第五章第二話(六)天の浮島(うきしま)
――崩壊歴六百三十四年六月二十九日午前七時半
「壮大な眺めね」
アムリタはバギーを運転しながら右側の空を見上げる。
バギーは基地から天垂の糸に続く舗装路を走る。
「そうね、でもできれば前を見て運転して欲しいかな」
ソニアは腕組をしながら助手席で言う。
組んだ右手は左側から右下に渡るシートベルトを掴んでいる。
道は長い直線を急なヘアピンコーナーで繋ぐつづら折りとなっている。
道は標高三千五百を超えてなお天垂の糸までの急な斜面を登ってゆく。
バギーは過給機エンジンを搭載する高地仕様ではあるものの登るごとにトルクの減少を感じる。
山側になった窓から遥か上空に浮かぶ塊が見える。
運転席後ろ、後部座席右側に座るルークも窓越しに空を見上げる。
アムリタとソニアは明日からの作業に備えて、天垂の糸の直下を視察しに来ている。
ルークは同行することを強く願った。
帰ってきたリリィは、行ってくれば? と軽い調子で許可を出す。
フィーも行きたそうにしていたので四人でのお出掛けだ。
現在のところフィーの身元は判っていない。
調査は継続中である。
ルークは窓の外を見上げる。
ルークも凄い眺めだと思う。
あんな巨大な物体が地面に支持されることなく風船のように浮いているのだ。
「約三百メートルの直径を持つ、平たく潰した半球状の塊、通称天の浮島。
あの堂々たる威容、あの大きさで重量は四トンに満たないっていうから冗談のようよね」
ソニアは進行方向を見たまま言う。
ソニアの位置からは浮島は見えない。
アムリタは、うんうん、と頷く。
「赤道上空、ちょうどこの付近の真上三万六千キロメートルに空中庭園と呼ばれる静止人工衛星があるわ。
私たちの目的地ね。
静止軌道人工衛星から地球側とその反対側、両方に紐を垂らしてゆく。
地球側の紐は地球の重力により引っ張られ、反対側の紐は遠心力で引っ張られる。
二つの紐をバランスを取りながら伸ばしてゆくと、いつか地球側の紐は地表近くまで到達する。
それが軌道エレベーターの構造。
そして地球側の端があの浮島よ」
ソニアはアムリタと自分の間の天井を指さす。
アムリタは、ほえ? と視線を右側窓の上に動かす。
「言うのは簡単だけれど、それを実現させるためには物凄く強くて物凄く軽く、更にはしなやかさを持った素材が必要なわけ」
ソニアはそこまで言って視線を谷側に動かす。
「そういう素材の話、ジャックとかジュニアが大好きそうね」
アムリタは言う。
「そうなのよね、彼らこの話になると何時間でも話し続けるのよ。
正直付き合いきれない」
ソニアは嬉しそうに言う。
「私には不思議で仕方がないのだけれど、私たち、リフトで天垂の糸に昇るのよね?
リフトって機材を含めると結構な重量になると思うんだけれど、天垂の糸って落ちてきたりしないものなの?」
アムリタは訊く。
「ああそれはバランスが取られるようになっているのよ。
軌道エレベーターの反対側の端には通称海月と呼ばれる島があるの。
そこにはチェーンに付いた何トンもあるアンカーが幾つもあって、巻き取ったり伸ばしたりしながら軌道エレベーターが常に静止衛星軌道になるように自動調整されるのよ」
ソニアは説明する。
「それじゃ安心ね」
アムリタは緩い笑顔で言う。
「いやそれがそうでもないの。
今回壊れたのは海月のアンカーの動力源なのよ」
「え? それって大問題なんじゃない?」
アムリタは驚く。
「まあね……、でもまだいくつかの動力が生きているから大丈夫。
とはいうものの、調整能力がガタ落ちしているのは確か。
放置すると地球から離れてゆく方向になるわ……。
ホントかどうか怪しいけれど、ジュニアが言うには安全設計上の働きのようよ。
まあそりゃそうよね、地球に落ちてきたら大惨事だから、むしろ離れていってもらったほうがマシ。
今は浮島に重量物を置いてバランスを取っているの。
私たちがリフトで上がる場合は代わりの重さを降ろすことになると思うわ」
ソニアの説明は滑らかだ。
アムリタは、ふうん、と頷く。
素材について、構造について、どのようにメンテナンスされてきたのか、ソニアは面白おかしく説明する。
ルークは運転席後ろでソニアの話を聞いている。
ルークにとってソニアの話は面白い。
いつもなら真剣に聞くところだが、今のルークは集中できないでいる。
ルークの座る下半身に体重を預けてフィーが右側窓に顎を擦りつけ、空を見上げているからだ。
「コーナーよ、掴まってねー」
アムリタは朗らかに声掛けをし、バギーは急峻な右コーナーをゆっくりと曲がってゆく。
ルークの視界は回転し、今度は谷側、巨大な森を抱くデルタ状の谷の全景を見る。
山と海が異常に近い。
上から俯瞰すると谷は急峻な角度を持ち、海に続いている。
フィーは体を起こし、今度は左側の窓にへばり付く。
下半身を押さえつけていたフィーの体重が抜けて、ルークは一息つく。
ソニアは山側になった左の窓を見上げる。
「自分で説明しておいてなんだけれど、この光景はシュールよね」
昇りゆく斜面は高原、四千メートルの棚地に続く。
その先二キロ、地表千メートルの高さに、浮島は浮かぶ。
直線距離にして約三キロ、見上げる角度に、はっきりと石灰色の浮島が見える。
浮島からは四方八方に向かい、懸垂曲線を描いて垂れ下がる黒い線が見える。
浮島の上部には、真上に向かってどこまでも伸びる石灰色の線が見える。
その先は車の中からは見えないほどである。
「あの黒いチェーンは浮島の動きを制限するためのもの。
タイフーンなど強風が吹き荒れる場合はわざと切り離されるわ。
見て、通常時でもあんなに揺れるの」
ソニアは言う。
しかし角度が有りすぎてバギーの左側の席に座るものにしか浮島は見えない。
フィーはルークを手招きして左手で窓の上を指す。
ルークは身を屈めて左側の窓を見上げる。
「たしかにゆっくりと揺れているね」
ルークは垂れる黒い線の角度が時間と共に変わってゆくのを見て驚く。
「あれは油断していると酔うわよ」
ソニアは笑いながら言う。
「ソニアは浮島に昇ったこと、有るの?」
ルークは訊く。
「ないわ、ここに来るのも初めて」
ソニアは短く応える。
「またコーナーよ、掴まってねー」
アムリタは何回めかの声掛けをする。
バギーは左向きに向きを変えてゆく。
「このヘアピンの先が最後のストレートよ。
登りきれば棚地になるわ」
ソニアは言う。
急峻なコーナーを曲がると、右手は崖しか見えなくなる。
再びフィーはルークの座る下半身を乗り越えて右の窓に張り付く。
「見えないね」
フィーはルークの顔、至近でルークに向かって振り向き、残念そうに言う。
ルークは右上、崖の上を睨んで、そ、そうだね、と返す。
バギーが登るのに合わせて、崖の高さは低くなってゆく。
徐々に天垂の糸の下部、浮島が顔をだす。
「あ、フィー! 浮島、見えたよ!」
ルークは腕を折って窓の上を指さす。
バギーは更に登る。
次第に右手は崖ではなくなり、緩やかな傾斜となる。
「うわー凄い!」
ルークは光景を見て感嘆する。
どこまでも続く台地、黒い地面に所々大岩が散見される広大な荒れ地が姿を現す。
木々はまったく無い。
所どころ日陰となる場所に残雪が見られる。
何も無い荒野なのかと言えばそれも違う。
打ち捨てられた石造りの建造物の廃墟が見渡すかぎり続く。
そんな中、黒々と舗装された道は緩やかに右に曲がって続いてゆく。
「標高四千メートルの高原がここから二百キロに渡って続くわ。
この地形はちょっと凄いわね」
ソニアは荒涼とした風景を眺めながら言う。
「ここは元々は広大な平野であったというわ。
数千万人が集う巨大な都であったとか。
六百年前の地軸移動のとき、この場所は平野ごと隆起したそうよ。
この場所にいた人々が生き残り、崩壊歴初期の混乱を乗り越えた……、そんな伝説の場所の一つ」
ソニアの説明に、アムリタは、ほえー、と口を大きく開き、言葉が出ないでいる。
ルークも初めて見る光景に言葉を飲む。




