微笑む、年長の少女の無邪気な行動が怖いのだ。
居た堪れなくなって右に座るフィーを見る。
しかしフィーはルークの感じている恐怖を共有してはくれない。
フィーもアムリタ同様、体を捻り、右舷後方を見ている。
「人生においてこの高さから地球を見下ろせる機会なんてそうはないのだから。
ルークもよく見ておいたほうが良いわよ」
アムリタはうっとりした目で地球を見たまま勧める。
ルークとしても同意する。
だがそのためにもアムリタには前を見ていて欲しい。
「あそこ」
フィーが右舷後方を指さす。
「どうしたの? フィー?」
アムリタはフィーの指さす方向を見る。
「時々光るんだ」
フィーは指さしたまま呟く。
「ふうん?」
アムリタはのそのそと移動し、眠るソニアを乗り越えて右舷の窓を覗く。
フィーの指先は地球の緩やかな地平線の先、北極方面、厚い雲に覆われた北極方向を示している。
アムリタは暫くの間、目を凝らすがフィーの言う光は感じ取れない。
「私には見えないわ、フィーは目が良いのね。
どのような光?」
アムリタは問う。
「破壊の光、危険な光。
何か大きなモノが居るみたい」
フィーは応える。
「連環山脈中央の眼のことかしら? 光るの?」
アムリタの口調はやや低いものになる。
「眼? やっぱり何か居るんだ?」
フィーはアムリタに向き直る。
「北極に封印されている神さま……、なのかな?
北極はアメイジア大陸のほぼ中央に位置するのだけれど、そこにね、荒ぶる神さまを封印したんだって、六百年くらい前に」
「神さま?」
アムリタの言葉が分からないというようにフィーは問い返す。
「まあ、神さまというか邪神さまと言うか……、桁違いに大きな力を持った化け物というのかな?
それこそ地球を砕くほどの力を持った存在だそうよ」
アムリタは自信無さげに説明する。
「地球を砕く……? そんな相手をどうやって封印したの?」
フィーは重ねて訊く。
「さあ? 六百年前は六百年前で何かあったのかな?
私も良く知らないの、ごめんなさいね。
でも、同時期に地軸の移動があったりして地球の人口が激減してしまったそうよ」
「地軸の移動……、神さまを北極に閉じ込めるために地軸を移動させたということ?」
フィーは問う。
口調は単なる確認のためのように聞こえる。
「させたってまさか……、偶然だと思うけれど。
人為的な地軸の移動とか……、そんなことできるはずないわよね?」
アムリタは同意を求めるように操縦士席のほうを向く。
寝ているソニアは反応しない。
「地軸を移動……、この星の? そんな力が……?」
フィーは口の中でなにやらを口籠る。
「あ……、えっと、詳しく聞きたいのならジュニアかエリーならもう少し知っていると思うの。
訊いてみる?」
「ううん、いい。
自分で調べるから」
フィーはアムリタに向かって微笑む。
「ひゅえ? そう?
でもどうやって調べるのかしら?」
アムリタは合点いかぬ口調で問い直す。
フィーは穏やかな笑顔で笑うのみで応えない。
「うーん、あまり危険なことしないでね。
北極の神さまは地球を砕くほどの力をもっているんだって。
封印されてなお強大な力を持っているわ。
近くに寄ると焼かれてしまうというお話よ」
アムリタは心配そうにフィーを見る。
フィーは、わかった、と笑う。
「この星に人間が六千万人、鳥や魚、動物……。
それだけでも凄いのに神さまもいるんだね……、それも沢山の。
凄い星、凄い惑星……」
フィーは風防に張り付き、地球を見つめながら呟く。
アムリタは頬杖をついてフィーを見つめる。
ルークはアムリタに前を向いて欲しいと切に願う。




