第五章第二話(五)僕は一人で来たんだ
――崩壊歴六百三十四年六月二十八日午後三時
「いやー、吃驚したわよね」
アムリタはラウンジのソファーに座り、ルークに言う。
基地の居住区、建物の中だ。
実際吃驚したし異常だった、ルークは金髪の年上の女性を見上げる。
ソニアが無線で呼び、基地から多くの大人たち、職員が現場に集まってきた。
フェンスの中で子供が襲われるなどあってはならないことである。
ましてや襲ってきたものが正体不明の巨大な飛蝗であるなど、ますますあってはならないことである。
ルークは職員に連れられて基地に戻った。
フィーも一緒にである。
フィーは女性職員に連れていかれた。
「さすがは南国ね、飛蝗があんなに大きいなんて」
アムリタは碧色の目をキラキラさせて言う。
嬉しそうだ。
「いやみんな吃驚ているよ。
あんなに大きな虫なんてありえないから」
ルークは抗議口調で言う。
「あら、あれは特別に大きい虫なの?
普通はもうちょっと小さいのかしら?」
アムリタは意外だというに表情を変える。
「十センチを超える飛蝗なんか普通居ないよ。
あれは異常なんだよ。
だから大人たちが大騒ぎしているんだ」
「え? そうなの?
じゃ、なんであんな大きな飛蝗がいたの?」
きょとんとした表情でアムリタは問う。
ルークは言葉を詰まらせる。
それは寧ろルークが知りたいことだ。
ルークは腰を摩る。
「腰、大丈夫かしら?」
アムリタは心配そうに訊く。
「ああうん、ありがとう。
単なる打撲だって。
湿布薬貼ってもらったから今はそんなに痛くない」
ルークは応える。
ルークは基地に戻った後、医務室に連れていかれた。
最初は立ち上がることができないほどの痛みがあった。
幸いにも骨には異常がなく、今では歩くのに支障はない。
「ところでフィーは?」
基地に戻ってからルークはフィーに会っていない。
「無事よ。
足の裏に擦り傷がいっぱいあったけれど、裸足で歩いていたからみたいね。
ソニアがお風呂で体を洗って、着替えさせているわ。
今はご家族と連絡とれないか調べているんだと思う」
アムリタは説明するが、ルークは腑に落ちない。
「ふうん? この近くに子供が歩いてこられるような集落はないんだけれどなぁ」
「そうみたいね。
おとうさまもそう言っていたわ」
アムリタも曖昧に同意する。
おとうさまとはルークたち兄妹の父、ハリーのことだ。
ハリーはマリアカンパニーの幹部で、この基地の長官を兼ねている。
アムリタはラウンジに続く通路を見る。
通路から足音が聞こえてくる。
「ルーク、アムリタ、お待たせー」
ソニアの陽気な声が静かなラウンジに響く。
「あらソニア、お帰んなさい。
フィーのお家は見つかったかしら?」
アムリタは朗らかに応える。
ルークは年上の再従姉を見上げる。
燃えるような赤い髪、いつも笑った顔をしているところは以前会った際と変わり無い。
しかし開襟シャツの深く開いた胸元にある眠そうな『眼』に驚く。
以前はこんなものは無かった。
「ハリーのスタッフが近隣の集落に行方不明になった少女が居ないか聞いているんだけれど、今のところ該当者は居ないみたい」
「ふうん? そう言えばリリィは?」
「今日は西域に行っているんだって。
連絡は取れていて、すぐに戻るって。
あと小一時間くらいで帰ってくるんじゃないかなあ?」
ソニアはルークを見て応える。
「まあそんなことよりも、ルーク、フィーが待っているわよ」
ソニアはルークの後ろ、ソファーの後ろ側からルークに立ち上がるように催す。
ルークは腰を摩りながらヨロヨロと立ち上がる。
「フィー、着替えてお人形さんみたいになっているわよ」
ソニアは満面の笑みを浮かべ、ルークを肘で突く。
そしてスタスタと通路に向かって歩いてゆく。
アムリタに伴われてルークは続く。
建物は二階建てであるがやたら広い。
殆ど建物の端から端までを歩き、目的の部屋に着く。
応接室だ。
「ルークを連れてきたよ」
ソニアはドアを開ける。
中にはフィーと女性職員がローテーブルを挟み、ソファーに対面して座っている。
フィーはルークの顔を見てニコニコと笑い、小さく手を振る。
フィーの格好は先ほどの薄汚れた布ではなく、薄いピンクのワンピースに変わっている。
ぼさぼさだった茶色い髪も、綺麗に櫛梳かされ、ポニーテールに結わえられている。
ソニアの言うとおり可愛い人形のようだ。
そんなフィーを見て、ルークは狼狽える。
「やあ、フィー、大丈夫?
怪我していない?」
ルークはぎこちなくフィーに声をかける。
「僕は怪我していないよ。
ルークは? 怪我は大丈夫?」
フィーは高い声で問い返す。
「え? ああうん、全然大丈夫」
ルークは胸を張ってみせる。
アムリタが隣で微笑ましそうに二人を見る。
ソニアは女性職員の隣に座る。
テーブルの上には地図がある。
この近辺のもののようだ。
「緯度ゼロ地域では私の『眼』は殆ど役に立たないんだけれど……」
ソニアは地図を眺めながら言う。
ソニアはジャックから強奪した『眼』を胸に埋め込んでいる。
『眼』は地上約二百キロを周回する人工衛星のカメラとリンクしている。
人工衛星は全部で十六在り、両極を通る二十二度ずつずれた軌道を周回している。
これらはジャックの目的、北極の監視には十分であるが、低緯度地域では上空を偶に通過するだけとなる。
赤道直下では衛星数が少なすぎて監視というほどの監視はできない。
とはいえ、数時間前の衛星からの俯瞰映像を見ることができるのでそれなりに役に立つ。
「あの大きな飛蝗、今日の朝九時にはこの辺に居るわね。
色が派手だから目立つわ」
ソニアは基地から東に広がるデルタ状の大きな谷、その中ほどにある川岸を指さす。
フィーはソニアの指す指先を見、それからソニアを見上げる。
「フィーもこっちのほうから来たの?」
ソニアは訊く。
「空から見えるの?」
フィーはソニアの質問に応えずに訊き返す。
「え? ええそうよ。
ごく偶にしか見えないけれど」
ソニアは応えながらも少し驚く。
フィーは地図の一点、東方の海岸を指さす。
「ここ、僕は今朝、ここにいたんだよ」
フィーは地図の一点、東方の海岸を指さす。
ソニアは更に驚く。
基地最寄りの港、その近く。
しかしその場所は切り立った絶壁の上であるはずだ。
「ええ? そんなはずは……、でも確かに昨夜二時くらいに人間大の赤外線反応があるわね……」
ソニアは記録画像に辛うじて写る少女と思しき像を見る。
しかし特に監視対象ではない地域、大した画像は残っていない。
「フィー、貴方は港から来たの?」
ソニアの問いにフィーは、違う、と否定する。
「じゃ、どこから来たの?」
「遠く……、うんと遠くから来たんだよ」
フィーは笑う。
「……遠くって、どっち?」
ソニアは重ねて問う。
「あっちだよ」
フィーは右手を水平に伸ばし、人さし指で東北東の方角を指す。
一同その方向を見るが壁しか見えない。
「海を越えてきたの?」
ソニアは確かめるように訊く。
フィーが居たという東の海岸から東北東の方向は海しかない。
「海? 海のもっと向こうから来たのかということ?
うん、海よりもっともっと遠くから来たんだ」
フィーは肯定する。
「一人で来たの?」
ソニアの問いにフィーは、うんそう、僕は一人で来たんだ、と肯定する。
ソニアはアムリタの顔を見る。
アムリタはソニアの顔を見返して微笑む。
フィーは満面の笑みを浮かべる。




