第四章最終話(十四)穢(けが)れの谷
ガストは黒い山の斜面を軽やかに登る。
ガストの太く強靭な後ろ脚は荒れた山肌を苦にしない。
黒い山の縦に割れた大きな裂け目に向かって駆け上がる。
ガストは近付くにつれ、進路を右にとりながら岩陰に隠れ、慎重に進む。
天井から垂れ下がり、地面に続く巨大な黒い鍾乳石のような山。
それを縦に裂く巨大な割れ目のような谷、それが穢れの谷である。
ガストは谷の入口の小高い位置から慎重に内部を窺う。
谷の下には大小の骨が散乱している。
小さな骨は恐らくは犬のもの。
多くはガストの骨に見える。
中には明らかに人間のものに見える骨もある。
更には異様に大きな骨も散見される。
谷には黒い二足歩行の魔物が蠢いている。
食屍鬼だ。
食屍鬼は二足歩行ではあるが人間には似ていない。
いや、どんな動物にも似ていない。
黒い毛の生えた棒杭のような四肢はすべてサイズが異なる。
それら四肢が更に異様な形の胴体に繋がっている。
胴体が輪のようになっているもの、異常に長く幾重にも折れ曲がっているもの、二股に分かれているもの。
食屍鬼はどの個体も全然異なる形状をしている。
そんな異様な体をしているにも関わらず、ただ頭部だけは妙に人間くさい。
禿頭に血走った大きな目。
歪にめくれ上がった唇。
潰れた鼻。
千切れた耳。
皆が皆、異相である。
異相ではあるものの、人類の顔の範疇に収まっている。
異様な体に人間の頭部、そのコントラストがより禍々しさを増幅させている。
そんな食屍鬼が谷の底をあてもなく彷徨っている。
谷の上空には夜鬼が飛び交っている。
夜鬼は食屍鬼に比べると遥かに人間に近い形状をしている。
大きいもので二メートル程度。
黒いゴムのような皮膚に大きな踵のある脚。
背には蝙蝠に似た羽がある。
丸い頭部、顔面には何もない。
ただ黒いゴムのようなツルリとした皮膚が丸い頭部の表面を覆っている。
『なんか地獄絵図ね』
アムリタが感想を述べる。
『あの大きな骨は地底巨人のものかしら?
地下の食物連鎖の頂点は地底巨人と訊いていたけれど、ある意味食屍鬼も頂点にいるわけね』
エリーも異様な光景にやや緊張している。
ガストが口をパクパクさせる。
『ええっと……、食屍鬼のリーダーがどこかにいるそうよ。
ワイの小父さまは食屍鬼のリーダーに用があるようね』
エリーは通訳をする。
ガストは谷の横、斜面の岩棚を慎重に進む。
この高さなら食屍鬼は脅威ではない。
夜鬼に気を付けながらガストは谷を奥へと進む。
『夜鬼がやっかいね。
次の岩棚まで空間を繋げるわ。
行きたいところを指し示してちょうだい』
エリーはガストに言う。
ガストはエリーの作った空間の歪を潜る。
そして長い首で次の目的地を指し示す。
ガストは崖の中腹を音もなく、谷の奥へ奥へと進んでゆく。
『それでワイの小父さま、食屍鬼のリーダーって、お友達なのかしら?
どこに居るの?』
アムリタは訊く。
エリーはガストの貌を見る。
ガストは口をパクパクパクと開閉する。
『ええっと、「友達じゃない、向こうからこっちを見つけるだろう」って?』
エリーはアムリタの顔を見ながら自信無げに言う。
『ふうん? 友達じゃない人と交渉するのね?
なんかハードル高そうね』
アムリタは心配そうに呟く。
エリーは空間に歪を作る。
ガストは空間の歪を潜る。
出た先でアムリタとエリーは警戒する。
空中にはたくさんの夜鬼たちが舞っている。
夜鬼たちは特にガストの居る崖、岩肌を気にしていない。
谷底には無数の食屍鬼が無秩序に蠢いている。
『落ちたら一巻の終わりね』
アムリタは呟く。
「ガストが居る!」
下から大声が聞こえる。
しゃがれた老人の声に聞こえる。
「ひゃははは!
俺のだ、誰にも渡さんからな!
俺が喰う!
俺が喰うのだ!」
最初は声の出所が分からなかった。
しかし谷底の一か所、周囲の食屍鬼を両手で薙ぎ払うように近付いてくる食屍鬼が居る。
『な、なんか凄いのに見つかってしまったわ』
アムリタは周囲を油断なく見渡す。
今や夜鬼たちもガストを注視している。
エリーはガストを見る。
『……「見つけた」? あれが食屍鬼のリーダーであるようよ』
エリーはガストの言葉を伝える。
『見つけたって……、「見つかってしまった」んじゃなくて?
とても交渉できそうな相手には見えないわよ』
アムリタの言葉に応えるように、ガストの口が動く。
『ええっと……、「防御は不要だから……、僕がどのようなことになってもそれは僕の計画のうちだから……、だから何の手出しも不要だから……、黙って見ていてね」、――!』
エリーは途中まで通訳をして絶句する。
多くの夜鬼がガストめがけて飛来する。
『ワイ! 君は食屍鬼に喰われる気か?
それが君の転生のメカニズムなのか?』
エリーの驚きを気にすることなく、ガストは下の岩棚に向かって跳ぶ。
ポーン、ポーンと軽快なステップで、急峻な崖を瞬く間に降りてゆく。
『え? エリー! 良くない予感しかしないのだけれど!』
『そ、そうだな……、あの女の預言が読めてきた』
谷底には無数の食屍鬼がガスト目がけて群がってくる。
「どけぇー! それは俺のもんだ! 俺が喰う!
ひゃははは!」
食屍鬼のリーダーは周囲の食屍鬼を蹴散らしながらガストに近付いてくる。
ガストは食屍鬼に傷つけられ、血まみれになりながらも尚、食屍鬼のリーダーの手前に跳ぶ。
食屍鬼のリーダーは太い両の掌でガストの首を掴む。
「うわははは! 捕まえた! 捕まえたぞ! 俺が喰う! 俺が喰う!」
食屍鬼のリーダーは爪をガストの首に突き入れる。
ガストは群がる食屍鬼たちに引き倒される。
「どけぇ! お前らにはやらん! お前らにはやらんぞ!」
食屍鬼のリーダーは両腕で食屍鬼たちを薙ぎ払い、そしてガストに食らいつく。
『ひいぃ! エ、エリー! 手出しは無用って、これ何とかならないの?』
アムリタは涙声でエリーに訊く。
『ワ、ワイの小父さまは生きたまま喰われることでその喰った相手に憑依できるのだと……。
そういう魔法らしい』
エリーは喰われゆくガストを見ながら、涙声で応える。
『だ、だからと言って見ていなければならないの?』
アムリタは悲痛に疑問を投げかける。
『なにかの術式の一環なのかもしれない……。
し、しかし確かにこれはきついものがあるな……』
エリーの声も生気が失せている。
ガストの目は血走り、普段は乏しい表情が凄まじい苦痛に耐えるかのように歪んでいる。
ガストの口が、パクパクパク、と動く。
『あ、エリー! ワイの小父さま何か言っているわ!』
アムリタは言う。
『「見ていてって言ったのは単に、手出しをしないでね、っていう意味で……。
別に目をそらしてもらっていて構わないんだよ……。
痛い、痛い、痛い……」、だそうだ……』
エリーはガストの言葉を通訳する。
『お、遅いわ! ワイの小父さま!
そういうことはもっと早く言ってもらわなければ!』
アムリタは悲痛の声をあげる。
ガストは既に原型を留めていない。
残る頭部、口元がパクパクと動く。
『「ごめんね」、だそうだ』
エリーは脱力したように言う。
それ以降、ガストの口が動くことは無かった。
食屍鬼のリーダーは他の食屍鬼を蹴散らしながらガストの多くを喰らい、他の食屍鬼たちも隙を見てガストを喰らう。
アムリタとエリーは二人、嗚咽する。
たいして時間をかけずにガストは骨を残して消える。
「お? お? うおー!」
食屍鬼のリーダーが赤黒く光りだす。
アムリタとエリーの精神は憑代たるガストを失い、空中に離れる。
「やめろ! やめろー!」
食屍鬼のリーダーは苦しそうに跪き頭を抱える。
赤黒い光は黒い霧を纏い、食屍鬼のリーダーを隠す。
――ソヤソヤ、ルイングラヘ、マイソ、ハル
――ソヤソヤ、メイル、メイル、ヴィルラム、イルハラ
黒い霧の中から詠唱が聞こえる。
声は食屍鬼のリーダーのものだ。
しかし遥かに落ち着いた、威厳を感じさせる声色になっている。
――メイル、ヴィルラム、イルハラ
黒い霧が晴れてゆく。
中には食屍鬼のリーダーが両手を広げて立っている。
「平伏せよ! そして我に従え!
我は汝らの王なるぞ!」
声は穢れの谷全体に響き渡る。
今まで無秩序に見えた食屍鬼たちは一斉に両膝を地面に着く。
「何百年ぶりだろうか……。
やっとまともな声帯をもつ生物に憑依できた」
食屍鬼のリーダーは呟く。
谷の出口方向へと離れ行くアムリタとエリーの精神の方向が判っているようだ。
『あのー、ワイの小父さま?』
アムリタは遠慮がちに声をかける。
「アムリタ、エリー、君たちの協力で私は私の魔法を取り戻せた。
有り難う、本当に有難う。
感謝に堪えない」
食屍鬼のリーダーは朗らかに応える。
アムリタとエリーの精神は既に相当な距離、離れている
「私はクリス、クリス・ホワイトヘッド。
しかし『ワイの小父さま』の呼び名は気に入っているよ。
アムリタ! エリー! 私は光の谷に光を灯しに行く。
さらばだ!
再び会おう!」
クリス、元ガストであったもの、今は食屍鬼のリーダーの中に居るもの、アムリタたちが『ワイの小父さま』と呼ぶなにか、は黒い棒杭のような右手を高々と振り上げ、谷の入口方向に向かって振る。
アムリタとエリーの精神は成す術もなく、ただ流れに任せて漂う。
『光の魔法を取り戻すって、要するに声帯を持った生き物に憑依し直すということ?』
アムリタは涙声でエリーに訊く。
『どうもそうらしいな』
エリーもローテンションで応える。
二人の精神は谷を出て、なお空中を漂う。
そして隣の山の斜面、二人の体に戻る。
二人は体を取り戻し、向き合う。
二人の両目から涙が止めどもなく零れてゆく。
「ワイの小父さまの莫迦ー!」
アムリタの叫びが地下山脈にこだまする。




