第五章第三話(十二)湖畔の夜
――崩壊歴六百六年の六月一日午後十時
山谷の斜面に座り、マリアは湖を眺めている。
強い雨が降っている。
大きく張り出した岩の下、直接の雨は凌げている。
しかし時折吹く風がマリアの顔を濡らす。
雨露を凌げるようにパラシュートの生地を吊っている。
下に敷いているのも同じ生地だ。
多少のクッションを期待して草を積んだ上に敷いている。
しかし固い。
そんな即席のテントの中でヨシュアとリリィが寝ている。
ヨシュアはリリィを抱きかかえるようにして眠る。
二人の寝息が聞こえる。
時折、リリィが逃げだしそうに体を捻るが、ヨシュアはリリィを離さない。
暫くモゾモゾとして、また寝息が聞こえる。
マリアは眠れずにいる。
「なんであんなところで眠れるのかな」
眠る二人を見て呟く。
マリアは気付いている。
マリアが眠れない理由は地面が固いからではない。
雨に濡れるからでもない。
(サラ……)
マリアの脳裏にサラの最期がフラッシュバックする。
マリアは体が震える。
膝を強く抱える。
(ちがう、今は前を見なければ。
どうやって生き残るかを考えなくちゃ)
サラのことを考えると心拍が上がる。
体が熱くなる。
思考が停止する。
マリアはサラのことから思考を切り替える。
今は休息が必要だ。
ヨシュアとリリィを安全な場所に導くには自分自身が万全でなければならない。
(オーラとは何者だろう?)
マリアはオーラについて考える。
砂漠を行くか山越えを選択するか。
マリアには山の知識はない。
砂漠から見える山脈は岩と崖が露出した素っ気ない風貌をしていた。
とてもではないが登ろうという気にはならない。
それでも山脈超えを決意したのはオーラに背中を押されたからだ。
狼煙を見せられ、そこまで辿り着ければなんとかなる、そう思った。
比較的近くに居るように思える。
であるにも関わらず救援には来られないという。
(山に住んでいる身動きの取れないご老人?)
マリアはオーラについて色々なイメージを膨らませる。
冷静でこちらへの気遣いも欠かさず、山道を誘導する。
老練なイメージを持つ。
地形の変化も知らなかったのは昔の記憶に頼っているからだろうか?
交信では年配者のようには感じられない。
むしろ少年のようなお茶目さを感じる。
(この川、湖を渡らなければならないのよね?)
オーラはもっと簡単にこの川を渡れると考えていたフシがある。
湖の存在そのものを知らなかったようだ。
(この湖を渡るのは無理よね?)
周囲を探索した結果、上流は切り立った崖に阻まれている。
下流には落差の激しい滝がある。
滝の横の崖を降りたとしても川を渡れる保証は無い。
対岸の崖を登れるかも分からない。
(簡単な迂回路があるならそう言うわよね?)
言わないということは迂回が容易ではないということだ。
(泳ぐ? ヨシュアとリリィを連れて泳げるかな?)
マリアは湖を見る。
湖と言っても流れがある。
幅もあって対岸の傾斜もそれほど緩やかではない。
場所を選ばなければ上陸できないだろう。
かなりの泳力が必要そうだ。
(何回か往復すればなんとかなるかしら?)
まず自分が泳いで対岸の様子を確認する。
色々考えるが、リリィを冷たい水に浸けて良いのか、を判断できずにいる。
(全員が乗れる筏を作るのは無理よね?
イリアだけでも乗れる筏なら作れる?)
周囲には真っすぐの材木などは落ちていない。
筏というよりは葦船のようなものにしかならないだろう。
結束のための紐もない。
(まあ、何かしら「浮き」があればリリィはなんとかなるのよね。
ヨシュアって泳げたっけ?)
マリアにしろ泳げると公言できるほどに泳げるようになったのはごく最近だ。
少なくとも二年前は泳げなかった。
ヨシュアが泳げなかったとしても不思議ではない。
(ヨシュアが掴まれるぐらいの「浮き」……。
枝で作ると結構大掛かりなものになってしまうわよね。
それを引きずって泳げるかなぁ)
アリアは色々考えるものの、これはというアイデアが浮かばない。
(オーラならなにか良いアイデアが浮かぶかな?)
マリアは後ろにある無線機に手を伸ばし、膝の上に置く。
対岸で赤い光が明滅する。
(ん? なんだろう?)
光は湖の向こう、雨の降る暗闇の中で暗い。
それでもマリアはそれがゆっくりとした電信信号であることを認識する。
『マリア、ネムレナイノ?
キュウソクヲ、トッタホウガイイヨ』
赤い光はそういう意味の信号となっている。
(はい?)
マリアは口をポカンと開けて驚く。
そして無線機に手を伸ばす。
『ネンリョウボウガ、モッタイナイヨ。
テバタシンゴウデ、ダイジョウブダヨ』
灯りはそう明滅する。
(手旗信号?)
マリアは膝の上で両手を交差させる。
手旗信号にはいくつかの種類がある。
マリアが知っているのは電信信号の短符号と長符号を手旗で表現する方式だけだ。
『これで分かる?』
短いフレーズを両手で作る。
両肘を固定して腕だけを動かしている。
短符号は両手を上げる。
長符号は両手を開く。
短長符号間は下向きに交差。
語の区切りは両手を開いて下げる。
酷く面倒くさい。
暫く後、対岸で赤く暗い灯りが明滅する。
『ウン、ダイジョウブ、ソレデワカルヨ』
会話は成立するようだ。
『君は誰?』
一番聞きたいことを訊く。
『オーラダヨ』
『君のプロフィールを聞いているの』
マリアは重ねて訊く。
なかなか返事が返ってこない。
マリアは、訊くべきではなかったのか? と不安になる。
かなり経って灯りが明滅する。
『ボクハキミノフクカン。
キミノキリフダノ、サイキョウノカードヲ、モッテイルカラ』
灯りはそう応える。
マリアは驚く。
そして笑う。
『君はハートのジャックを持っているんだ?』
マリアは手で信号を送る。
皇帝では切り札がハートであるとき、ハートのジャックがマイティに次いで強い。
『ソウ、キミヲ、ショウリニミチビクノガ、ボクノヤクメ』
マリアは心が軽くなる。
この非常事態を皇帝のカードゲームに擬えている一致。
自分と一緒だ。
オーラが何者かは分からないが、気が合いそうな気がする。
『対岸に居るの?』
『ソウ、ボクノイチブガ、イル』
(一部?)
また不思議なことを言う。
『オーラって人間だよね?』
マリアは訊いてみる。
『オバケジャ、ナイヨ』
返答は曖昧だ。
『オーラって偽名?
光背、後光、霊光、本名じゃないわよね?
本名はなんて言うの?』
マリアは訊く。
なんであるにしろ名前は重要だと思ったからだ。
なかなか返事が返ってこない。
マリアはまたしても、やらかしたか? と不安になる。
かなり経って灯りが明滅する。
『オーラッテナマエ、ヘンカナ?』
(うわ、やっぱりやらかしている!)
マリアはオーラに対して済まない思いになる。
『いいえ、素敵な名前よ、オーラって。
何か不思議な雰囲気があって良いと思うわ』
マリアは必死に取り繕う。
返事は来ない。
『この湖を超えなくてはならないのよね?
何か方法があるの?』
マリアは話題を変える。
とはいえ、最も知りたいことの一つだ。
『ヤッパリ、ソレヲカンガエルト、ネムレナイヨネ?』
返事が返ってくる。
マリアは安心する。
『そう、君の考えが訊きたいの』
『ココヲウカイスルト、ケッコウトオイ。
タブン、4カクライカカル。
モシ、オナジヨウニ、ソウテイガイノコトガアレバ、モットカカル』
ここでいったん区切られる。
『了解、それで?』
マリアは先を促す。
『コノミズウミハ、テンネンノダム、イツマデホジデキルカ、ワカラナイ』
『了解、それで?』
『アスノゴゴニ、テンコウハ、オオアレニナルモヨウ。
ソウスルト、ダムハケッカイスルカモ。
『了解、私の選択肢は?』
『ウカイスルノガ、ヒトツ。
ソコデ、タスケヲマツノガ、ヒトツ。
ミズウミヲワタルセンタクモ、ナクハナイ。
ホウホウハ、ケントウチュウ』
『食料が無いわ』
『ソチラニ、ショクリョウト、ドウグヲオクルホウホウモ、ケントウチュウ。
ソレデ、タスケヲマツカ、ウカイスルカヲキメルベキカナ?』
『いいえ、明日の朝に湖を渡るべきだと思うわ』
マリアの思考が回りだす。
四日以上の迂回、手堅い選択に見える。
しかしリリィやヨシュアを連れてでは現実的ではない。
体力が保たない。
そもそも湖、天然のダムが決壊してしまうと取れない手段だ。
先ずは湖を渡る方法を考えるのが最善手。
『ソレガキミノセンタク?
リョウカイ、アシタノアサニ、ミズウミヲワタロウ。
キミハラッキーガールダ。
キミノセンタクハ、タブンタダシイ』
灯りは暗い対岸で明滅する。
『具体的にはどうすればよいのかしら?』
マリアは問う。
『ホウシンハキマッタネ。
グタイテキナホウホウハ、アシタノアサ、レンラクスル。
キョウハモウオヤスミ。
オトウトモ、オキチャッタヨ』
(弟?)
マリアは慌てて振り向く。
ヨシュアが不思議そうにマリアを眺めている。
「マリア、なんで踊っているの?」
ヨシュアの問いに我に返る。
真夜中に湖畔で、必死に手をバタバタと動かしている自分を想像して滑稽だと思う。
しかしオーラと交信してずいぶんと気分が楽になった。
「ちょっと、体操していただけなのよ、もう寝ようね」
マリアはヨシュアに笑いかける。
マリアは対岸に向かって手を振る。
そしてリリィを挟むようにヨシュアの隣に寝転ぶ。
リリィの体温が温かい。
暫くしてマリアは眠りに落ちる。




