第三章第二話(四)森の古傷
――崩壊歴六百三十四年六月二日午前
飛空機はフォルデンの森の上を飛ぶ。
「重機で均したようになっているわね」
ソニアは飛空機を操縦しながら言う。
飛空機は大きく右に傾きながら右旋回する。
アムリタはソニアの後ろの席に座り、右の窓から双眼鏡を覗く。
エリーはアムリタの左隣に座り、空中に文章を綴る。
エリーの綴る文章は銀色に輝き、やがて消える。
アムリタの顔もエリーの顔も綺麗に治っている。
ソニアの強い要望でエリーが治療を施したのだ。
「あれがラビナとアルンが追っかけ回された跡ね」
アムリタは他人事のように言う。
「これと同じ傷跡がラビナの心に刻まれたのね。
可哀想に。
あれに追っかけまわされたくないわねぇ」
アムリタは続ける。
「アムリタも追っかけてもらったほうがいいんじゃないの?
封印が解けるかもよ?」
ソニアはニコリともせずに言う。
飛空機のアクロバットより人に迷惑掛けないぶん良いし、とソニアは続ける。
「そっか、そういう手もあるわね。
前回はラビナのほうに行ってしまって試せてないわね。
次回はチャレンジしてみるかな」
アムリタは双眼鏡を覗いたまま呟く。
次回があるんだ、ソニアは体の横に両の掌を上に向けて広げる。
「森を上から見ると、明らかに周囲より背の低い木々が筋のように走っている」
ソニアは右下の森を指差して言う。
「つまりは数百年前に同じように森が大きく傷つけられたということね」
アムリタはソニアの言葉を継いで言う。
「アムリタ、貴女が最後に居た場所はどこにあるの?」
ソニアは訊く。
「そうねぇ、あの削られた森の入り口付近かしら?
以前は森の路はもっと川沿いに有ったはずよ。
森はもっと草原側まで張り出していて、あの付近はちょっとした集落だったのよ。
川の流れも随分変わってしまっているわね。
「あの川は暴れ川で、ちょくちょく氾濫が起きるのよ。
酷い時にはナイアス回廊からフォルドの森にかけて川のようになってしまうことも有るのよ」
アムリタは言う。
「どうする?
森を探索する?」
ソニアはアムリタとエリーに問う。
「下に降りて、森の古傷の付け根から、傷跡に沿って歩いてみるわ。
エリー、お願いできるかしら?」
アムリタはエリーに提案する。
「そうだな。
私とアムリタで下を探索する。
ソニアは空から誘導してくれ」
エリーは応える。
「ふうん?
私も下に降りたいけれど……、たしかに飛空機を停めるところが無いわね。
高度をギリギリまで下げる?」
「地上十五メートルくらいまで下げてもらえればアムリタを連れて降りられる」
エリーは請け負う。
ソニアは森の比較的背の低い木々の上を森の入り口側からナイアス回廊側に飛空機を滑らせる。
「下には下生えが藪となっていて獣道すら無いように見えるね。
歩くのは相当難儀するんじゃないかな?」
「そうねぇ。
少し低くなっていて湿地になっているのかしら?
藪が深いわね」
ソニアの観察をアムリタも認める。
「問題無い。
私が空間を繋いでアムリタを連れてゆく」
エリーも下を見ながら言う。
「貴女たち二人が組んでいれば、道なき道を行くことができるか……。
どこに下ろす?」
ソニアは二人を下ろす場所を訊く。
森の入り口側か、それともナイアス回廊側かと。
「あの、小さな空き地にお願い」
アムリタは森の奥、木々の生えていない小さな地面を指差す。
飛空機を着陸させるほどの広さは無いが、足場は良さそうだ。
ソニアは、了解、と応える。
アムリタとエリーは荷物の選別を行う。
「足場が悪そうだからブーツにしましょう。
油紙を巻いて。
後はタオルとズボンの替えだけで良いかな?」
アムリタはテキパキと背負袋に荷物を詰め込む。
エリーもブーツに履き替え、タオルと着替えを背負袋に詰める。
そしてフルートのケースを見つめる。
「フルートを持って行くの?」
アムリタはエリーに訊く。
「そうだな。
今回は、危険は無さそうだから持っていくか」
アムリタの言葉に後押しされるようにエリーは呟き、フルートのケースを背負袋に突っ込む。
フルートのケースは長いため、背負袋の口から飛び出ている。
「アムリタ。
先ず、あの木の太い枝に跳ぶ。
支えるが足元に気をつけてくれ」
エリーはそう言い、アムリタの腰を抱き、支える。
ソニアはギリギリまで飛空機の高度を下げる。
エリーは空中に図形を描く。
空間が銀色に輝く。
エリーとアムリタは銀色の空間に足を踏み入れる。
そして二人は飛空機の機内から消える。
百キロ近くの荷重を失い、飛空機は跳ね上がるように上昇する。
――ズシン!
異様な地響きがする。
エリーは木の枝を踏み、バランスを取る。
そして右手で木の枝を抱える。
アムリタも同様に木の幹に足をかける。
エリーはアムリタを支えながら次の足場を探そうとする。
しかし目星を付けていた木が見つからない。
「大丈夫だから」
アムリタが言う。
エリーにではない。
飛空機に向かって言っているようだ。
エリーは目の前の光景を認識する。
かつて空地であった所に横たわる、巨大な蚕蛾の幼虫のごとき体躯に海老や昆虫の足に似た触手の大小が無数に生えているクリーチャーの頭部が至近距離にあるのを。
クリーチャーは雷光を纏っているようだが、周囲が明るすぎて明確ではない。
エリーの右手は素早く動き、二人の後方が輝く。
「大丈夫だから」
アムリタは繰り返す。
顔は相変わらず飛空機、ソニアの方を向いている。
しかし今度はエリーに向かって言っているようだ。
『どこが大丈夫なのよ!
すぐにこっちに戻りなさい!』
飛空機から拡声器にのってソニアの声が響き渡る。
ソニアはアムリタの唇を読んでいるのだろう。
「だめよ。
それではこの子を刺激することになるわ」
アムリタは飛空機に向かって言う。
エリーは迷う。
アムリタを連れて退くか?
しかしアムリタは、大丈夫だから、と言った。
「ジャックは間違っていたのだな?」
エリーはクリーチャーから目を離さずにアムリタに訊く。
エリーのアムリタの背中側に回された右手は激しく文章を綴っている。
「そうね。
ジャックは勘違いをしたの。
この子は時の猟犬なんかじゃないわ」
アムリタは顔を飛空機に向けたまま応える。
『あんたたち何を悠長な!
早く逃げて!』
ソニアは悲痛な叫び声を上げる。
「ラビナがフォルデンの森に来たから現れた。
そして今度は君がここに来たから現れた。
そうだな?」
エリーはアムリタに確認するように訊く。
「ちょっと違うかしら。
この子はエリーがここに来たから現れたのよ」
私が?
エリーは巨大なクリーチャーから目が離せない。
クリーチャーの数ある足のうち長めの足がエリーたちの立っている枝にゆっくり伸びてくる。
「ソニア。
撃たないであげて。
この子は傷付いている。
もう痛いのは嫌なのよ。
私たちは大丈夫だから」
アムリタは飛空機のほうに顔を向けながら言う。
そしてクリーチャーの伸びた足伝いに歩く。
「私とエリーはこの子の世界に行くわ」
アムリタは尚も飛空機のほうを向いて言う。
エリーは決意したような表情となる。
そしてアムリタに続き、クリーチャーの伸びた足の上をクリーチャーの体躯に向かい歩く。
クリーチャーの他の足がアムリタとエリーの周りをゆっくりと垂直に取り囲む。
二人を落とさないように。
もしくは二人を逃がさないように。
「アムリター!
エリー!
待って!
私も行くわ!」
ホバリングを続ける飛空機のハッチが開く。
ソニアが身を乗り出し、叫ぶ。
ソニアは縄梯子を下ろし、下に降りようとする。
「来ちゃ駄目よ!
ソニー!
間に合わない!」
アムリタはソニアに負けず大声で叫ぶ。
「夢幻郷で会いましょう!」
アムリタがそう叫んだとき、クリーチャーの周囲に雷光が瞬き、クリーチャーの輪郭が薄れてゆく。
クリーチャーは薄い黒い煙の中、存在が希薄になる。
エリーとアムリタと共に。
そして大きな長い窪地だけが残る。
ソニアは眉を吊り上げて窪地を凝視する。
そこにはクリーチャーの痕跡だけが残る。
「アムリタ!
貴女はどこまでも勝手なのよ!」
ソニアは縄梯子に足をかけたまま叫ぶ。
「アムリタの莫迦ー!
私は貴女を殴るわ!
言っても分からないんだから!」
ソニアの叫びはフォルデンの森に消えてゆく。




