2話 記憶喪失
「ん、んん? ……ここ、は?」
目を覚ました少女は頭を押さえつつ周囲を見回した。
ズズッ
少女が体を起こした時ちょうど左手に大きな鉄扇が落ちていた。その大きさは少女と同じくらいの大きさで160センチほどある。重さは見るからに常人には持てないほどの重さと見て分かる。
「これは、何だろう?」
少女は記憶喪失になっていた。ここがどこで、自分が誰なのか全く分からない。わかることといえば今が昼を過ぎたぐらいであること、どこかの森で倒れていたこと、頭がズキズキと痛むこと、この3つくらいだ。
「……何も、思い出せない」
ズッ、ズッ、ズッ
少女が思案していると何かが移動する音が聞こえてきた。それもかなり近い。少女は立ち上がり後ろへ視線を向けると目を見開いた。少女の後ろには巨大な蛇がいた。大蛇は下をチロチロと出し入れしながら、目を細めて少女を見る。それはまるで品定めをしているようであり、この後どうなるかは嫌でも予想できる。
「う、うわぁ!」
少女は後退り、すぐに背を向けると走り出した。大蛇もそれに合わせて移動する。少女が必死に走る後ろで大蛇は余裕をもってゆっくりとついてくる。まるでいつでも捕らえられる、早く逃げないと食べちゃうぞと狩りを楽しんでいるようである。少女は走れど走れど大蛇がついてくるのを肌で感じた。時折後ろ振り返りいないことを祈るが祈りが届くこともなく大蛇は距離を保ったままついてくる。いや、微かにだが少しずつ近づいていた。
「ハァハァハァ」
少女は走り続けてどのくらいたったのかわからない。どこを走ったのかもわからない。体は泥と汗で汚れ、無理に草木をかき分けて逃げるから傷が増えてきた。すでに満身創痍だ。たまにこのまま逃げ続けるよりも止まったほうが楽かもなんて考えてしまう。お腹も空いてきたのにいまだ走り続けられる自分の体力が憎らしく感じてくる。
しかし追いかけっこも突然終わりを告げる。逃げていた少女は地面から出た木の根に足を引っ掛けて転んでしまう。
「あうぅ。あっ、ああっ!!」
少女に影が差して少女はもう終わったと確信して体を縮めて目を閉じる。大蛇はゆっくりと少女に顔を近づけると長い舌で少女を舐めはじめた。ただでさえ汚れていた体に唾液が混じる。大蛇の行動に対し体が生理的に受け止められず全身に鳥肌が立つ。
恐怖と気持ち悪さで硬直した体では抗うこともできない。大蛇が舌で舐め回しとうとう少女を丸飲みにしようと大口を開けた時、
「目と耳を塞いで‼︎」
凛とした高い声とともに2回何かが弾けた音がした。
「立って! すぐ走るよ!!」
そして少女の腕を取ると声の主は走り出す。腰の抜けた少女は最初声の主に引きずられるようにされるがままだったが、だんだんと自分の足で走り出した。
たった1日でそれもこんな短い時間にどれだけ走ったのだろう、もう走りたくない、そう思い始めたところで森の終わりが見え始めた。
「ふう、ここまでくれば大丈夫かな?」
そう言って少女を助けた人物は急に止まる。ひたすら走り続けた少女は不意をつかれた形になり勢い余って前へと転んでしまう。
「んむぅ」
「わっ、ご、ごめん。大丈夫?」
転んだ少女を起こす、彼女を助けてくれた人の顔を少女は初めて見た。その顔は高めの身長と声と同じように凛とした雰囲気を醸し出すもので綺麗な、しかし少しあどけなさも残るものであった。見た所20歳前後の女性のようだった。フードから覗く深緑の髪が彼女に落ち着いた雰囲気を持たせている。服装は動きやすさを重視したような簡素なものであるが、民族衣装のような独特さも兼ね備えていた。
少女は袖で顔の泥をごしごし拭うと助けてくれた女性に向き合い、
「……助けてくれて、ありがとうございました」
「いやいや、私も用事があって偶然通りかかっただけだから、それにあんな場面を見たらあまり放っておけないしね。そうだ、私はアマリっていうの。あなたは?」
ぺこりと頭を下げた少女に気にしないでと手を振りながら少女を助けた女性、アマリは名前を聞く。しかし少女は眉をしかめる。
「……名前、わからない」
「わからない?」
少女の予想外の答えにキョトンとして聞き返してしまうアマリ。
「えぇっと、どういうこと? わからないってことは名前がないのか ……記憶喪失かな? 記憶喪失っていうことでいいのかな?」
「はい、気付いたらあそこにいて……。ここがどこかもわからなくて」
「んー、じゃあ行く当てがないってことだよね? 私は付与魔法師をしているんだけど各地を旅しているんだ。良かったら一緒に来る?」
少女からしたら願ってもいない誘いだ。自分が誰なのか分からないこと以外にも疑問に思うことが多い。
「……邪魔でなければよろしくお願いします」
「そんなことないよ。よろしくね。それと私に敬語なんていらないよ。じゃあ村に行こうか、……えっと、何て呼べばいいかな?」
アマリとともに行動することが決まったが、新たな問題が発生した。
「名前は……何でもいいです。自由に呼んでください」
「わかった。じゃあ私が名前を付けてあげる。あと敬語はいらないからね」
んー、と進みながら手を組んで考えるアマリ。それをボーとして後ろをついていく少女。しばらくすると突然アマリは手を胸の前で合わせて少女へ向き直る。
「決めた! あなたの名前はルアね」
「るあ?」
「そう、月と森の女神様の名前でね、人々に安寧を与えてくれるといわれているの。神様の名前なんて失礼かもしれないけどあなたすごく可愛いし、髪が黒で夜を連想したのと会ったのが森だったからていうのが大きいんだけど、どうかな?」
「るあ、るあ、ルア……ありがとう」
「ホッ。喜んでもらえてよかった。名前を付けるなんて初めてだからどんなのがいいか迷っちゃったよ」
その後はしばらくルアとアマリでルアのことを話していたがルアにはここら辺の地名に全く心当たりがなかった。また先程ルアが食べられそうな時に弾けた音は、一回目が閃光弾で目眩し、、二回目が小型の爆弾で口に放っての時間稼ぎだったとのこと。
アマリはルアの着ている服が今まで見たことない奇妙なものであると思ったが、聞いても分からないだろうから聞くのをやめた。
歩き続けると木の柵で覆われた集落が見え始めた。
「んー、着いたよ。私はここでしばらく宿を借りているんだ。入る時に門番に止められるかもしれないけど私が説明しておくよ」
そう言ってアマリは門の前で座りながら談笑していた門番と思われる男たちに話しかけていった。説明を終えると集落に入る許可をもらい門を抜ける。
集落へ入るとしばらくまっすぐ進み、大体集落の真ん中辺りの他の家と比べて大きい家に入っていく。そのままアマリは女性に話しかける。見た感じ、そして話の内容からルアはここは宿であると判断した。宿の女将と思われる受付に座っていた女性に話しかけた。その間ルアは家の中をキョロキョロしていた。
「ただいま」
「おかえり。思ったより早かったね」
「色々あって、途中で切り上げてきたんだ」
「ふーん、そうかい。で、そっちの子は誰だい」
少し離れてルアと女将の話を眺めていたルアに話が振られる。
「あの子はヌイムブニに追いかけられてたのを助けたんだ。記憶喪失みたいだから連れてきたんだけどいいかな?」
「ほー、そうかい。それなら構わないがあんたと相部屋でいいんだよね? 名前は……記憶喪失だから覚えてないか」
「あっ、名前は私が付けたよ。ルアっていうんだ」
「へぇ、女神様の名前かい。あんたにしてはなかなかいい名前をつけたじゃないか。ハッハッハッハッハッ」
「ちょっ、それどういう意味? 私に対して失礼じゃない? ねぇ、笑うのやめてよ!」
女将がアマリをからかい、それに対して納得いかないのか反論する。しかし女将は取り合うこともなく、笑い続けている。
その時
グー、キュルル
ルアのお腹が盛大になり、ルアはお腹に手を当ててうずくまる。
「……お腹、すいた」
「いや、悪かったね。腹減ったんならすぐ飯に……って言いたいがね。それにしてもひどい汚れだ。ご飯は作っておくから先に風呂入ってきな」
「わかった。じゃあルア風呂に行こうか。ご飯はそれまで待ってね」
「……わかった」
ご飯は風呂の後と聞いて少し辛そうにお腹をさするルアだが、自分は何もできないから従うことにした。そしてアマリに連れられるまま二人は風呂場へ向かう。
「フフ、ルアもきっとお風呂を見たら驚くと思うよ。ここはね、温泉が湧き出てて、それを使ってるんだ。楽しみにしていたらいいと思うよ」
鼻歌を歌いながらアマリは楽しそうに進む。それは今にもスキップをしそうな感じだ。
しばらく進むと椅子と箱のおいてある部屋についた。
「ここで服を脱いでこの箱に入れておくんだよ。日にもよるけど、量が少なければ女将さんが服を洗ってくれるけど、多ければ自分たちで洗うから。着替えは私のを貸すから。タオルはここに入ってるからね。はい」
説明を終えたアマリはタオルと着替えをルアに渡すと早く入りたかったようですぐに服を脱ぐ。彼女の生まれたままの姿を初めて見たルアは違和感を覚え、首を傾げた。
「……尻尾?」
「さってと、早く入ろっと。……ん? 尻尾がどうかし……っ!? ひゃぁああ!!」
ムギュッ、ムギュムギュ
ルアがそんな音がしそうなほど強く尻尾を掴むと振り返ろうとしていたアマリが背筋をピンと立てて悲鳴を上げた。ルアが手を放すとアマリは手を地面につけ、四つん這いで呼吸を整えていた。そしてそのまま顔だけルアのほうへ向けると、恨めしそうな目でルアを睨み付けて
「きゅ、急に人の尻尾触るなんて何考えているの!? 尻尾は敏感なんだからむやみに触ったら駄目だよ‼︎」
「……その尻尾って本物?」
「当たり前だよ! 本物じゃなかったら何なのよ! ……もしかして記憶が戻って獣人は見下す人?」
ルアの疑問にアマリは記憶を思い出したのかと思ったが、ルアは首を振りつつ、
「思い出してない。けど人に動物の尻尾が付いているのが不思議で」
「……? ずっと気づいていなかったの?皆尻尾はあったし、獣耳だよ? 獣人のことも知らなかったの?」
「獣、人?」
アマリは耳を示しながら尋ね、その後「常識とかも無いの?」などとブツブツ呟いていた。
しかしそれもすぐに切り替え、風呂に入ることを促す。
「まぁ細かいことは後で考えるとして今はお風呂に入ろうか。遅いとご飯が冷めてしまうかもしれないし。先に入っておくからねー」
そう言ってドアを開けて風呂に入り体を洗うアマリ。洗ってしばらくしてドアが開き、ルアが入ってくる。どうせ体を洗う時にタオルは巻かないからとアマリは何もつけずに風呂に入っていった。それに習ってルアも体にタオルを巻かずに入っていった。
それがいけなかった。いや、結果的にはある意味良かったのか。
「あ、やっと入ってきたね。どう?結構、広いでしょ。早く体洗って湯船に……え? …………きゃぁぁあああ!」
髪を洗っていたアマリは泡を落としてルアに風呂が大きいことを自慢しようとして沈黙。そして突然の絶叫。叫ばれた当人のルアは何故叫ばれたのか分からず、また突然だったこともあり、体をビクリと震わせきょとんと立ちつくしていた。
「え? え? え? どういうこと? 何が起こっているの? え? 嘘でしょ? もしかして……」
顔を真っ赤にし、両手で顔を覆いながらもその隙間から覗き込みつつまるで悪い夢だとでも言わんばかりのことを口走っている。そしていくらか落ち着きを取り戻して、意を決したような表情になり、
「る、ルア、あなた、お、女じゃなくて、男だったの?」
記憶喪失の少女、ルアの股間には男性の象徴とでもいうべき立派なものがついていた。ルアは少女ではなくまぎれもない少年であった。
ではなぜアマリがルアを少女と思い込んだか。一人称が『俺』ではあるが稀にに自分をそう呼ぶ女性も世の中にはいるし、顔が女性顔で体の線が細く儚げな雰囲気纏っていた。服装はアマリには見たことないものを着ていたが、ルアはズボンを穿いていた。しかし、旅をするものや戦場に身を置くものはほぼ全員が男女関係なくズボンであるためアマリも気にかけていなかった。以上でアマリは勝手にルアを女性と認識していた。
「? うん。俺は男だよ。それくらいは憶えてたよ?」
「え? じゃ、じゃあどうして私と同じお風呂に、入っているの?」
「? 混浴なんじゃないの?」
首を傾げてルアはそんなことを言う。その予想外の返答にアマリは目をパチクリさせて呆気にとられる。
「そ、そそそそんなわけないでしょうがー!!!」
浴場でアマリの絶叫が響いた。
風呂から出た二人は簡易の木製の椅子と机がいくつも置かれた部屋で向き合っていた。二人の間には食事が置かれている。ちなみにアマリは怒りなのか羞恥なのか判別はつかないが未だに顔が赤い。いや、おそらく両方なのだろう。ルアの服は女将の旦那さんの服を借りた。
ご飯の時間には少し早いためか今この部屋には3人の人間しかいない。
「ああ、なるほど。風呂ではそんなことがあったのかい。あの叫びを聞いて何事かと思ったが生憎手一杯で火も使ってたし離れられなくてね。まあどうせルアの胸があんたよりも意外と大きくて嫉妬で怒り狂ったんだろうと思ったんだが。……ふーん、それにしてもルアが男だったとは。あたしも女の子だと思ってたよ。ま、見られたのはアマリの裸だけだしそう目くじら立てるほどのことでもないだろう」
「ちょっ! 何その失礼な言い方。いくら私でもそれぐらいで怒り狂わないよ。それに乙女の裸を見られたんだよ? 大問題だよ! 誰でも怒るよ!!」
プリプリと怒りながらアマリは手元にあったパンを千切ってスープに浸して食べる。ルアもそれを見て食事を始める。しかしルアはパンをそのまま食べる。アマリと女将はそれを見て止めようとするが一足遅く、パンはルアの口の中へと入っていく。
しかし彼女たちの予想と違ったのか首を傾げている。
「えっと、ルア? その……何ともないの?」
「どうしたの? 何かおかしかった?」
ルアの返事に2人は目を合わせる。すると女将が
「そのパンはスープに浸さないと固すぎて噛めないパンなんだがね。それを何とも思わず食べられるとは」
「ん、ちょっと固いけど噛めないこともないよ」
「それをちょっとって……」
ルアはちょっとと言うがアマリたちからすればちょっとと言う固さではない。そのため2人は呆れている。
「こいつは驚いたよ。……それで、さっきから気になっていたんだがルアのその髪の色はどうしたんだい?」
女将が気になったのはルアの髪色。なにせ、ルアの髪の色は風呂に入る前は黒だったのだが、今では綺麗な白銀になっていた。それはまるで雪を連想させるものだった。
「わかんない。風呂に入ってたら黒い液体が流れてると思ったらルアの髪がこんな色になってた。ルアもわからないって言うし。でもすごく綺麗よね、その色」
食事が終わると2人はアマリが借りている部屋へと移動していた。部屋の中にはタンスがあるくらいで他には2つ布団が敷いてあるだけだ。アマリが布団の1つに腰かけたため、ルアももう1つに腰かける。
「ルアに聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「ん? いいよ」
「ルアは常識についてどのくらい憶えているの? 憶えていいる範囲でいいから教えてくれない?」
ルアは少し難しそうに眉を寄せて下を向く。その際左手の人差し指で頭をトントンしていた。そのまま時間が経つことしばらく、さすがに質問が難しかったかと思いアマリが謝る。
「ごめんね、質問が曖昧すぎたね。えっと、じゃあ……私が質問していくから憶えていたら言って。もし、憶えてなかったらその都度説明するから」
それからはアマリの質問攻めが続きルアがどのくらい憶えているかの確認が行われたが、結果としては散々だった。ルアはこの世界の住人であるならば普通知っているだろうことのほとんどをというか全く憶えていなかった。
――例えばこの世界に存在する生物のこと
――例えばこの世界に存在する技術のこと
――例えばこの世界に存在する大陸および国の名前のこと
――例えばこの世界に存在する宗教のこと
アマリはルアに世界の常識を説明する。
内容としては大雑把だが最低限のことである。
世界には人種、魔物と呼ばれる化け物、動物が存在する。人種も普人族、獣人族、龍人族、魔人族、天人族、森人族、土人族、木人族、妖精族、精霊など多くの種が存在しているようだ。細かくするともっと多くなる。
そしてここはテラスティオス大陸と呼ばれる大きな大陸とマクリア大陸とローグナル大陸というテラスティオス大陸の3分の2の大きさの大陸、アシルス大陸とハリファナ大陸と呼ばれる小さな大陸がある。現在ルアがいるのは、アシルス大陸の村である。
この世界には魔法が存在する。ほとんどの人には魔力が流れている。しかしこれには努力と才能が必要であり、誰もが使えるというわけではない。たいていは火を灯すや水で洗うなどの生活に必要な程度、それも道具の補助がないと使えないもののみである。それ以上の狩りなどのような戦闘に使うものを使えるものは圧倒的に少ない。また、魔法には火・水・土・風・無の下位属性、氷・木・雷・光・闇の上位属性が存在する。下位属性のうち無属性は例外で魔力を持つならば全員が使える。他の属性については無属性を除いてどれか一つしか使えない。使える属性は例外もあるが種によってだいたい限定されている。上位属性は相当な才能がなくてはまず使えない。しかも才能があっても下位属性との相性もある。水、土、風はそれぞれ氷、木、雷となるが火属性に上位属性は存在せず、光、闇の二属性のどちらかが使えるものは無属性を除いた下位属性は使えない。
その他諸々の常識などを聞き終えたが、やはりルアには全く覚えがなかった。
説明が長くなり、すっかり遅くなったためこの日はとりあえず寝ようということとなった。
「……紅い、月……?」
白銀の髪を持つ少年は空を見上げてポツリと呟く。
アマリは寝てしまったがルアはどうにも寝付けず、寝間着姿のまま手近にあった羽織ものを羽織って外に出てきた。
「月って紅かったけ? うあぅ!!」
疑問を口にしたとき頭に痛みが走る。その時何かがフラッシュバックする。しかしそれは朧げですぐに霧散する。
「本当、俺は誰なんだろう」
そう口にしてルアは身をひるがえし宿へと戻っていった。




