番外編3:恋人の呼び方(神殿から戻って二ヶ月後)
「エレナ……君にお願いがあるんだけど」
就寝前、エレナを部屋まで見送ったアルフレードは、扉を閉めようとする彼女を引き留め、甘やかな声でそう切り出した。
「お願い? 何でしょうか?」
部屋に入ろうとした体をくるりとアルフレードに向け直し、エレナは首を傾げると、親切心で提案した。
「もし長くなりそうでしたら、中でお話しますか?」
アルフレードは普段、これまでの苦労も相まって、色々なことを我慢して飲み込む癖がある。
その彼からお願いがあるというのは珍しい事で、立ち話ではなく、椅子に腰掛けしっかりと耳を傾けるべきでは、と善良なエレナは思ったのだ。
開きっぱなしの扉の引き輪に手を掛けたまま、エレナは中へ誘うように体を僅かに端に寄せた。
窓には分厚いカーテンが降ろされ、柔らかく整えられたベッドシーツに、枕元の灯りが揺らめきを落としている。
無防備に部屋を晒し、さらには招き入れようとするエレナに、アルフレードは微かに甘い苛立ちを覚え、熱を孕んだ青色の瞳を妖しく光らせると、ずいとその身を彼女に寄せた。
「エレナ──俺のことを、信頼しすぎだよ?」
「あ……るふれー、ど……様?」
突然、扉と彼の間にグッと閉じ込められ、エレナは狼狽えた。
アルフレードは妖艶に笑みながら、彼女の頬に手を添え、無理やり上を向かせて視線を交わらせる。
吐息を感じる程に顔が近付き、アルフレードの耳から溢れた黒髪が、さらりとエレナの頬をくすぐった。
エレナの顔はカッと熱が集まり、信じられない程に熱い。
彼女を見つめる細められた瞳は、まるで獰猛な牙を隠す獣のそれだった。
「夜に部屋へ招かれて自制できる程、俺は優しい男じゃない」
エレナは、言っていることの意味がわかったらしい。
声を無くし、真っ赤な顔で眉を下げる彼女を見て、アルフレードは満足げに微笑むと、そのまま額にそっと触れるだけの優しい口付けを落とした。
「今日はこのまま、ここで聞いて。いいね?」
「は……はい」
エレナは頬を染めたままコクコク頷き、消え入りそうな程か細い声で返事をした。
「お願いって言うのは、俺の呼び方のこと」
「よ……呼び方……ですか?」
「そう。そろそろ、もっと親密な呼び方にして欲しいなって」
アルフレードは辺境伯として爵位を持つ高位貴族だが、エレナは侯爵家の令嬢に過ぎない。
今までは婚約者であっても、身分差を弁えエレナはアルフレードの事を敬称付きで呼んでいたのだが、気持ちが通じ合った今、彼にはそれが不満らしかった。
「様はいらない。敬語もなしで、出会った時のようにのびのびと話して欲しいんだ」
「な……るほど」
動揺が収まらないエレナは、視線をウロウロと泳がせてしまう。
思わずじりと後ろに下がり距離を取ろうとするが、すぐに背に固い扉がぶつかり、逃げられない。
「──ね、言ってみて。アルフレード、って」
アルフレードが、エレナの髪先をいじりながら、甘い瞳を向け、あやすように囁いてくる。
エレナの顔には熱が集まり、バクバクと音を立てる心臓が煩い。
ただ名前を呼ぶだけ。
それがどうして、こんなにも難しいのか。
一思いに呼べば、この甘やかな責め苦が終わるのはわかっているが、緊張で唇が震え、喉が張り付いて声にならない。
アルフレードは狼狽えるエレナの様子を見て、にまりと美しい口端を上げている。
「エレナ?」
面白がるように殊更ゆっくりと名前を呼ばれ、エレナの心は、緊張と羞恥の限界を超えた。
エレナは顔を真っ赤にしたまま、キッとアルフレードを睨むと、震える声を絞り出した。
「あ……明日から頑張りますから、今日はもう寝ます! だから、そんな意地悪な顔しないで!」
目に涙を滲ませ、毛を逆立てる子猫のようなエレナが可愛くて仕方がないアルフレードは、さらに彼女を追い詰めたくなり僅かに顔を寄せた。
その時。
「!」
エレナがグッとアルフレードの襟を掴んで背伸びをすると、瞳をギュッと閉じ、彼の頬に唇を押し付けた。
「あ……あんまり意地悪だから、お返しよ! おやすみなさい、アル」
目を見開いて固まるアルフレードに叫ぶように言い捨てると、エレナはするりと部屋の中に身を滑り込ませ、勢い良く扉を閉めた。
暫くの間、閉ざされた扉を呆然と見ていたアルフレードは、突然じわと顔を赤くさせ、ずるりとその場に蹲み込んだ。
「なんだ、あれ……可愛すぎる……反則だろう」
思わずため息を吐いて、両手で顔を覆ってしまう。
部屋の中では、扉越しにエレナも同じように赤い顔に両手を当て、その場にへたりと座り込んでいたのだが、その日、お互いがそれに気付く事はなく、夜が更けたのだった。
アルフレードは自分からは行けますが、エレナから来られると弱いです(*^_^*)
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