第31話 二人の時間
レティシアの部屋の扉が叩かれたのは、十八時を過ぎた頃だった。侍女が開けてくれた扉の向こうに立つ人物の顔を見て、レティシアはパッと瞳を輝かせる。
「ウィル様……っ!」
「今、大丈夫かな?」
「もちろんですわ」
ウキウキと招き入れるのと入れ替わりに、侍女が部屋を出ていく。時計の針を再度確認してから、レティシアは首を捻った。
「夕食のお時間には、まだ早いような……?」
今朝女官長が伝えてくれた予定では、本日の公務は取りやめ。進捗に問題はないので今日は身体を休めて夕食は自室で殿下とゆったりお取りくださいませ、と言われていた。
「食事の前に話しておきたいことがあって」
そう言ってソファに向かおうとしたウィリアムが、ある一点で視線を止める。つい先ほどまでレティシアが向かっていた机だ。
「これは……?」
散らばった紙を一枚手に取って、ウィリアムが目を瞬かせた。
「明日から再開する公務への備えですわ」
明日から招待状の準備に取り掛かるので、その事前準備をしていたのだ。四枚の紙にはレティシアの文字が几帳面に並んでいる。乾き切っていないインクから、その労力をざっと計算したのだろうか。ウィリアムが困り顔で息を吐く。
「レティって、実は仕事中毒だよね」
「はい……?」
言われて気づく。これでは身体を休めたことにはならないかもしれない。レティシアは眉を曇らせた。
「わたくし、またウィル様にご心配をお掛けしてしまいましたか?」
手持ち無沙汰だったのでやれることをやっておこうとした結果、集中し過ぎてやめ時を見失っただけなのだけれど。半日近くを作業に費やしたのは、確かに息抜きとは言い難い。
昨日、ウィリアムを心配させるような行動は控えると心に決めたばかりなのに。
しゅん、と項垂れたレティシアを見て、ウィリアムが頬を緩めた。
「レティが王太子妃になったら執務に精を出し過ぎて僕は構ってもらえなくなりそう。どちらかといえばそちらが心配、かな?」
悪戯っぽい瞳を見れば、本気で言っているわけじゃないとすぐにわかった。一つの物事に打ち込み過ぎるのは危ないから適度に休憩してね、ということ。レティシアはふふっと笑みをこぼす。
「わたくしの最優先事項はいつでもウィル様ですから、お呼びとあらば何を置いても優先しますわ」
「レティが適度に息抜きできるよう、僕が目を光らせておかないとだね」
「わたくしが仕事中毒症を起こさないよう、構い倒してくださいね?」
もちろん、と微笑んだウィリアムが差し出した手を取って、ソファに並んで腰掛ける。
「サーペント伯爵から、有益な情報は得られましたか?」
今日の午後、ウィリアムはアレクシスの父と会っていたはず。言いにくそうに口ごもったウィリアムは、滅多にない険しい面持ち。気持ちのいい話にはなりそうもなくて、レティシアは自然と居住まいを正した。
「例の宝物庫の一件で諜報部はモーガン男爵家だけでなく、ランドール伯爵家も調査したみたいなんだ。諜報部によると、伯爵は昨年の夏にエストネルである花の種を買い取ったらしい。ベルリールって名前の花なんだけど――」
あぁ、とレティシアは相槌を打つ。
「ベルリールの毒性は、王太子妃の座を狙う伯爵には都合の良いものですわね」
「知っているのかい?」
「その手の知識は国の内外問わず、父に仕込まれましたから。存じておりますわ。ベルリールの毒素に触れた白薔薇は鮮やかな青色に変化するという話ですけれど、実用的な方法ではありませんから対策は難しそうですわね」
しみじみとした感想に、ウィリアムがはっきりと苦笑した。
「怖くない?」
「怖い、ですか?」
「君に害が及ぶ可能性を伏せて、公務という名目で王宮に招いたんだ。不安にならない……?」
ウィリアムの懸念をようやく理解して、ふるふると首を横に振る。
「王妃様が目を光らせていらっしゃる後宮に毒物を持ち込むのは、容易ではないかと思います。また、王妃様の性格上、伯爵に後ろ暗い点があるのでしたらモニカ様に監視をつけていそうです」
レティシアはそもそも、自分に危険が迫る可能性をまったく視野に入れていなかった。
「……サーペント伯爵と話した後、母上にも会ったんだ。レティの見立ては当たっているね。そのものズバリ、だよ」
「でしたら、わたくしが恐れることは何もないかと。王妃様が然るべき対処をなさるのでしょう」
レティシアが自信たっぷりに答えると、ウィリアムはなんだか気の抜けた笑みを浮かべた。
「前から思っていたんだけど。レティの母上に対する評価って、物凄く高いよね」
「公の場では陛下のお側で穏やかに微笑んでいらっしゃるお姿の印象が強いですが、その知略の冴え渡りようは王妃というお立場が証明しておりますもの」
アデラインの生家は子爵家だ。王家に嫁ぐには厳しい血筋でありながら、その頭脳だけで王国一の貴婦人にまで上り詰めた人。そして何よりも。レティシアにとって誰より信頼する婚約者の母親なのだから。
口にするのはちょっと恥ずかしかったので最たる理由は心に秘めて、レティシアは話題を変えた。
「ところで、ウィル様? 一つ気になった点があるのですが」
目線で先を促されたので、続ける。
「先ほどウィル様は、伯爵がベルリールを買い取ったのは昨年の夏だとおっしゃいました。当時の伯爵家は王室と距離を置いていましたから、王太子の婚約者を害すために前もって毒を用意するというのは妙なお話です」
伯爵の野心と毒の性質を考えれば用途が王太子の婚約者という見方は、間違っているとも思えない。
「伯爵の行動は、娘が行儀見習いに上がる日が訪れると事前にわかっていたように映ります」
青空みたいな瞳が瞠られたかと思うと、ウィリアムはクスクスと笑い出した。
「どうして笑うのでしょう……?」
「まだ十四歳っていうのが末恐ろしいなぁ、と思って」
「……褒め言葉と受け取ってよろしいのでしょうか?」
「最大級の、ね。レティは僕の自慢の婚約者なんだから」
慈しみに満ちた眼差しが間近から見下ろしてくるので、なんだか恥ずかしくなってくる。
揶揄うような笑みを引っ込めて、ウィリアムが真剣な声音で言う。
「僕も同感だよ。伯爵令嬢が行儀見習いに上がることになったのは、宝物庫の一件がきっかけだ。あの日の裁判に僕らが知らされていない事情があるかもしれないから、諜報部の報告書を見せて欲しいってサーペント伯にお願いしておいた。アルトリウス公の許可が必要だから少し時間が要るみたい。進展があったら改めてレティに相談するよ。それで――」
一度言葉を切ったウィリアムが、意を決したように言う。
「さっき、母上が僕らの婚約に纏わる話をしてくれたんだ」
ウィリアムが語った内容の衝撃は、レティシアにとってとても大きなものだった。二人の婚約を父が打診したことも、レティシアのことをまったく目に入れていないわけじゃないというアデラインの見解も。何もかもが、ピンと来なかった。
「……レティ?」
黙り込むレティシアを気遣うように、ウィリアムが心配そうな顔で覗き込んでくる。ウィリアムがどうしてこの話をしてくれたのかは、わかる。レティシアの父への期待を、誰よりも理解してくれている人だから。
冷たい態度には何か事情があって、本心ではレティシアに愛情を持ってくれている。そんな期待を何度も裏切られて、今に至る。多少なりとも気にかけてくれているという言葉を鵜呑みにするのは難しかった。
「……父は、わたくしが王宮で如才なく立ち回れると考えていた。今は、その事実だけを受け取っておきます」
想定できる伯爵令嬢の嫌がらせを苦にすることなく、学園での失態を取り戻せると見越して王宮に送り込んだ。その事実だけを。
ウィリアムは何も言わなかった。黙したまま、レティシアの頭を優しく撫でてくれた。その心地よさにしばらくのあいだ身を委ねていたレティシアは、あっ、と思い出す。
「そうでした。ウィル様、わたくしもウィル様にお話ししたいことがあるのです」
「うん?」
「わたくし、気づいたことが一つあるのです。王妃教育がなくなると、驚くほどモニカ様と顔を合わせません」
昨日と今日。レティシアは一度もモニカと顔を合わせなかった。
「……王妃教育は、君とモニカ嬢との間に接点を作るためってことだね。彼女の嫌がらせをレティの人脈作りに利用するためなのか、他の意図もあるのか……母上の言い方だと後者なのかな」
「なんにせよ、王妃教育という機会が失われた以上、モニカ様は必ずわたくしの公務を妨害してくると思うのです。その対策のために、ウィル様の力をお借りしたくて」
ウィリアムが目を瞬かせる。
「レティが僕に頼み事なんて、珍しいね」
嬉しそうな響きが孕んでいたので、レティシアもまた、ぱちぱちと瞬きする。
「珍しいでしょうか?」
「レティから何かをお願いされるのは記憶にないと思うけど……。ハーネット男爵令嬢の件だって、レティが頼ったのは僕じゃなくてアレクだったし」
ちょっと拗ねたような響きだったのでその可愛らしさに頬を緩めつつ。優秀な記憶力を駆使して過去の出来事を遡ったレティシアは、異を唱えた。
「わたくし、ウィル様に膝枕がしたいとお願いしましたわ。それも、二回も」
「それはちょっと、意味合いが違うような……」
「わたくしにとっては死活問題にも等しい、とても重要な頼み事ですわ」
「またいい加減なことを言う……。それで、僕への頼み事って?」
戯れはそこまでにして、レティシアは真剣な面持ちで内容を口にした。




