第四章第三話(二)退職の連絡
「よろしくお願いします」
トマスはアイスナーの診療室に入り、挨拶をする。
アイスナーの診療室は暗く、ランプが灯されている。
アイスナーは椅子に座って右壁に付けられた机に向かい、カルテを読んでいる。
白い医療従事者用のワンピースはいつも通りだ。
アイスナーは入ってきたトマスに、座るように患者用の椅子を右手で示す。
頭に被っている白いベールに隠されて、表情は判らない。
「ちゃんと二週間で来ましたね」
アイスナーは柔らかい口調でトマスに言う。
トマスは、はい、と応える。
「ご結婚されたそうですね。
おめでとうございます」
アイスナーの口元は微笑んでいる。
「うわー、ありがとうございます。
そんなこともカルテに書いてあるんですね」
トマスは照れているようで、どこか誇らしそうだ。
「いいえ、別にカルテに書いてあるわけではないんですよ。
さっきブラウン先生が、奥様にも検査に立ち会ってもらえ、と申し送りをしに来たのです。
奥様はご一緒ではないのですか?」
「なんだ、そうなんですか。
妻はアイスナー先生の検査も同伴可能か分からないので、確認してきて欲しいと言っていました。
確認が取れれば次回以降は同伴すると……」
「そうですか。
なかなか慎重な方ですね。
ただ、次回は……」
アイスナーはそこまで言って言葉をやめる。
「はい?
何か仰られましたか?」
「いえなんでもありません。
薬は服んでいますか?」
「ええ、毎日服んでいます」
トマスは誇らしげに応える。
「毎日?
この二週間は夢幻郷に行っていないということですか?」
「いえ、そうではなく、毎日夢幻郷と現実世界を往復していたんですよ。
でもここ一週間以上は夢幻郷に行っていません。
もう夢幻郷には行かないと思います」
「奥様とこちら側で暮らすから、という事ですね」
「ええ、そのとおりです。
アイスナー先生は夢幻郷に詳しいんですね」
トマスは治療とは無関係な質問をアイスナーにする。
今までアイスナーがこの手の話に乗ってきたことはない。
「詳しいわけではありません。
数回友人と共に旅をしたことがあるだけです。
私の常識から考えると一度夢幻郷に入って何かしたければ、数日は帰ってこられないと思うのですが?
猫たちと親交でもあるのですか?」
アイスナーは訊く。
「わあ、アイスナー先生もかなりの『夢見る人』ですね。
僕は夢幻郷の中に飛空機を持ち込めたのです。
それを使って数百キロを毎日往復していたんです」
トマスは応える。
アイスナーは言葉を詰まらせる。
「私から見ると、あなたのほうが卓越した『夢見る人』に見えます」
アイスナーの口調はやや寂しそうに聞こえる。
「検査をします。
上半身を脱いでうつ俯せに寝て下さい」
アイスナーは夢幻郷の話題を終わらせる。
トマスは促されるまま、着衣を脱ぎ、下の肌着だけになってベッドにうつ俯せに寝転ばる。
アイスナーは水桶の水で手を洗い、薬品を擦り込んだ手をトマスの首の根元に当てる。
アイスナーの手は、ゆっくりとトマスの脊椎、腰、肩甲骨と移ってゆき、両手両足も摩る。
いつもの検査である。
検査が終わり、トマスは服を着る。
「アイスナー先生の検査の後は体が軽くなります」
トマスは言う。
「そうですね。
反応性を試しているのですが、薬を服用しているのと同じ効果があります。
反応性に従って投薬を変えているのですよ」
アイスナーは初めて検査の内容を口にする。
「僕は後、どれくらい生きられますか?」
トマスは以前した質問を繰り返す。
アイスナーはしばらく黙ったままトマスをベール越しに見る。
「……その質問があった件、ブラウン先生と相談しました。
再度質問を受けた側が、回答しようという結論になっています」
アイスナーはゆっくりと、優しい口調で云う。
トマスは真剣な面持ちでアイスナーを見る。
「以前にブラウン先生が説明したと思いますが……。
貴方の病気は、神経伝達ができなくなるよう非可逆的に変化していくものです。
現在の医学では治癒させることはできません。
私の知るかぎりこの病気を治す魔法もありません。
私たちが行っているのは薬を用いて病気の進行を遅らせることです。
「どれくらい生きられるか、の問いには統計上のデータからしか答えることができません。
例えば五年後の生存率がどれくらいであったか、といった形になります。
ただ、この時代、統計的なデータの信頼性は低く、適切な回答を行うことは非常に難しいのです。
この病気が珍しいものなので尚更です」
アイスナーはトマスの反応を注意深く見ながら言葉を繋ぐ。
アイスナーとトマスの質疑は続く。
アイスナーの口から数字の範囲が述べられる。
「要するに、ここに二週間ごとに通って、ブラウン先生の処方する薬をちゃんと飲んでいればそれだけ生きられる確率があるという事ですね?」
トマスは然して気にするようでもなく総括するように訊く。
「あくまでも確率論ですが。
薬は飲み続けて下さい。
ブラウン先生の診察は受けていただいたほうが良いかと思います」
「アイスナー先生の診察もでしょう?」
トマスはアイスナーの言葉尻を拾う。
アイスナーは暫く無言となる。
「……シャルマさんにはお伝えしておきましょう。
実は私、この診療所を来週退職することになっています」
アイスナーは事務的な口調で言う。
トマスは衝撃を受けたように驚く。
「ええぇ?
そんなぁ!
引き抜きですか?
どこの病院に行くんですか?
あ! もしかして独立するんですか?
場所教えて下さい!」
今まで冷静だったトマスが慌てるようにアイスナーに詰め寄る。
「いえ、私は旅に出るのです。
もうここには戻ってきません。
でもご安心下さい。
シャルマさんの病状にあった投薬プログラムは完成しています。
ブラウン先生が居れば、シャルマさんの治療になんの影響もありません」
アイスナーは柔らかい口調でトマスに応える。
「そうなんですか、凄くすごく残念です……」
トマスは目に見えて悄気る。
「大丈夫です。
新しい医師も赴任しますし、私の仕事は引き継がれます。
なんの問題もありません」
アイスナーは言う。
「アイスナー先生にはやらなければならないことが有るのですね?」
トマスが真顔で訊く。
アイスナーは、ええ、そうですね、と応える。
「僕のやりたいことは酷く個人的なものです。
アイスナー先生のやるべきことは、物凄く重要な意味を持つものなのですね?」
トマスは、自分自身に問うように呟く。
アイスナーは応えない。
「失礼しました。
立ち入ったことを聴いてしまいました」
トマスは謝罪する。
「薬は未だ有りますね?
それをそのまま服み続けて下さい」
アイスナーは診察を終わらせるように言う。
トマスは、分かりました、と応える。
アイスナーは、お大事に、とトマスに声をかけ、カルテを閉じる。
トマスは、アイスナーに今までの礼を言い、一礼して、診療室を後にする。
隅の席でパイパイ・アスラのインターフェースがトマスを迎える。
「待たせてごめん。
やっと半分終了といったところだね」
トマスはパイパイ・アスラに言う。
『たいして待っていないわ。
言ったでしょう?
私は時間をコントロールできるの。
私のことは気にしなくても大丈夫よ。
でも少し席を外して良いかしら?』
「うん、大丈夫だよ。
ここで待っているから。
診察で席を外していてもここで落ち合おう」
『うん。
じゃちょっと行ってくるわね』
パイパイ・アスラのインターフェースは小さく手を振り、席を外す。
暫く後に女性看護師がトマスを呼ぶ。
トマスはブラウンの診療室に入る。




