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第八話

 そして、ことが起こったのはとある平日の仕事上がりだった。


*****


「藤田さん、ちょっといいかしら」


 仕事が終わって会社から出てきたところで、声をかけられて。

 あれ?秘書課の曽根さん?

 相変わらず、艶やかで綺麗な人だなあ。・・・でも、なんかちょっと怖い。


「話があるの。ちょっとつきあってちょうだい」

「ええ?あ、ちょっと」


 曽根さんは私に有無を言わさず近くのコーヒーショップへ引きずり込んだ。そしてさっさとエスプレッソを2つ注文すると、それを持って奥まった席にすたすたと行ってしまった。仕方なく私もそれを追いかける。

 向かい合わせに座ると、うう、なんか気まずい。美人の視線が痛い。

 エスプレッソの1つを私の前にどん、と置いて「飲んで」と促してくるので、お礼を言って口をつけたが、実は私これ、苦手なんだ。コーヒーはミルクを一杯入れないと飲めないの。


「あなた、高木さんのことはどう思ってるの?」


 あ、やっぱりその話題ですか。


「高木さんですか。とってもいい人ですよね。優しいし」

「そんなこと聞いてるんじゃないわよ。好きなのかどうか聞いてるの。まさか、つきあってるわけ?」


 実に単刀直入な人だ。


「つきあってるわけじゃないなら、彼とは少し距離をおいたほうがいいんじゃないかしら。まわりからのやっかみもひどいし、それに、あんまりつきまとったら高木さんに迷惑よ?」


 む。

 何ですかそれは。

 私がつきまとってるわけじゃないんですけど。


 私が押し黙っているのを反論できないものだと思ったのか、曽根さんはべらべらとしゃべり続ける。


「人づてに聞いたんだけど、あなた男の人が苦手なんだって?でもそんなことないわよねえ?だって、高木さんのそばにべったりじゃない。毎週末一緒に出かけてるって噂になってるわよ。ああ、それとも、過去の不幸な恋愛を話して高木さんの同情買ってるのかしら?そうやって、かわいそうな女の子を演じてあの人の興味を惹いてるのね。さもなきゃ、高木さんがあなたなんかに興味を示すわけがないもの」


 だんだん化けの皮がはがれてきた感じですね、曽根さん。

 ひどいこと言われて、怒りで頭がぐちゃぐちゃだ。反論してやりたいけど、なぜこんな人に自分を取り繕わなきゃいけないのか、自分の考えを知ってもらわなきゃいけないのかわからなくなった。

 エスプレッソの入ったカップを握りしめた手がわなわなと震えている。


「曽根さんには、関係のないことだと思います!」


 うう、そう叫んでやりたい。

 でも、それをやったら明日から会社は針のむしろになっちゃう。

 曽根さんは男性にも女性にも、シンパがいっぱいいる人だから、そんな真似すれば「社内でハブってください」ってプラカードもって歩くようなものだ。

 私はただぐっと下腹に力を入れて黙っていることしかできなかった。


「じゃ、いいわね?もう高木さんにまとわりつくんじゃないわよ」


 私の返事を待たずに曽根さんはさっさと席を立って行ってしまった。



 あれ?

 これって、私が曽根さんの言葉に同意したことになっちゃうの?


「うーん」


 それは困る。だって、実際寄ってくるのは私じゃなくて高木さんだし。

 だよね。

 毎週末、軽井沢のお庭に行くのは確かに楽しみだけど。

 夕食に誘われるのも嫌じゃないけど。ていうか、楽しみにしてるけど。

 だから、会えなくなるのはちょっと困る…かな?


 あれ?





 違う。

 これは恋じゃない。

 きっと。



 ♦♦♦♦♦


 曽根さんとの一件のあと、なんとなくモヤモヤしたまま毎日を過ごした。

 幸い、というか、高木さんはちょうど出張に行っていて会うことはなかったので特に何事もなく平穏に週が過ぎていった。

 ただ、毎日夜に電話はかかってきてたけど。


 《どうしたの、何か様子が変だよ?》


 出張の最終日の夜、受話器の向こうの優しいテノールが心配そうに囁く。


「え、何にもないよ?大丈夫」

 《みなみ?》


 努めて明るい声を出してみたけど、かえって不信感をあおっちゃったみたい。


「…本当に何もないから。ちょっと疲れてるのかもね」

 《ならいいけど。無理しちゃダメだよ?》


 高木さんはやさしい。そのやさしさに甘えてる自分に嫌気がさすほどに。

 曽根さんの言ってたことは、あのときはとってもムッとしたけど、正しいと数日経った今は思う。

 おつきあいする気がないのに、こんなふうにしてちゃだめ・・・なんだよね。


≪みなみ?≫


 恋人じゃないのに、つきあう気もないのに、こんな風に気を持たせるようなことをしちゃ、だめだ。


「高木・・・さん?」

≪ん?≫

「高木さん、私、このままじゃよくないのかなあ」

≪え?≫

「最初も言ったけど、おつきあいする気もないのに、これ以上気を持たせるような真似はよくないのかなあ、って」


 言った!



 一気に吐き出すように言うと、それ以上言葉が出てこない。何も言えなかった。

 高木さんも、押し黙ってしまっている。

 電話の向こうとこっちを繋ぐ沈黙の中で、聞こえてきたのは窓の外を走る車の音だけだ。


 でも、思い切って言ってみたら、喉の奥に冷たい石の塊があるみたいに心がぐうっと重たくなった。


 《…誰かに何か言われた?》

「え…ちが…」

 《じゃあ何で泣いてるの》


 泣いてる?


 慌てて目元に手をやると、本当にほっぺたが濡れていた。

 何で見えないのにわかったの!


 《苦しそうに息を詰めてるような音がしてたから。

 とにかく!俺、明日帰るからちゃんと会って話そう。いい?》


 私はただか細い声で「うん」と返事することしかできないでいた。



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