第四章第一話(三)二人のドクター
――崩壊歴二百二十二年の四月二十日午前十時半
「ブラウン先生!
聞いて下さい!
僕に彼女ができたんですよ!」
トマスは椅子に座り、嬉しそうにブラウンに大声で報告する。
ブラウン診療所の診療室の中だ。
大きな窓があり、明るい。
左壁に付けられた机があり、その前にある椅子に座りブラウンはトマスと向かい合っている。
ブラウンは彼の診療所で医療行為を行っている。
トマスはブラウンの診療中に、最近何か変わったことは? との問に応えたのだ。
トマスは上半身裸で力説する。
「へぇ?
それはおめでとう」
ブラウンは微笑みながら応える。
ブラウンの診療所はカルザスの街中にある。
ブラウンは白衣を着て、濃い茶色の頭髪をしている。
歳の頃は三十代半ばであろうか。
「えへへへ、有難うございます」
ブラウンの祝辞が嬉しかったのか、トマスは照れる。
「それでどんな娘なの?」
ブラウンはニヤリと笑いながら訊く。
「聞いてくれますか?
凄く明るくて天真爛漫な娘なんですよ!」
「天真爛漫って君より?」
ブラウンはトマスの応えを軽口で混ぜ返す。
「あははは、いやだなぁ、ブラウン先生、僕は別に天真爛漫ではないですよ。
黙思考型の人間じゃないですか、僕は」
トマスは天真爛漫に返す。
「その彼女ってカルザスに住んでいるのかい?」
ブラウンは問を続ける。
「それがどこなのか未だ判っていないんですよ。
どこか遠いところの草原?」
「判っていないって出身地が?」
「今住んでいるところがですよ!
遠距離恋愛なんです、僕たち!」
トマスは誇らしげに応える。
ブラウンは、へぇ? と曖昧に呟く。
「でも直ぐに判りますよ、住んでいる所。
会いに行く準備もしていますし」
トマスは満面の笑みを浮かべて宣言する。
「そうか、君がそう言うのなら大丈夫だね。
彼女と早く会えるといいね」
ブラウンは微笑みながら言う。
トマスは、えへへへ、有難うございます、と照れながら呟く。
「それはそうと、体調のほうで何か変わったことは?
良くなった所とか、悪くなった所とか」
ブラウンは本来の質問を誤解のないように言い直す。
「あ、ああ、そうですね。
握力が無くなってきました。
物が掴みにくいです」
トマスはやトーンを落として応える。
「他には?」
「全体的に筋力が落ちてきたかもしれません」
トマスの答えを聞きながら、ブラウンはカルテに書き込みを行う。
「まあ、二ヶ月前に比べて劇的な変化はないということでいいかな?」
「え?
まあそうですね」
トマスは服を着ながら応える。
「この後、アイスナー先生の検査を受けてくれ。
そのあともう一度ここに呼ぶよ」
「判りました」
トマスは一礼をしてブラウンの診療室を出て待合室にゆく。
待合室には十数人が待っている。
皆この診療所の患者だ。
トマスは女性看護師に勧められるまま、ソファの空いている席に座る。
隣にはさっき馴染みになった年配の女性が座っている。
トマスは微笑みながら女性に挨拶をする。
この診療所は繁盛している。
適切な診断、適切な投薬、適切な施術に定評があるのだ。
ブラウン先生の診立ては良いと口コミが広がり、カルザスだけでなく近隣の街からも患者がきている。
トマスもブラウン先生の評判を口コミで聞きつけてダッカの街から来ている一人だ。
「診察は終わりかい?」
隣の女性が訊く。
「いえいえ、この後アイスナー先生の検査があって、再度ブラウン先生の診察があるんですよ」
トマスは嬉しそうに応える。
年配の女性の顔が少し曇る。
この診療所には二人のドクターがいる。
一人は他ならぬブラウン医師だ。
彼が主に患者の診察を担当し、投薬の指示を行う。
もう一人はアイスナーという女性医師だ。
アイスナー医師は薬の調合を主に行っているらしいのだが、患者によってはアイスナー医師の検査に回されるものもいる。
トマスは毎回、この診療所に来るたびにアイスナー医師の検査を受けている。
患者同士の共通認識では、アイスナー医師が検査する患者は難病のものだけだ。
だから年配の女性の顔が曇ったのだ。
最初この診療所が開設されたとき、医師はブラウン一人であった。
可もなく不可もない普通の診療所、そういう評価を受けていた。
街に必要な診療所であるが治るものは治るし、治らないものは治らない。
そういう極普通の評価であったこの診療所の評判が上がりだしたのは暫く経ってからである。
ブラウン診療所の出す投薬は凄く効く、そういう噂がたつようになった。
そのころから前後して看護師ではない、髪を白いベールで隠した白衣の人物、恐らく女性が診療所で見られるようになった。
ブラウン先生の奥さんかいな?
患者たちはそう噂した。
程なく、その白衣の人物がアイスナーという名の二人めの医師であることが判明する。
最初は医師ではなく薬剤師として調薬を担当していたらしい。
アイスナーが現れた頃からブラウン診療所の医療成績は上がりだす。
そして難病で他の病院や診療所に見放された患者が藁をも掴む思いでブラウンの診療所を訪れる。
恐らくはステージⅣの、がん、だ。
患者はアイスナーの検査に回される。
その後投薬と何回かの手術により寛解(症状が穏やかに治まること)することとなる。
手術の執刀はブラウンが行ったらしい。
このような例が何回かあり、難病患者が来るとアイスナー先生が診察を行う、という噂となる。
噂は噂を呼び、今やブラウンの診療所は近隣の街のみならず、遠くの街の患者を含め、難病患者が最後の望みを託し、訪れる所となってしまった。
そうして診療所の診療時間は伸びてゆき、看護師の数は増え、難病患者の寛解例と死亡例が増えてゆく。
「早く治るといいねぇ」
年配の女性はトマスを労るように言う。
トマスは年配の女性に笑顔で返す。
女性看護師がトマスを呼ぶ。
トマスはアイスナーの診療室に入る。
アイスナーの診療室には窓がない。
いや、窓はあるのだが本棚で潰されていて採光の役目を果たしていない。
本棚にはぎっしりと本や資料が詰め込まれている。
部屋の周囲には本や薬品、機材の置かれた棚がある。
棚から離されるように診療用のベッドが置いてある。
整然とはしているが物が多いため、雑然とした雰囲気をもつ。
部屋は昼間だというのにランプで照らされている。
この診療室はブラウンの診療室の隣にある。
左側にはブラウンの診療室に続くと思われるドアがある。
右壁に付けられた机があり、その前の椅子にアイスナーは座って、カルテを読んでいる。
女性にしては背が高い。
アイスナーは入ってきたトマスに座るようにと右手で勧める。
アイスナーは白い医療従事者用のワンピースを着ている。
頭から白いベールを目元まで被っていて表情は判らない。
「お久しぶりです、アイスナー先生」
トマスは椅子に座りながら挨拶をする。
「本当に久し振りですね。
もっと早く来たほうが良いですよ」
アイスナーは落ち着いた女性としては低い声でトマスに応じる。
感情の篭もらない事務的な口調だ。
色々忙しくって、トマスは頭を掻きながら応える。
「薬は未だ残っていますか?」
「いえ、もう無いです」
「そうでしょうね」
アイスナーは二ヶ月前に二週間分の薬を処方した。
残っているわけがないのだ。
「この二ヶ月間、薬は不要だったのですか?」
「いいえ、薬がないと困るのですが、夢幻郷に潜っていると症状の進行が遅くなるみたいなんです」
「……なるほど。
この二ヶ月間、殆ど夢幻郷に居たということですね?」
アイスナーは確認するように訊く。
口調はさして興味がなさそうである。
トマスは、そのとおりです、と応える。
「夢幻郷の中での病状は?」
「最初は調子が良かったのですが、最近、同じように力が入らなくなってしまいました。
それで現実世界に帰ってきたのです」
「そうですか……、検査をします。
上半身を脱いで俯せに寝て下さい」
アイスナーは右手で診療用のベッドを指差す。
トマスは着衣を脱ぎ、下の肌着だけになり、ベッドに俯せで寝転ばる。
アイスナーは水桶の水で手を洗う。
そして何か薬品を手に擦り込んだ後、トマスの右側に立ち、左手をトマスの首の根元に当てる。
「手が熱いですね」
トマスは俯せのまま感想を述べる。
アイスナーは、耐えられなければ言って下さい、と返す。
トマスは黙る。
アイスナーの手は、ゆっくりとトマスの脊椎をなでるように動く。
腰まで来た後、今度は右肩甲骨に移り、右手を掴みながら手首のほうに動かす。
同じことを左手に対して繰り返す。
更に仰向けにして両足、頭、目を検査して終わる。
「どうでしょうか?」
トマスは着衣しながらアイスナーに訊く。
「私は検査をしているだけです。
検査結果については前回の診察も踏まえてブラウン先生が答えてくれるでしょう」
アイスナーはカルテに何か書き込みながら言う。
トマスの質問に答えるつもりがないことが伝わる。
「僕は後、どれくらい生きられますか?」
トマスは相変わらず明るく朗らかに訊く。
アイスナーは黙ったまま、カルテへの記載を続ける。
そして一段落したのか、トマスに向き直る。
目は隠されているが口元が見える。
形の良い唇は強い意思を示すように引き締められている。
トマスはアイスナーの返答を待つ。
「シャルマさん。
私達は治療に感心の無い患者の助けにはなれないかもしれません」
アイスナーは優しい声でそう告げる。
トマスは顎を落とし、アイスナーを見る。
「恋人ができたそうですね。
遠距離恋愛であるとか」
アイスナーは話題を変える。
「ええ?
そんなこともカルテに書かれているんですか?」
トマスは手で頭を掻き、照れるように呟く。
嬉しそうだ。
「旅行する必要があるということですね?
つまりあまり短い間隔ではここに来られないと?」
「え? ええ、まあ」
アイスナーの問いにトマスは曖昧に応える。
「必要以上に薬の処方はできませんが、二ヶ月分、処方するようにブラウン先生には伝えておきましょう」
今までの事務的な硬い口調からやや柔らかいもの言いになっている。
アイスナーはそこまで言うと、再びカルテに書き込みを行う。
「うわあ、有難うございます。
凄く助かります」
トマスは爽やかな顔で笑う。
「二週間に一回は容態を診せて欲しいのですけれどね」
アイスナーはカルテへの記載を続けたまま付け加える。
あ、はい、できるだけそうします、とトマスは応える。
直後、トマスは悪戯っ子のような表情になる。
「アイスナー先生。
カルテには書かないで欲しいのですが、十年分の処方とか、できます?」
トマスは訊く。
アイスナーはカルテに書き込む手を止め、トマスに顔を向ける。
「薬は症状に合わせて処方します。
十年間、病状が変わらないはずはないので無理ですよ」
アイスナーは再び事務的な口調に戻り、返答する。
トマスは、ですよねー、と言って笑い、引き下がる。
「検査は終わりです。
この後ブラウン先生の診察があります。
待合室で待っていてください」
アイスナーは告げる。
トマスは、アイスナーに一礼し、診療室を後にする。
アイスナーは閉じるドアを暫く見つめる。
「十年……」
アイスナーは呟く。
アイスナーはカルテを閉じて立ち上がる。
そしてブラウンの診療室のドアをノックする。




