第44話 王妃様との内緒話
侍女にヒルダを連れて行かせ、衛兵たちにも下がるようにアデラインが命じると、広い食堂に残ったのはレティシアとウィリアム、アデラインの三人だけになった。
「さて。晩餐会を仕切り直したいところだけれど」
運ばれてきていたのは食前酒だけ。冷めて無駄にしてしまうとわかっていたから、王妃は料理を用意させていなかったのだろう。
アデラインが、ウィリアムににっこりと微笑みかける。
「準備が整うまで、ウィルは自室で待機なさい。その間、レティちゃんは私が独り占めさせてもらうから」
「え? ですが……」
途端に、ウィリアムが心配そうに顔を曇らせた。
明かされてみれば、王妃の態度は様々な思惑が絡んでのものだったのだが。それを差し引いても、二人きりにするのは冷や冷やするのだろう。
心配性な婚約者様に、レティシアは大丈夫ですよ、と頷いてみせる。
「……レティを苛めないでくださいよ?」
「信用がないわねぇ」
「前科がありますから」
「申し開きのしようもないわね。だからレティちゃんと仲直りする機会をちょうだいな、というお話よ」
アデラインが苦笑した。
ウィリアムはまた後でね、と優しく微笑んで、王妃の求めに応じて退室した。
二人きりになると、アデラインは申し訳なさそうに目を伏せた。
「ごめんなさいね。レティちゃんの聡明さに甘えて、多くの負担をかけてしまったわ」
レティシアは緩くかぶりを振る。
「もったいないお言葉です。王妃様方のお役に立てたのでしたら、わたくしは心より光栄に思います」
王室の役に立てたのなら、レティシアは嬉しく思う。それが、王太子の婚約者である自分の何よりの責務なのだから。
「伯爵の件、どう思った?」
神妙な面持ちで問われ、レティシアはどう答えたものかな、と少しのあいだ考えて。結局は、感じたままの感想を口にすることにした。
「……狂気の沙汰だな、と」
「そうね。とんでもないろくでなしだったわ。恐ろしいのは、こんなものは氷山の一角でしかないということ。闇深い秘密を抱えた貴族というのは、少なくはないのだから」
知ってしまったらゾッとするような秘密を抱えている貴族というのは事実、いるのだろう。特に、議会に名を連ねているような上位貴族の中には。
ほう、と嘆息したアデラインは、目元をやや鋭くして。
「ねえ、レティちゃん。王宮というのは、こういう場所よ」
王妃らしい、威厳に満ちた声で。
「王妃の権力は強いから、まだまだ幼いあなたを利用してやろうと、舌なめずりしている貴族は山程いるわ。この先、あなたの足を引っ張ろうと、今回の件が可愛く思えるほどの悪意に晒されるかもしれないわね。陰湿で、醜悪で、げんなりするくらい陰鬱な悪意に」
ひたと見据えてくる瞳は、真剣そのもの。
「レティちゃんに、立ち向かう覚悟はあるかしら?」
あるかといえば、レティシアはとっくに覚悟を決めているつもりだ。どんな悪意に晒されようと、王太子の婚約者として捌ききってみせよう、と。それができるよう、父は自分を育てた。
レティシア自身は、自分にはその能力があると信じている。だが。
「王妃様は、わたくしがウィル様の婚約者に相応しくないとお考えなのでしょうか……?」
レティシアは至らない部分を数多く露呈させてしまったように思う。
能力があると思っていたし、実際に、ありはするのだろう。けれど、それでもまだまだ足りていない部分は多々あって。
アデラインが求めるウィリアムの婚約者としては、物足りないのかもしれない。
しゅん、と肩を落とすレティシアを見て、アデラインははっきりと苦笑した。
「そうではないわ」
緩やかに、かぶりを振り。
「人の上に立つ才能があるからといって、他者を駒のように扱ったり、都合のいい結果に繋げるために陥れたり。そんなことをして、いい気分にはならないでしょう? これは純然たる褒め言葉なのだけれど。レティちゃんはその手の才覚が卓越しているわ。クラウスの血でしょうね」
ただ、と。アデラインの瞳が優しく細まった。
「クラウスと違うのは、あなたはセレスにも似ているということよ。セレスに似て、あなたは心優しい子。出来はしても、心が耐えられるかは別。今回の件だって、あまり、気持ちのいいものではなかったでしょう?」
招待状に纏わる嫌がらせを捌いていた時、レティシアの胸が痛んだのは事実だ。
ヒルダのやり口はレティシアからすれば他愛なく、すべてが想定の範疇。そんな風に相手の心理を読み切れる自分の方が、性格が悪くて悪者のように思えて。とても、疲れた。
「……楽しいものでは、ありませんでした」
そうでしょうね、と同調したアデラインが。
「ねぇレティちゃん。王太子の婚約者という重責から、解放される気はない?」
思いもよらない提案を口にした。
「え?」
レティシアはただただ、息を呑む。
衝撃のあまり二の句を告げないでいる合間に、アデラインが言葉を続けた。
「王家は宰相クラウスを手放すのが惜しくなった。だからあなたとウィルの婚約を白紙に戻す。この理由なら、あなたの名誉を損なう恐れはないわ。昨今は恋愛結婚も増えてきていて、幼少期に定めた婚約を解消するのは珍しくもない。婚約解消が、レティちゃんの将来に響くことはないでしょう」
現実的な見解は、アデラインが今思いついたものとは思えなかった。彼女の中には、以前からこの考えがあったのだろう。
「賢くて、可愛らしくて、思いやりに溢れていて。あなたは素敵な女の子だもの。きちんと見る目のある殿方なら、気づくでしょう。重圧から解放されて、陰謀とは無縁の世界で、あなたを愛してくれる人と穏やかに暮らす。そんな生活に憧れはない? クラウスのことは一度頭から追いやって、真剣に検討してみてほしいの」
レティシアの良さに目を向けて、愛してくれる人。
言われて、想像しようとしたレティシアの頭にふっと浮かんだのは。ウィリアムはどうなるのかな、という心配だった。
いつだってそう。レティシアの頭には彼のことしかなくて。だから、考えるまでもないのだ。
「王妃様がおっしゃるとおり、わたくしはこの先も多くの悪意に晒されることになるのでしょう」
将来王太子妃という立場になるのだから、それは避けては通れないのだ。政に己の意思を介在させるために、王族やそれに近しい者を傀儡にしたがる貴族は絶対に出てくる。
「そしてそれは、王太子であるウィル様も同じく、です」
ウィリアムだって、悪意に晒される立場にあるのは同じこと。
「……ヒルダ様との小競り合いで沈んでいた時、ウィル様はわたくしを抱きしめて、慰めてくださいました。この先きっと、同じようにウィル様が傷つく機会もあるはずです。その時、ウィル様をお支えするのは誰かではなく、わたくしでありたいです。それが……わたくしにとっての、幸せです」
名門貴族の家に生まれた者として、王国の繁栄のために尽くしたい、などと言えたら格好いいのだろうけれど。
レティシアにとっては、これがすべてだった。
子供の頃からずっとずっと大好きな人が、王太子だから。レティシアはその隣に立つために必要な努力をする。それだけ。
レティシアの回答は未来の王太子妃として、全然満点じゃなかったように思う。及第点かすらも怪しかったはず。
だが、アデラインはそんなレティシアの言葉を叱るでもなく。
「……そう。それなら、約束してちょうだい」
とても優しく、微笑んで。レティシアの手を、そっと握った。
「私はあなたの味方よ。何かあった時は必ず……私が、必ずあなたを守ると誓うわ。だから頼りにしてちょうだい。王太子の婚約者だからといって、一人でなんでもできないといけないわけではないの。あなたがちょっと抜けたところを見せたって、何かに失敗したって、がっかりなんかしない。寧ろ、そんなレティちゃんを私はたまらなく愛しく思うわ。きっと、ウィルだって」
「ですが、お父様は……」
物心ついた頃から、レティシアは父に完璧を求められてきた。王太子の婚約者として、他者に付け入る隙を与えてはならない、と。他者に助けを乞うのは、弱味を晒すことと同義であり、能力不足による甘えだと。
「クラウスの教えのすべてを否定する気はないわ。レティちゃんが王太子妃になる上で、力になるものもあるでしょう。それが、クラウスなりのあなたへの愛情だから」
アデラインは困り顔でそう言って。小さく首を横に振った。
「でもね、一人で頑張る必要はないの。それだけは覚えておいて。考えて、悩んで、答えの出ない問題に直面したら、レティちゃんが信頼できると思う人を頼ればいいの。あなたはまだ十四歳。この先たくさんの出会いが待っている。その中で、レティちゃんが信頼できる人を少しずつ増やしていってちょうだい」
王妃の瞳の色があまりにも切迫したものだったから、レティシアはおずおずと頷いた。
「……善処、してみます」
「それで十分よ。すぐには難しいものね」
クスリと微笑む王妃の様子に、レティシアはふと気づいた。
「このお話をするために、王妃様はわたくしを王宮に招いてくださったのでしょうか?」
以前、レティシアはアデラインに尋ねた。自分が呼ばれたのは公務のためではなく、別の目的があってことなのか、と。それに対して彼女はこう答えた。公務の優先度は三番目くらい、と。
未熟なレティシアへの助言と、ランドール家を裁く材料を得るために王宮に招かれたのかな、と思ったのだけれど。
アデラインが悪戯っぽく瞳を眇めた。
「これは二番目よ。ランドール家の裁きと地続きの、ね」
ぱちりと、目を瞬かせる。
「では、一番の目的というのは……?」
アデラインが、古びた振り子時計に視線を向ける。時刻はまもなく二十一時になろうかというところだった。
「ここで日付が変わっていれば素敵な演出になったのだけれど。流石に無理だったわね」
苦笑した彼女は、あどけなく首を傾けた。
「明日は何の日かしら?」
「明日、ですか?」
色々なことが起こりすぎて、そもそも今日が何日だったかと、一瞬考えてしまった。
「明日は十二月二十八日よ」
「二十、八日……」
もしかして、と。目を瞠る。
「ずっとね、レティちゃんのお誕生日を一番にお祝いしてみたかったの」
アデラインがふふっと笑んだ。
「ちょっと気が早いけれど。十五歳のお誕生日おめでとう、レティちゃん。生まれてきてくれてありがとう。あなたと今こうしてお話しできていることが、私はとても嬉しいわ」
幸せそうに微笑んで、アデラインはレティシアを抱きしめた。
王妃様の真意は読めないことが多かったけれど。この抱擁にたっぷりの愛情が込められていることは、疑いようがなくて。
レティシアは、泣きそうになるほど嬉しかった。




