第四章第二話(一)お香(こう)の効能
――崩壊歴六百三十四年六月五日午前四時半
「おはよう、エリー。
爽やかな目覚めね。
不本意ながら」
アムリタはジュニアの道具屋の二階、自分のベッドの上で上半身を起こして言う。
相手はテーブルの椅子に腰かけているエリーだ。
「おはよう、アムリタ。
本当に爽やかな目覚めだ。
不本意ながら」
エリーも背筋を伸ばし、椅子に腰かけながらアムリタに応える。
二人はここ数日、夢幻郷に行くべく、睡眠薬を服用して寝ている。
フォルデンの森、飛空機の中でソニアが握っていたものだ。
その睡眠薬は二人を迅速に確実に深い眠りに誘い、爽やかな目覚めを約束する。
特に悪夢を見る、頭が痛くなるといった副作用は全くない。
おかげで体の調子は頗る良好だ。
非常に良い薬と言える。
不眠症の薬としては。
ただ、アムリタとエリーは不眠症に悩んでいるわけではない。
眠れない夜はある。
しかし、特に薬に頼ってまで眠ろうとしたことはない。
眠れないのなら起きていれば良い。
そして次の日精一杯働けば、夜は眠れるだろう。
二人共そうやって生きてきた。
薬に頼っているのは夢幻郷の入り口に立つためだ。
ソニアの薬は、恐らくはアルンの薬なのであろうが、一向に二人を夢幻郷の入り口に誘ってくれない。
「これは何かが足りていないと考えるべきなんだろうな?」
エリーは両手で両の肘を掴む姿勢でアムリタに言う。
「さ、才能?」
アムリタは恐るおそる呟く。
一瞬エリーの目が細くなる。
「……ソニアに夢見の才能があって、我々には無いと?
確かにその可能性も否定できない。
しかし、ソニアも困りきってアルンを頼ったはず。
アルンはソニアを夢幻郷に誘ったが、睡眠薬を使うくらいだからラビナのように他人を魔法で夢幻郷の入り口に誘えるわけではないのだと思う」
エリーはもう一つのベッドで眠るソニアを見る。
飛空機で眠っていたソニアを彼女のベッドに運んだのだ。
「じゃ、アルンのような助力者?」
アムリタは自信なさげに呟く。
エリーの目が悲し気に細められる。
「その可能性も否定できないが、もしそうなら手は無いことになる」
アルンもラビナも今や夢幻郷に入ってしまって出てくる兆候がない。
そして二人の他に「夢見る人」の心当たりといえばジャックくらいだ。
ジャックに頼ることはもちろん考えた。
しかしジュニアはジャックのしたことを覆しに行っている。
さらにソニアまで夢幻郷に居る。
ジャックの協力は仰ぎにくい。
そもそもジャックはエリーとアムリタ二人が夢幻郷に行くことに賛成するだろうか?
ジャックを頼るのは最後の手段だ。
とは言え、ジャック以外の「夢見る人」の心当たりは二人にはない。
「ラビナとアルンの親族でも探そうか?」
アムリタは手を打ちながら応える。
「……アテがあるのか?」
「んー?
なんとかなるんじゃない?」
アムリタは笑う。
「朝食にしよう」
エリーはいったん話を打ち切り階下に降りてゆく。
アムリタも着替え、エリーの後を追う。
「アルンは睡眠薬とお香でソニアを夢幻郷に導いたのでほぼ間違いない。
そして我々は睡眠薬のほうは実際に使われたものを確保できている」
エリーはベーコンエッグ、チーズにパン、スープとサラダを前にアムリタに語る。
「そうね。
でもお香は同じものが見つからなかった。
だから私たちは市場で似た香りのするお香を買ってきて毎日試しているのよね?」
アムリタはベーコンエッグをむしゃむしゃ食べながら応じる。
フォルデンの森、飛空機の中で嗅いだ残り香、香炉に残る灰の臭い。
それらを便りに似たものをカルザスのお香屋で入手し、試している。
しかし未だ目的を達せられていない。
「なんでも安息香系がメインで麝香や貝香、それに骨香が入っている珍しいものみたいね」
アムリタはお香屋の主人の見立てを復唱する。
主人は香炉に残る灰から判ることをアムリタに教えてくれた。
主人曰く、同じものが流通することは無いという。
「そうだ。
アルンもエキスパートとしての面目躍如といったところだな。
素人ではそんなものを用意できない」
エリーはアルンを持ち上げる。
「お香の系統としては意外にも集中力を高める効果を重視しているのではないかとのこと」
お香と一口に言っても、その効能は様々であるらしい。
気持ちを安らがせるもの、気分転換や瞑想を目的とするもの、幻覚を見せるためのものもある。
夢幻郷に誘うためのお香であるのなら、鎮静や安眠の効果があるものが選ばれると予想していた。
しかしどちらかと言えば精神の鋭敏さを保つためのものではないかとの予想である。
睡眠薬の効果と合わせて考えるとアクセルとブレーキを同時に踏んでいる印象を受ける。
「そうね。
それで勧められるままにえらく高価なお香を買ってしまったわね」
アムリタはその高価なお香が夢幻郷の入り口に誘ってくれなかったことが悔しい。
「私たち騙されていない?
煙になって消えるものが私の日当一ヶ月分の値段だなんて信じられないわ」
アムリタは納得できないというように呟く。
「ん? そ、そうだな。
希少な成分を含むお香は高くても仕方がないが、試行錯誤で試すには効率が悪すぎるな」
エリーはアムリタの憤りに同意する。
ここ数日でアムリタの日当の三ヶ月分がお香代として消えた。
お香は残っているが高価すぎて使う気にはなれない。
「だから、ラビナとアルンの、着ているものとか持ち物とか、靴に付いている土とかを分析して郷里を特定するの。
それから親族でも探すのが一番早いと思うの」
アムリタは言う。
「そうか、そこまで深い考えの元での発言だったのだな。
すまない、寝ぼけて戯言を言っているのかと思っていた」
エリーはアムリタに謝罪する。
時々私に対するエリーの発言って酷いわ、とアムリタは抗議する。
「ただなぁ、ジュニアもソニアも、ラビナとアルンの好意で夢幻郷に誘ってもらっている状況だからな。
無断で彼らのプライベートを詮索するような手段はとれないぞ?」
エリーはアムリタを説き伏せるように言う。
「そうねえ、でも夢幻郷はかなり剣呑な所よね?
皆を助けられるのなら少々乱暴な手段でも許されるのではないかしら」
アムリタは言う。
エリーは、ふむ、と言って目を落とす。
「……そうだな。
いや、白状すると私が夢幻郷に入りたいのは皆の為と言うより私自身の勝手な都合のためだ。
だからその乱暴な手段を取るのに躊躇ってしまう。
しかしアムリタの目的は崇高なんだな。
自分が恥ずかしい。
またしても君を見くびっていた。
てっきり早くマーヤに乗りたいとか、そういう理由だと思っていたよ」
「――!」
アムリタは何かを飲み込むように口を引き締める。
エリーはアムリタの表情の変化に驚く。
「すまない、そんなに悲しそうな顔をしないでくれ」
エリーはアムリタに謝る。
アムリタは、え? ええ、良いのよ、と応えるが笑っていない。
「しかしだな、今はソニアも居るしアルンも居る。
私の兄弟弟子のテオも居る。
皆大人だ。
よもや間違った判断にはならないと思うぞ。
焦る必要は多分無い」
アムリタは、そうねぇ、と相槌を打つ。
「高いお香を試すのも非効率だし、睡眠薬も無くなってしまう。
これはというお香が見つかるまでは睡眠薬は使わないほうが良いな……」
エリーは宙を見ながら言う。
アムリタは頷く。
「そうね、なら夢幻郷はいったん忘れましょう。
それならそれで、行きたい所があるの」
アムリタは何かを振り切るように言う。
「ん? 今は誰のフォローも受けられないぞ?
二人だけで危険な所に行くのはちょっといかがなものだろう?」
エリーはやや腰が引けている。
エリーも超高層ピラミッドで少なからず学習した。
「大丈夫。
そんなに危険じゃない……はず。
アルンが言っていた、夢幻郷へのゲートが開いたもう一つの場所」
「古代遺跡の双子の塔跡か……。
だがあそこはバギーでは行けないぞ。
フォルデンの森を徒歩で抜けるのか?」
エリーは食器を下げながら訊く。
「もちろん飛空機で行くわ」
アムリタは悪い笑顔で応える。
エリーも、だよな、と言って笑う。
「ではお昼は古代遺跡を見ながら肉を焼いて食べることにしよう。
肉屋の女将からバーベキュー用の肉を仕入れてくる」
エリーも意味ありげに薄い笑いを浮かべながら言う。
アムリタは、え? と訊き返すが直ぐに笑う。
「ああ、そうね!
賛成!」
二人は食器を片付ける。
「それじゃ私は飛空機の整備をしてくるわ。
出発は七時半で良いかしら?」
「ああ、こっちもそれまでに準備を終わらせよう」
アムリタは店の外に出てゆく。
エリーはそれを見送り、厨房に消える。




