第五章第三話(十三)私はここよ
――崩壊歴六百六年の六月二日午前五時半
マリアは目覚める。
昨日の惨事が急激に思い出される。
周囲を見る。
ヨシュアが居ない。
リリィもだ。
マリアは慌てる。
自分が寝ている間に二人に何かあったとしたら……。
マリアは吊ってあるパラシュートの生地を忙しく除ける。
暗い中に焚火が見える。
まだ明けやらぬ湖岸、空はどんよりと曇っている。
「マリア? おはよう」
未明の湖畔、その斜面でヨシュアがマリアに振り向き、朝の挨拶をする。
ヨシュアは足を胡坐にして座り、膝の上にはリリィが座っている。
ヨシュアはリリィの口に木でできたスプーンを送っている。
「おはよう、ヨシュア。
そのごはんどうしたの?」
マリアはヨシュアがリリィに食べさせているオートミールと思しき器を指さす。
「これ? オーラが作ってくれたやつ」
ヨシュアは木のスプーンで焚火を指さす。
いや焚火ではない。
簡易的な竈になっていて鍋が火にかけられている。
その鍋を鉛色の筒に手足を生やしたものが棒でかき混ぜている。
リリィは、あー、だー、と言いながらスプーンを催促する。
「オーラ? あれが?」
マリアは鉛色の筒に手足を生やしたものを見る。
鉛色の筒の上辺にある赤いランプが明滅する。
『オーラダヨ、ヨロシク。
ホンタイデハナクテ、インターフェースダケレドネ』
銀色の筒はデフォルメされた表情でウインクを作る。
「インターフェース?」
マリアは問い返す。
銀色の筒は暫く体を斜めにしているが、再びランプを明滅させる。
『ソウ、インターフェース。
コノロボットハ、「フォワード」トイウナマエガ、アルンダ』
「フォワード?」
マリアはオウム返しに訊く。
ロボットは、コクコク、と頷く。
今度の返事は早い。
アウラと名乗るロボット、フォワードはマリアに器を差し出す。
中には麦と野菜を煮た、シチューが入っている。
「ふうん? ありがとう。
よろしくね」
マリアは受け取りながら、湖岸を見る。
たらいのような小舟が陸揚げされている。
「あのたらいで来たの?」
マリアはスプーンで小舟を指さす。
『ソウ、ショクジノデリバリートアカチャンのオムカエ』
フォワードはニコニコ笑いながら緩慢に応える。
「ふうん? 確かにリリィなら乗れそうね」
オーラは小舟を用意した。
その小舟で朝食を運び、再びリリィを乗せて対岸に渡る作戦のようだ。
「私たちはどうすればよいの?
泳げば良いのかしら?」
マリアは訊く。
「オヨゲル?」
フォワードは首を右に傾け、訊き返す。
「泳げる?」
マリアはヨシュアを見る。
ヨシュアは悔しそうにマリアを見返す。
「そのたらいで戻ってきてヨシュアが掴まる浮きにできないかしら?」
マリアは提案する。
『タキグチヲアルケナイコトモナイ。
サッキ、フォワードガタメシタンダ。
イクツカ、フアンテイナトコロガアルケレド、コドモノタイジュウナラ、ダイジョウブ』
フォワードは赤いランプを明滅させて応える。
「滝口? 渡れるの?」
滝口、滝の水が落下する直前の部分が浅くなっていて、渡れるという。
昨日は滝の激しい落差を見て渡れるかどうかなど考えもつかなかった。
小さなロボットが渡れるのなら、ヨシュアでも渡れるかもしれない。
『ヒトリズツナラ。
デモ、キノウノアメデ、ナガレガハヤクナッテイル。
リスクハタカイ』
「ふうん? これ食べたら試しに渡ってみるね」
マリアはシチューを咀嚼する。
マリアは滝口を横断するべく歩く。
背後の湖岸ではヨシュアがリリィを抱っこしながらマリアを見つめている。
右手には湖面が広がる。
更に奥には別の滝が見える。
左には狭い渓谷がある。
左下にはなにもない。
湖からの流れは緩やかに足元を通り、左下に深く落ち込んでゆく。
確かに歩けなくはない。
滝口は流木と岩、土砂で流れを堰き止めている。
太く長い流木は不安定でマリアの体重をやっと支える。
「まあ、確かにリリィを抱っこしながらは苦しいか……。
でもこれならヨシュアでも大丈夫かな?」
ヨシュアは慎重でかつ行動的だ。
マリアが渡れるのならばヨシュアも渡れる、マリアはそう結論付ける。
マリアは戻る。
『フネヲジョウリュウニイドウサセル。
フォワードガ、リリィヲセオッテ、フネデタイガンマデワタル。
ソノアト、フタリハタキグチヲワタル。
ソレデイイネ?』
フォワードはランプを明滅させて作戦を確認する。
フォワードは櫂を操りながら湖岸に沿ってたらいを遡上させる。
「オーラ、貴方リリィを背負えるの?」
『イガイト、チカラモチナンダヨ』
フォワードはデフォルメされた笑顔を作る。
『サテ、ココカラシュッパツスルヨ。
ナガレニナガサレテ、アソコニタドリツクサンダン』
フォワードは対岸川下の緩やかな斜面を指さす。
『アソコカラ、タキグチニイクニハ、ガケヲウカイスルヒツヨウガアルンダ。
シャメンノウエデマッテイルネ』
フォワードは説明する。
マリアハフォワードの背中にリリィを縛り付ける。
身長はリリィのほうがむしろ高い。
リリィの頭がフォワードの頭上から覗く。
リリィはフォワードの頭をポカポカと叩く。
「大丈夫?
身動き取れないようにパラシュートの生地で包んで、たらいの底に置いておいたほうがよくない?」
マリアは心配そうに訊く。
『ダイジョウブ、ダイジョウブ。
ジャ、イクネ』
フォワードは船に乗り、櫂で湖岸を押す。
船はゆっくりと岸を離れ、進んでゆく。
櫂が右に、左に繰り出される。
然程かからず、船は対岸に着く。
フォワードは誇らしげに両手を振る。
「さてと、私たちも行こうか?」
マリアはヨシュアに向き、言う。
ヨシュアはコクリと頷く。
ヨシュアが先を渡る。
マリアはすぐ後ろに付いて渡る。
「次の足場を確認してから足を上げて。
流れがあるから、体重移動に気を付けて」
マリアは後ろから指示を出す。
二人は確実に歩を進める。
雨が降り出す。
ヨシュアは滝口から顔を出している太くて長い流木の前で止まる。
「その流木には二人は乗れない。
ヨシュア、先ず貴方が渡って」
ヨシュアは頷き、流木に足をかける。
流木が撓る。
静かに体重を移し、流木の上に立つ。
一度マリアを見て、流木の上を歩きだす。
雨が強くなる。
――ドーン!
上流、遠くから異音が聞こえる。
ヨシュアの足が止まる。
「止まるな! ゆっくりと早く、渡りきれ!」
マリアは叫ぶ。
ヨシュアの足が再び動きだす。
「振り向くな! 渡りきることだけに集中しろ!」
激しい雨の中、マリアは叫ぶ。
ヨシュアは対岸左側、滝口のやや下に視線を移す。
ヨシュアは流木を渡りきり、振り向かず歩を進める。
既に豪雨と言ってよいほどの雨だ。
流れは激しくなっている。
マリアは流木の上を足早に進む。
ヨシュアは滝口を渡りきる。
「ヨシュア! 斜面を登れ! 直ぐに!」
マリアはあらんかぎりの力を振り絞り、叫ぶ。
ヨシュアは左手で滝の左下を指さし、マリアを見る。
「マリア! オーラのところに!」
ヨシュアはそう叫んで、走りだす。
再度、オーラのところに! と叫ぶ。
マリアには意味が分からない。
しかし弟が安全なところに逃れつつある。
マリアは気付いている。
湖の上流から茶褐色の濁流が押し寄せている。
上流で、ここと同様の天然のダムが決壊したのだ。
マリアは流木を渡りきる。
しかし対岸までには未だ距離がある。
濁流が、鉄砲水が迫る。
マリアは滝口を対岸に向かって急ぐ。
間に合わない。
マリアは対岸左下を見る。
一体のロボットが居る。
両手を広げて、飛べ、とゼスチャーをしている。
マリアは走る勢いをそのままにロボットに向かって飛ぶ。
距離がある。
届かない。
しかし、ロボットもマリアに向かって飛んでいる。
マリアはロボットを抱きしめる。
ロボットはマリアの体にロープを回し、カラビナで固定する。
ロープが伸びきり、マリアは衝撃をうける。
濁流が滝口を超える。
濁流はマリアの上に降りかかる。
マリアは濁流にのまれる。
濁流に含まれる土砂が、灌木がマリアの体を容赦なく叩く。
マリアはロボットを抱え、耐える。
ロープの端は滝から離れた崖上の木に結わえられている。
マリアの体は濁流から離れ、振り子のように対岸の崖にぶつかり、止まる。
マリアはロープにぶら下がったまま、湖が決壊するのを見る。
「マリア―!」
上からヨシュアの叫び声が聞こえる。
リリィの泣き声も聞こえる。
大量の水が滝口を削りながら落下してゆく。
何もかもが圧倒的な力によって流されてゆく。
いつまでもいつまでも。
マリアは抱きかかえるロボットを見る。
動かない。
酷い損傷を受けている。
「マリア―!」
ヨシュアの声は悲痛に歪んでいる。
「大丈夫! 私はここよ!」
マリアは大声で応える。
ヨシュアは生きている。
リリィも生きている。
私も生きている。
父や母、サラやおじさん、そしてオーラによって生かされている。
――ズズッ……、ズズッ……
暫くして、マリアのぶら下がっているロープが引きすり上げられてゆく。
急峻な斜面は徐々に緩やかになる。
マリアはロープを掴んで斜面に立つ。
ロープを引っ張り上げているのはフォワードであるようだ。
何重かにロープで輪を作り、少ない力でマリアを引き上げる工夫をしている。
その隣でリリィを抱っこするヨシュアが泣いている。
『コウテイガワノ、ショウリダネ』
フォワードのランプがそう明滅する。
「こっちのロボットは?」
マリアは訊く。
フォワードの返事は相変わらず遅い。
『「バックス」ダヨ。
ボクノモウヒトツノインターフェース。
ボクノキリフダ。
ヤクニタッタデショウ?』
フォワードはニッコリ笑い、ウインクをする。
『アカチャンガ、カゼヲヒイテシマウヨ。
ハヤクイコウ。
スミヤキゴヤマデ、スグダカラ』
フォワードは傘をさし、軽い足取りで皆を先導する。




