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第二話 偏愛 五


 五



 今日は本当に幸せな日だ。

 ゼミ室で一緒にお話しできるだけでも十分幸せなのに、あの後、横山先輩は私をなんと家に誘ってくれたのだ。

 二人で手をつないでキャンパスを歩く。照れくさくて顔が真っ赤になったけど、先輩が言ってくれた。

「照れなくていいよ。俺たちは恋人同士なんだから」

 そんな風に言われて、私は天にも昇る気持ちになった。

 途中で何人か見知った人たちとすれ違った気がしたけど、誰の名前も思い出せなかった。でも全然いい。横山先輩さえいれば何にもいらないのだから。

 横山先輩の車に乗る。今時はやりのかっこいいSUV。流石だなあ。

 助手席にすわり、車が発進する。ふと、膝に乗せた自分の古びたエナメルバッグが恥ずかしくなってきた。こんなことなら、もっとおしゃれなバッグを買っておけばよかった。やっぱりそのほうが先輩も好きだよね。

 先輩にそう言うと、運転しながら先輩は笑った。

「ひとみは何をもっていても素敵だよ」

 私はうれしくてバッグをぎゅっと抱きしめた。運転している先輩の横顔もかっこいい。

 もうとっくに日が沈んだ頃に、先輩の家に着いた。ずいぶん長い距離を移動したけど、夢のようなドライブはあっという間に感じた。

先輩の家は、少しだけ人里離れたところの、小さな西洋風の一軒家だった。

「ひとみのために借りたんだよ」

 先輩の一言に驚いた。実家がすごいお金持ちだとは聞いていたけれど、家一軒をポンと借りられるなんて。本当に先輩はすごい。

 先輩の家にお邪魔する。ちょっと年季が入っているけど、掃除が行き届いていた。靴を並べている間に、先輩がドアにカギを閉める。一つ。二つ。三つ。三つもカギがついてるんだ。

「防犯は大事だからね」

 見ると鍵のうち二つは後から取り付けたらしい南京錠だった。内側からも取り付けるなんて、先輩は防犯意識が高くて尊敬してしまう。

「どうぞ」と長い廊下の奥の大きな部屋に通される。

 ベッドや机がある部屋だった。先輩が暮らしいている部屋だと思うとドキドキした。

 おしゃれな窓の横の本棚には、たくさんの本が並べてあって、先輩が勉強家なことがわかる。隣の棚にはゼミ室と同じようなCDプレイヤー。そしてトロフィーがいくつも置いてあった。そうだ。先輩は空手で全国大会に出たって聞いた。すごいなあ。

 あれ? この話、誰に聞いたんだっけ?

 棚の一つに高そうなカメラも置いてあった。壁には風景の写真がたくさん飾ってあった。写真の趣味もあるんだ。先輩は本当に多才だ。

「今、飲み物、用意するね」

 そう言って部屋を出ようとする先輩を、私は必死に引き留めた。

 私なんかが、そんなおもてなしをされるのはあまりに恐れ多い。よく考えれば、これまで何を考えて先輩に紅茶やらお菓子やらを用意させていたのだろうか。私のようなちっぽけな存在がこんなにすごい先輩に気を使わせるなんて身の程知らずにもほどがある。今からでも謝罪したい気持ちになった。

 先輩は小さく笑って、CDプレイヤーをいじり、いつもの音楽をかけてくれた。心地の良い歌声とリズムが部屋を包む。さっきからドキドキしっぱなし胸がより高まっていくのを感じた。

 ふいにエナメルバッグが微かに揺れた。開けると、スマホが着信を告げている。画面を見る。「凪ちゃん」と表示が出ていた。誰だっけ?

 まあいいや。と震えるスマホをそのままバッグに戻した時、バッグの底のミネラルウォーターのペットボトルが目についた。あれ? こんなの持ってたっけ? 

 ちらりと先輩を見ると、先輩は私に背を向けて、部屋のドアにも南京錠で内側からカギを閉めていた。先輩は何をしていてもかっこいい。

 ふと、のどの渇きを感じた。緊張からだろうか。先輩の申し出を断った手前ではあるが、かすれた声で先輩と話すのも失礼だ。一口だけ、こっそり飲もう。

 先輩に気づかれないように背を向けて、キャップを開ける。新品のペットボトル特有のキャップをひねる音に注意しながらキャップを開き、一口、ごくりと飲み下した。

 その瞬間、ふっと意識が飛んだ。



 私は真っ白な空間に突っ立っていた。

 どこだろうと思っていると、すっと右手が引っ張られた。見ると、横山先輩が笑顔で私の手をにぎっていた。こっちにおいでという意味だろうか。

 私が喜んでそちらに行こうとすると、反対側の手が別の誰かに引っ張られた。

 驚いて振り向くと、黒髪ロングの女の子が私の左腕を両手で握っていた。丸メガネが可愛らしいこの子も、にっこり微笑んでいる。誰だろう。

 横山先輩も私の右手を両手で握り、軽く引いた。そして優しくささやいた。

「大好きだよ。ひとみ」

「私も」と答えようとした瞬間、くいっと今度は左手が引っ張られる。見ると女の子も笑顔のままささやいた。

「大好きよ。ひとみ」

 右手が少し力を込めて引っ張られる。

「大好きだよ。ひとみ」

 左手がさらに強い力で引っ張られる。

「大好きよ。ひとみ」

 右手が引っ張られる。すごい力で。

「ひとみ」

 左手が引っ張られる。恐ろしい力で。

「ひとみ」

 二人はまるで綱引きのように私の両手を反対方向に、渾身の力で引っ張り始めた。両肩が外れそうになり、私は悲鳴を上げた。

 千切れる。真っ二つにされる。

 それでも二人はやめない。一切の手加減なく。

 はちきれんばかりの笑顔で。

「ひとみ」

「ひとみ」

 私は絶叫した。




 私は短く声を上げて、我に返った。先輩の家の部屋で、ペットボトルを握りしめて突っ立っている。

「びっくりした。どうしたの」

 ドアにカギを閉め終わった横山先輩が驚いて振り向く。

「だ、大丈夫です」

 私はふうっとため息をつきながら答えた。びっくりした。白昼夢というやつだろうか。しっかりしなきゃ。私は今、せっかく先輩の家に……。


 え? なんで私、先輩の家にいるの?


 さあっと血の気が引いた。

 急に自分の行動の異常さに気が付く。

 言われるがまま、男の家に上がり込むなんて、何をやってるんだ私は。

 おそるおそる周りを見渡す。

 私は視力がいいので、想像になってしまうが、目が悪い人が急に眼鏡をかけたらこんな感じなのではないだろうか。さっきまでぼやけていた視界が急にクリアになった気がした。

 まず、窓を見る。

 おしゃれに見えた窓をよく見ると、真新しい鉄格子がはまっていた。

 本棚に目をやる。

 並んでいる本はほとんどが外国語のタイトルで読めなかったが、いくつか日本語の本もあった。背表紙のタイトルにちりばめられた単語を目で拾う。

「西洋呪術」「愛の妙薬」「動物性媚薬」「植物性媚薬」「ソロモン王の鍵」「愛の蝋人形」そして「愛の呪文」。

 次に棚に目をやった。

 大きくはさっきまでと変わらない。CDプレイヤー。トロフィー、カメラ、壁にたくさん貼られた写真。

 そこで私はヒュっと息を飲んだ。

 さっきまで風景だと思っていた写真には一人の人間が必ず映り込んでいた。


 私だ。


 学科の歓迎会での集合写真を私だけ拡大した写真など、ぎりぎり身に覚えのある写真も何枚かあったが、ほとんどが盗撮写真だった。

 廊下を歩く私。売店に並ぶ私。授業に急いで向かう私。図書室で居眠りする私。バスで座る私。休日に買い物をする私。そして、様々な角度のゼミ室でテーブルに座って紅茶を飲む私。


 ぞぞぞと背筋が寒くなる。


 無理。むりむりむり。ムリすぎる。


 私はペットボトルを取り落とした。とぷとぷと水が床に流れ落ちる。


「どうしたの? そんな顔して」

 先輩が笑顔を作る。

 その整った顔に張り付けられた笑顔に、さっきまではあんなに安心感を感じていたのに、もう今は嫌悪感と恐怖心しか感じなかった。

 なんとか、声を絞り出す。

「あ、あの……。やっぱり、帰ろうかな……と」

「帰る? どこに?」

 先輩は笑顔のまま首を傾げた。


「ここがひとみのお家だよ」


 狂ってる。

 先輩の背後には南京錠で完全に施錠されたドアがあった。カギは先輩が持っている。


「今日からここでずっと二人で暮らすんだ。ずっとね」

 



続きは明日投稿予定です。

よろしくお願いします。

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